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今までの仕事|人の役に立つ仕事がしたい

志望動機

学生時代の就活から、変わらない事が一つある事を発見しました。
それは

人の役に立つ仕事がしたい

今まで、履歴書の志望動機に、必ず書いていたのが、この言葉でした。
どんな、業種でも、これが実現出来そうな会社の業務であれば、この言葉に繋がる文章を書いていた記憶があります。

現在、私は56歳。
過去、志望動機を書いて入社した会社で、どんな仕事をし、本当に「人の役に立つ仕事」が出来ていたかを検証してみようと思います。

初めての会社

社会人として、入社した会社で私が所属した事業部は、官公庁向けに電機機器を製造し販売する事業を行なっていました。
その中で私が担当していたのは、警察向けの交通安全機器の中の道路交通情報提供装置を担当していました。

私は、機構設計、ハードウェア設計、ソフトウェア設計などの専門学部の大学を卒業していませんので、設計者にはなれません。
そこで、私が希望したのは、目に見える道路上に情報を提供している、図柄を作ってみたいというのが志望動機でした。

ドライバーが安全に運転ができるように、注意喚起を促したり、この先の交通情報をお知らせする事で、ドライバーの速度超過による事故を防ぐ注意や、通行止め、渋滞情報を提供する事で、ルートの変更を促して未然に渋滞を回避させるか、この先の道路情報を知らせる事で、ドライバーに心理的な負担を軽減させる事ができる。
有益な情報を提供する事で、ドライバーの役に立っているのではないかと、考えていました。

実際に提供しているのは、警察の方で、私達は、提供できる仕組みと、提供装置を製造販売している会社の社員という位置付けで、直接肌でドライバーの方が役立って良かったよという声を聞けるはずもなく、いつしか「人の役に立つ仕事をしたい」という思いは、消えさってしまいました。
他にも色々な案件に携わって来ましたが、仕事が忙し過ぎて、自分の理想としていた仕事への意義なんて、考える事すらなくなりました。

結局、自分がやりたいかどうか考えて仕事を選ぶなんて事はなく、与えられた案件をひたすらこなしていくだけでした。
大抵の人は、皆んなそうなんじゃないですかね?

でも、色んな案件に携わって来ましたが、入社時に携わってきた、交通情報提供装置は、私にとっては思い入れが強く、この製品を通してあらゆる分野の勉強をさせて頂きました。

交通情報提供装置がどんなものか、分からない人が殆どだと思いますが、大多数の人が普段目にしているものです。

交通情報提供装置

本当は、この製品から何を学んだのか、記事を書いてみたい気持ちもあります。
あまり、一般受けするものでもないので、興味ある人もいないかな?

2番目の会社

最初の会社では、21年勤めましたが、早期希望退職で45歳で退職しました。

この会社は、ソフトウェア開発請負会社で、契約社員として入社しました。
以前の会社とは、扱う業種が全く違いますが、以前は、請負会社に仕事を出す側でしたが、今度は、仕事を受ける側になります。
また、契約社員という立場なので、正社員の方から仕事をもらうという感じです。

正直やりがいとか、そんなものは感じませんでした。
全てが受け身。自分の意見なんて必要ありません。
与えられたタスクを期限内に処理するだけの世界です。

なので、「人の役に立つ仕事」という意味で、捉えられませんでした。

官公庁の仕事から、民間の仕事という意味では、人に近づいた感はありますが、肌感は全くないですね。

結局、2年半で退職しました。
人間を否定されたような、言い方をされたので、私には無理な会社でした。

3番目の会社

この会社は、結婚相談所を運営している会社でした。
この会社の支店で、面接を受けましたが、面接をして下さった方が、今の妻です。

何がどうしてそうなったかは、割愛します。
夫婦間の事は、こちらの記事をご覧下さい。

この会社の仕事内容は、独身の方に結婚相談所に入会してもらって、ご成婚まで導くという物です。
私の仕事は、独身の方を入会に導くという仕事です。
聞こえは、いいかもしれませんが、ようは営業です。
当初、イベントの企画とか書いてあったので、そっちに興味があったのですが、こちら給料面とか女性が対象と言われ、カウンセラーという職種なら応募できるという事だったので、内容もよくわからず、じゃそっちでと申し込みをしました。
そして面談でしたが、やった事はないけどやってみたいと思って、志願しました。
なぜか、受かって入社する事になりました。

面接をして下さった方が、支店の責任者で室長と呼ばれていました。
室長が上司で、指導を受ける事になるのですが、忙しい方で殆ど事務所にいませんでした。

入社してすぐ、本部から当支店を統括しているマネージャーという方が、来て洗練を受けました。
今までの経験とか常識とかは、全く関係なく、異次元の仕事で、何をどうすればいいのか、全く掴めないし、自分に出来るんだろうかという、恐怖心が強くなって行きました。

その前に、頭がバグってしまう。
そのマネージャっていうのが、若くて可愛い系の女子。
なかなかのやり手で、マネージャまで上り詰めたみたい。

今までの仕事は、受注した案件をこなしていただけに過ぎません。
自ら仕事をとってくるという事をしてなかったので、営業の仕事って大変だと実感しました。

自らアポをとって、客先まで出向いて、システムの説明をして、契約をする。
これが一連の流れになるのですが、私の場合、アポが取れなかったので、システム説明まで行く事さえできないでいました。

室長の場合、初日から2件アポが取れたというので、やはりベースの違いを感じました。
技術系って、パソコンが相手なので、分からない事があっても、本やネットを使って調べられればなんとかなったのが、人間相手で、調べてどうこう出来るものでもなく、トンネルを抜け出せないでいました。

結局、契約できたのは、1件だけ。
しかも、先輩の同伴での契約。

自分では、無理という思いと、使えない営業マンを抱えてられないという事情も理解していたので、6ヶ月で辞める事にしました。

辞める直前に、1件アポがとれました。
もう辞める予定だったので、面談は室長に委ねました。
見事、契約に至りました。
その後、集金の際に、私をお客さんの所に連れて行ってくれました。

契約は、本人契約と親御さん契約の2種類あって、この時は親御さん契約でした。
お母様とお電話でお話して、アポが取れました。
そのお母さまが、私に会いたいと言ってくれているそうで‥
お母さま曰く、こういう電話はよくかかってくるけど、全部断って来た。
でも、私と話をしていたら、受け入れてくれたらしいのです。
当時、どんな話をしたかは、記憶がないのですが、辞めるというのを決めて、心に余裕があったのかもしれません。
そしたら、自然とお話しが出来たのかな?

退職後、暫くして、あのお母さんの娘さん、ご成婚までいった事を聞いて、やっぱり嬉しかったです。
私だけの力ではなかったけれど、私がそのきっかけを作れたのは、事実なので、やっと‥

「人の役に立つ仕事」が出来ました。

小さな事かもしれませんが、私にとっては大切な出来事の一つになりました。

そして起業へ

その後も就活はしていたのですが、結局どこも採用されませんでした。

俺って、この社会で必要とされていないんだなと思うようになっていきます。

この時、49歳になる年でした。

色々あって、前職の室長(今の妻)と一緒に起業して、飲食店を一緒にやる事になりました。

飲食店は、直接お客さんと向かい合ってする仕事です。
今までの仕事の中で、一番肌感覚がわかる仕事でもあります。

最初は、夢溢れ楽しい時間でした。
起業なんて考えた事も無かったし、しかも接客業、経験した事もないのに。

でも、やる事全てがはじめての経験。
飲食業は、以前妻がやっていたので、ある意味おんぶに抱っこ的な、気持ちでいました。
幸い物件も見つかり、妻の前夫の母が経営している店(元義母と息子が一緒にやっている飲食店)が近くだったので、それも一つの安心感がありました。

でも、実際営業していくと、自分が思い描いていた店とは、どんどんかけ離れていってしまいました。

でも、そんな中、お店に来てくれたお客さんも沢山いらっしゃいました。

お店をやらなければ、出会う事も無かった人ばかりです。

私達が、お店を開いた事に、誰かの役に立ったかというと、それは、店を訪れてくれたお客さましか、答えをもっていません。

私達は、人の役に立つというよりも、お客さんに助けてもらっているという、感覚でしかありませんでした。

起業してお店を始めて、7年が過ぎましたが‥
無理矢理自己資金を注ぎ込んで維持して来ただけ‥

やっぱ、自分は、この社会で必要とされていないんだと、数年前から思うようになっていました。

そして、病との格闘、体力の低下が追い討ちを‥

今思っている事は、こちらの記事をご覧下さい。


最後に

今までの人生で、私の中で思い入れが強い「人の役に立つ仕事」って、あるかなと考えた時に、思い浮かぶのがこれです。

写真は素材集から引用しているので、内容は無視して頂いて‥
全国の一般道で警察が整備した交通情報提供装置(情報板)で表示されている文字フォントです。

私が新入社員として配属された際に、新製品として納入が決まっていた新しい情報板がありました。
今までの情報板の文字は、ガタガタしていました。
この製品は、文字が滑らかに表示できるようになったというのが、この情報板の特徴でした。

納品は決まっていたのに、表示するデータ系は、何の準備もできていました。
だんだん仕事に慣れてきた頃、文字フォントの話になって‥

 私:「どうするんですか?」
課長:「作るんだよ」
 私:「誰がですか」
課長:「‥‥」無言で指だけ刺された
 私:「俺ですか?」
課長:頷いて、「よろしく!」と‥

マジっすか⁉️
どうやって‥

一応手順だけは、教えてくれたんですが‥

ナールD体というフォントの写植文字が印刷された紙を渡され、
これをスキャナーでパソコンに読み取って、
1文字づつ、ドットデータでにしていく
という事でした。

ここから作業を開始する事になり‥
直属の上司と相談しながら、ソフトウェア開発部署にも入ってもらって、実現方法の検討にはいっていきました。

当時は、まだWindowsも無く、MS-DOSで動作するパソコンがあるには、あったけど
まだ主流ではない時代。
当時は、ソフトウェアの開発は、富士通のパソコンが主流でした。

ソフトウェア担当者が既存のツールを応用して、なんとかツールを提供してくれる事に。
作業は、地道な作業になるため、マンパワーが足りないと、課長に進言し、専属に派遣社員さんを雇って頂き、開発が始まりました。

色々な方のサポートを受け、どうにか完成する事ができました。

これは、今から33年前の話。
私は、既にこの業界、会社から離れていますが、情報板自体は、老朽化で更新しているもの、新設されているものがあると思います。

文字フォントは当時のものを使っているはずで、今も私が開発に携わったものが、公共の場で多くの人に見てもらえているのは、感慨深いですね。

皆さんの役に立ってますよね!

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