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働く女性の介護体験記(8) 仕事と介護は両立するのか

今回は、働く女性の介護体験記シリーズの8回目です。

今日は、わたしが、仕事を続けながら母の最期をみとった時の、前半の話をします。

今日のメッセージは、「介護休暇を使うのは簡単でなく、介護と仕事を両立させるのは予想以上に難しい」、ということです。

1:母の状態が悪化

さて、今まで特養に入って母が落ち着いてきたことを話してきました。

そんな母も、いよいよ体調が悪くなり、入院することになるのです。

特養に入って2年半くらいたったころだったと思います。

もともと、母は心臓や肺の機能が悪かったので、そんなに長くは生きられないとは思っていました。手術後2年半も元気で生きてくれたことが、奇跡と思えるほどでした。

そんな状態でしたから、ある日、母は、呼吸が苦しくなり、救急車で特養から病院へ搬送されました。

検査の結果、動脈瘤という心臓の近くの血管に大きな瘤ができていて、直径が8センチにもなっていました。

その動脈瘤から滲み出るように出血もしており、主治医の先生は、多分、あと2週間くらいしかもたないのではないかと言われました。

これでいよいよ母の最期かと思いました。

ただ、母の生命力が予想以上に強く、その後元気をとりもどし、退院ができるまでになりました。

ただ、この時、わたしは本当の最期だと思いました。それで、この状態では、元いた特養にもどるのは難しいと思い、自宅に連れて帰ることにしました。

第一、いつ動脈瘤が破裂するかわからないようなリスクの高い状態です。夜間に看護師さんのいない特養では、きっと、断られるだろうと考えました。

また、母には最初は、行きたくないと言っていたのに、むりやり特養に行ってもらったという経緯がありました。だから、今回家に帰れると言うと、母は喜ぶかなと思いました。

わたしとしては、最後の親孝行にしようと思ったんです。

2:仕事はやめられない

でも、いつ破裂してもおかしくない動脈瘤をもつ母を、自宅へ連れて帰るというのは、そんなに簡単ではありません。

いつ何が起こるかわからないので、24時間の観察が必要になります。

かと言ってわたしは今回は仕事を辞めることはむずかしかったです。

その大学に、正規の教員として採用してもらって、まだ2年とちょっとしかたっていなかったんですね。

だから、まだまだわたしの貯金も溜まっていません。今仕事をやめてしまえば、親子ともども路頭に迷ってしまいます。

ここで、普通の人は、じゃあ「介護休暇」をつかったらどうかと考えるかもしれません。

たしかにその制度はわたしも使おうと思ったら使えました。

でも、介護休暇は育児休暇と異なって、意外と使いにくいのです。

大きな理由は、介護が必要な人がいつまで生きるのか、わからないです。

育児休暇というのは、1年という区切りがつけられると思います。だけど、親の介護の期間はいつまでになるのか、見通しがつかないのです。

わたしの職場のルールでは、介護休暇は1回、そして半年しかとれないのです。タイミングが悪ければ、母の最期にあわせられない可能性もあります。

また、それよりも、わたしが休むことで、職場の人にどれだけ、迷惑をかけるかのか思うと、介護休暇をとることに二の足を踏みました。

多くの人がそうだと思います。

また、育児休暇は、今は市民権を得ていると思います。特に、今は少子高齢化対策ということで、政府も子育てには力をいれています。

一方、親の介護休暇というのは、まだまだ社会の中でコンセンサスが得られているとは思えません。

たぶん、親の介護は退職後に体験する人も多いと思います。だから、仕事しながら親の介護をする大変さを、理解してもらうことが案外むずかしいのです。

例えば、同じ時期に、認知症の親の介護をしている友人がいました。その友人も、親の介護のために仕事に遅れたりすると、周囲から非難の目でみられて辛いとこぼしていました。

また、育児休暇を取る人は20〜30歳代の若い人です。そのため、代替要員でこなせるような仕事をしている人が多いのではと思います。

逆に、介護休暇をとる人は、50〜60歳代の人がほとんどです。なので、社会的責任あるポジションにいることが多く、代替が効きにくいでしょう。

わたしも考えれば、考えるほど、自分が仕事を長期に休むことで、代わりの要員をみつけられずに、同僚が困り、迷惑だろうなとわかります。そうすると、休むことの方が帰ってストレスになるのです。

そこで、わたしも単発で、1日、2日介護休暇をとったことはありますが、まとめてはとらないという選択をしました。

3:家政婦を雇用

そこで、家政婦を24時間雇用することで対応することにしました。

結構これにはお金がかかります。1日1人あたり20,000円かかります。

母の最期まで、そんなに長くはないと思いましたので、母の貯金を使っていきつくところまでいこうと思いました。

背に腹はかえられないということです。

わたしは朝、6時前には、家を出ないと職場に間に合いません。そこで、いつも母に朝食を用意して食べてもらい、そのあとは家政婦さんに交代です。

そして、夜は10時ぐらいに帰り、家政婦さんと交代することになります。こういう体制でいこうと思いました。

これは、労働契約上、夜間はわたしが母を看ないといけなかったからです。

でも、家政婦さんたちは、親切に「わたしたちが看ておきますから、娘さんは休んでください」と言ってくれました。

ベテランの2人の家政婦さんだったので、良くしていただいて、本当に助かりました。

ただ、仕事の休みの土日は、節約のために、家政婦さんは雇わず、わたしが一人で看ることしていました。

4:「ここは終の住処じゃない」

この体制で、うまくいくかなと思ったのですが、実はそうではなかったのです。

働きながらの介護は、家政婦さんがいても予想以上に大変だったのです。

家政婦さんがいてくれるので、平日の昼間はなんとかなります。

しかし、夜間も母は目がさめていることが多く、不安になると家政婦さんだけでなく、わたしも起こします。

それで、寝不足なまま仕事へ行き、働いて、帰ってきてまた夜起こされるという生活が続いていました。

加えて、土日はわたし一人で母を看ていましたので、疲労こんぱい状態でした。

そんな週末のある日、わたしはもう気持ちが限界まで達したんです。

その時は、親孝行をしたいと気持ちなんて、ふっとんでしまっていました。

それで、母に向かって、叫んだんです。

「お母さんなんて、死んでしまえばいいのよ!」

そして、母の顔を自分の手で叩き出したのです。

でも、すぐに気がつきました。ああ、こんなことをしていたらだめだ、虐待になってしまう。すぐに手を引っ込めました。

母は、その時、ぼそっと言ったのです。

「ここはもう、ついの住みかじゃない」

つまり、母は「特養に帰りたい」と言いたかったんだと思います。

母はわたしに遠慮して言えなかったのでしょうが、本当は最初から特養にもどりたかったんです。

次の日の朝、やってきた家政婦さんに、正直にいいました。

「わたし、昨日母をたたいてしまったんです」

こうして白状しておかないと、本当に虐待になってしまいそうで怖かったんです。

その家政婦さんは、「なんでたたかないといけないんですか、かわいそうに」と言って、母を心配してくれました。

わたしは、それを聞いて救われた気がしました。

でも、なんともやりきれなかったです。

この時、わたしは、はじめて介護心中する人たちの気持ちがわかったんです。死ねたら本当に楽だなと思いました。この時がわたしにとって人生最大の危機でしたね。

やっぱり、仕事をしながら、親の介護をするのは、本当に難しい。

仕事を休むことができれば、なんとかなると思います。また、制度としてはあるんだから、使ったらいいと思います。

でも、介護休暇をとることで、職場の人からの「社会的信用」を失ってしまうことは明らかです。

だから、このまま母を仕事をしながらみるのも地獄、介護休暇をとるという選択をするのも地獄だったんです。

もう本当に、八方ふさがりでした。

ということで、わたしはいよいよ、ケアマネさんに助けを求めることになります。

さて、この話は明日に続きます。

ではでは



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