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働く女性の介護体験記(11) 最終回:施設で迎えた最期
働く女性の介護体験記の最終回です。母の最期の場面のお話です。
今回のメッセージは、「家族の力が弱くなった現代においては、自宅よりも施設で最期を迎えることの方が、良い場合がある」ということです。
1:母の最期
母とわたしは、延命治療をことわり、特別養護老人ホームで最期を迎えることになりました。
主治医に「母はいつまで生きることができそうですか」と尋ねました。
主治医は、正確にはわからないと言われました。数時間後かもしれないし、明日かもしれないし、数週間後になるかもしれない、とのことでした。
そこで、わたしは東京の姉に電話をかけ翌日にはきてもらいました。
姉が特養について、一緒に母に声をかけてから、約30分後には、母の意識はなくなってしまいました。
さらに数時間後だったでしょうか、わたしがトイレにいって母の部屋にもどると、母のベッドサイドへ、姉以外に多くのスタッフが集まってきていました。
ひとりの看護師さんが母の脈を測っていました。そこで、ああ、もういよいよ母は亡くなるのかと覚悟をしたんです。
ところが、母は持ち直しましたんです。ちょっと拍子抜けしたんですが、集まってくれたスタッフも、皆も安堵して自分の持ち場に戻っていきました。
2:泣いてくれたスタッフ
その後、意識のなくなった母のもとで、わたしと姉とふたりで過ごしましていました。
夜10時過ぎに姉が気が付いたのですが、母は呼吸をしなくなり、いつの間にか静かに亡くなっていました。
夜おそかったにもかかわらず、家に帰っていた主任の介護士さんや看護師さんや管理者の方が、次々とかけつけてくれました。
驚いたのは、当日は担当でもないのに、わざわざか来てくださって、泣きながら母の名前を読んでくださる人もいました。
昼間に母の脈がなくなりかけた時も多くのスタッフが部屋に集まってくれたのにも、おどろいたのですが、この時もああ、こんなにきてくれるんだとびっくりしました。
わたしは、自分も悲しみながらも、ぼんやりとその様子ながめながら、お母さんは、本当に皆に好かれていたんだなと思いました。
3:強者だった母
母は、社交的ではありました。でも、どちらかと言うと親戚でも、家族の中でも好かれていた方ではないと思います。
なぜかと言うと、正義感が強い人なので、「こうあるべき論」をかざして、皆にそれを押し付けようとするのです。だから、自分の妹、つまりわたしの叔母からは「女王」とまで呼ばれ、煙たがられていました。
ある時、わたしと母が住んでいる団地で、共同の階段にゴミが多いのに、だれも掃除をしようとしないと、母は怒っていました。
そして、ある時、母が「掃除当番」を決めて順番に掃除するように皆に伝えると言い出したんですね。
わたしは慌てました。皆働いていたり、子育てで忙しい人ばかりです。きっと、皆掃除どころではないだろうと思いました。なので、母がこんなことを提案したら、団地内で母が嫌われてしまい、わたしも肩身が狭いと思いました。
母を説得するのに苦労しました。最後の決め手は、「おかあさん、自分の娘ですら、階段の掃除をする時間がないのに、他の人たちができると思うの!」と言いました。
すると母、怒った声で「もうわかった!」と言って、不貞腐れて寝てしまいました。
母は、なんでも器用にこなしますし、戦後を生き抜いた、強靭な精神力の持ち主だったのです。だから、どちらかと言うと、いつも強者の立場にいたんです。
弱い立場の人や、不器用な生き方しかできない人を、精神力が弱いとか、努力が足らないとか、軽蔑しているところがありました。
そのためか、母にはあまり多くの友人はいなかったですし、夫婦関係もよくなかったです。
そんな母だったので、このように多くの人が母の最期にかけつけてくれて、泣いてくださることは、想定外でした。
4:「さみしい」と言った母
もう一つわたしには驚いた場面があります。
母が亡くなる1週間前だったと思います。
わたしが特養に母を訪ねて帰ろうとすると、母はダイニングルームで車椅子に座っていたのですが、わたしとスタッフのいるところで、ぼそっと「さみしい」と言ったんですね。
その時スタッフの方は、「み〜んなさみしいのよ。そんなこといったらだめですよ」と、母を嗜めたんです。
実は、この時、わたしはとてもおどろいたんです。
なぜかと言うと、母は「さみしい」ということばが大嫌いだったからです。
倒れる前までは、母はいつも、「わたしは『さみしい』なんて一度も思ったことない。そんなこと思う人の気が知れない」と言ってました。
人間はどんなつらいことがあっても、それを顔に出すんじゃなくて、いつも堂々としているべきだ、というのが母の持論でした。
だから、わたしは小学校の時に、学校でいやなことがあっても、母の前で落ち込んでいるところを見せると、母から「ダメな子」と思われるんじゃないかと思って、どんな時でも平気な顔をして、いつも自分の部屋に入ってから、もんもんとしていました。
でも、大人になってから、だんだん、さみしいと思う人もたくさんいるし、そう思ってもいいんだと学習しました。だから、母の考えが必ずしも正しいことではないと思うようになったんですね。
だから、わたしが30過ぎたころに、母に一度いったことがあります。「おかあさんのように強く生きられる人ばっかりじゃないよ。世の中の半分の人は、おかあさんのようには生きられない」と。
でも、母は「なに言っているの」というような顔をして、聞き流していました。
だから、そんな母が「さみしい」と言ったことに驚いたんです。
一方では、これでお母さんも私たちの側にきてくれたのかなと思いました。
5:施設で広がった母の世界
嫌われていた母が、なぜこのように皆に慕われたのか、また、なぜあんなに毛嫌いしていた「さみしい」と言う状態を認めたのか。
わたしは、これは、特別養護老人ホームが母に与えてくれた環境のおかげだと思います。これには2つの説明があります。
一つは、私たち家族や親戚は、固定観念にとらわれて母をみてしまう傾向にありました。一方、それがない特養のスタッフにとっては、母の態度は新鮮にうつったんだと思います。
だから、多くのスタッフが、わたしたち家族からみると「うっとうしい」と思う態度を逆に「たのもしく」そして「頼りになる」とみてくれたんじゃないかと思います。だから、母の方も、そのスタッフの信頼に応えようとして、母なりに相手に合わせようとしたんじゃないかと思います。
これは、ある意味、社会化のプロセスで、これは家族だけではできなかったことです。特養という社会で過ごさせてもらったおかげで達成できたことかなと思います。
もう一つは、さみしさの件ですが、
これも、特養の環境が、母が「さみしい」と言うことを許してくれたからだと思います。
さみしい、と言えるためには、やはり、聞いてくれる人が必要です。
母は、昭和一桁生まれで、戦前・戦中・戦後と厳しい社会環境を生き抜いてきました。
満州から引き上げる時の話は、本当に壮絶です。弱音を吐けば、自分の命もなくなるような、そんな修羅場をくぐり抜けてきたんですね。
もしかすると、そんな厳しい状況の中、母はいちばん上の子供として、聞き役であっても、聞いてもらう立場ではなかったのではないでしょうか。
その時培われた母の強いメンタリティは、結婚しても、そして、わたしとの生活の中でも、変わることはなかったんだろうと思います。
でも、特養にきて、自分の体が弱くなった時に、いろいろなスタッフたちと関わるなかで、自分の肩の荷を下ろすことができたんじゃないでしょうか。
きっと「さみしい」と思ってもいいんじゃないかって思えたんですね。
戦後ひとりで背中に背負ってきたものを、ここにきて、ようやく下ろすことができたですね。
これもわたしだけで母を看取ったとしたら、できなかったことです。
だから、特養は母にとって、三途の川を渡る上で、必要な中継地点だったんだなと思います。
ということです。
ではでは。
最後までこのシリーズを読んでいただき、感謝します。