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発達障害作家の本で思う「人は同じで違う」…541日目

図書館でものすごい予約待ち、『あらゆることは今起こる』

 柴崎友香『シリーズ ケアをひらく あらゆることは今起こる』(医学書院、2024.5、2200円∔税)を読む。図書館で借りて忘れていて、返却期限が迫って後ろに予約人数がずらりと記されていることにおののく。
 おそらく今年5月に出版されてまもなく書評に出ていたのを予約し、待ち順番が結構あったのだろう。その間に、何の本だか忘れてしまった。「あらゆることは今起こる」って理論物理学か哲学の話かと思うじゃないか。

 そしたら、発達障害と正式な診断を受けた作家のエッセーだった
 で、作家を知らん。プロフィールを見ると、『寝ても覚めても』。お、これは俳優・東出昌大が共演した相手と不倫し、杏と離婚に至るきっかけになった映画の原作ではないか、観てないけど。
 東出くんは最近ちゃっかりデキ再婚し、不倫相手は10キロ増でレスラーを演じて新境地を開き(観てないけど)、杏はフランスさんになっている。なんともたくましい人々だ、さすが芸能界。

 ……はさておき、柴崎氏は2014年『春の庭』で芥川賞を受賞。へー、読んでないけど、受賞も覚えてないけど、すみません。ややエンタメっぽい雰囲気の直木賞はともかく、芥川賞は純文学というか私小説というか、「ちょっと変人がウケる」のイメージだな、すみません。

二十年来の懸案、ADHDの診断を思い切って受けた柴崎氏

 その柴崎氏(現在51、出版時は50)が、二十年来の懸案だったADHD「注意欠如多動症」の診断を思い切って受けた。睡眠障害がひどくなり、仕事でも続けて迷惑をかけたため。数々のテストを受け、診断が下る。
 自分を発達障害でないかと疑ったのは、サリ・ゾルデン『片付けられない女たち』(原著1995年、邦訳2000年)を読んでから。

 さて、それ以前、それ以降の話が続く。ADHD傾向とは言え、さすが芥川賞作家、自らを客観視した冷静な文章になっている(編集者の尽力もあるかもだが)。医学書院「シリーズ ケアをひらく」の中の一冊なので、まるっきり医療的エビデンスとかけ離れた方向にいってしまう心配もなさそう。

 私が気になった個所の覚書。

 「なんでも文句を言わないでよろこぶのがよい子、という圧の強さ」133p
 「文章は一本の線で、言葉を接続詞でつないでいくと、そこに序列や強弱が発生してしまうのは、この仕事(=作家)をしていてずっと悩みどころ」139p
 「(「お茶でもどうですか?」などを言う)京都の人は(略)直接的表現は失礼だと思って婉曲表現になっている。気遣いによってそうなっている」146p
 「(ドラマなどで描かれる)ADHDの特性は、ASDのように思考や感覚や行動の際立った特性のあるキャラクターとしてではなく、個々の失敗やトラブルの表れとして、またその集積としての「困った人」として描かれるのだろう。ADHDの個々の困難や失敗は、誰にでもあることの延長であり、程度の問題であるから、「起きた結果」が語られがちである。そしてその語り方は、自虐や落語的な笑いになるか、周囲の人への負担(日本語では迷惑)かになりがちに思う」174p
 「女性は家事ができて当然という抑圧をかなり感じた」183p
 「言葉も、概念も、それにまつわる行動なども、常に権力を持つ側が決定する構造があって、それに抵抗する言葉が生み出され、生み出した言葉が力のある側に都合よく使われたり意味をすり替えられたりして、また抵抗が言葉を作る。それが繰り返されてきたのだ」209p

柴崎友香『シリーズ ケアをひらく あらゆることは今起こる』(医学書院)

「うまいこと自分に合った仕事につけたのは運がよかった」

 さて、柴崎氏が自覚する、自分の状態は、
・部屋が散らかっている
・複数の時間が同時に存在していて、そのせいかどうか、約束時間を守れなかったりする
・眠い(脳の中に情報があふれている)。診断後、コンサータを服用。眠れるようになったけど、休みたい。
・脳のワーキングメモリは実は多い方だが、処理速度が遅いらしい

 で、こうした特性は、集団で仕事をすると大変だが、ひとりで仕事をする作家という職業につけた、「うまいこと自分に合った仕事につけたのは運がよかった」(268p)。うわーそれはラッキーですよ、作家になりたくて売れない人は山ほどいるわけで。それはさておき、そういう楽観的な感覚で書き進められているので(「困ったこと」もやまほどあるが)、読んでいて、なんだか肩の力が抜ける。

誰しも、自分と他人との間に見方の違いを感じている

 いや、私が書きたかったのは、別にある。
 柴崎氏は「普通」って何か、「普通でない」人への視線について考えているわけだが、そんなふうに自分も昔から考えてきたし、今もそうだ
。なら、それは「自分を普通でない」と感じるのは、発達障害、ひいてはいろんな「障がい」の特性とも言い切れないのだろう。
 発達障害はグラデーションで万人にその傾向があるが、私の場合、他人に迷惑をかけ続けて診断を仰ごうという段階には来てないので、傾向が少なめだろう(と勝手に思う)。
 言いたかったのは、別に○○障害でなくとも、誰しも、自分と他人との間に見方の違いを感じていて、その意味で違うし、同じなのだ、ということだ。いやはや説明が下手。
 さらにめちゃくちゃな例。

 私は、他人の話に疑問を持つと、早いとこ疑問を解決した方がいいと思って質問し、ウザがられることが多い。あとで、そこにいた仲間に聞くと、同じように疑問を持っているが黙っていた人間と、疑問が生じなかった人間がいる。黙っていた人間は思考は同じだが、行動が異なる。同じで、違う。疑問が生じなかった人間とは思考の方向性がかなり異なるのだろう。
 いや、例としてはなんだかおかしいな。

 先日某所で少し派手な格好をした。同窓会的な場なので、周囲は昔の私に対するイメージを個々に持っている。
 で、「相変わらずだな」という声と「変わったな!!」という声をいただいた。なんやねん!
 うーむ、これも。

 うじうじとしていた自分が、子どもの頃からいた。
 少数派だと思っていた。
 作家の世界に触れると、結構似た類の気配を感じた。
 そういや、ネットなどなかった昔は、小説や詩を読んで、そうした「少数派のうじうじ世界」に共感を覚えていたのだ。

 最近はネットで「私も、僕も、実はうじうじ」発信を目にすることも多く、孤独感は減ったはずだ。減ったはずなのだが、ネット上では、いろんな炎上の中で「うじうじに対する悪意」もはびこりやすく、安心できる場でない。また、情報操作がされている可能性も否定できない。ネットにはどこか構える自分がいる。

 おやおや、話が少し違う方向に行きつつある。直すにはもうパワーが足りない。仕事の文章ならじっくり推敲するが、ここはわがままnote、このままだらだらで置いておこう。無責任ですみません。

とにかく書く

 そういえば柴崎氏が「あとでまとめて書こう、でなく、とにかく書く」というようなことも書いておられた。見習おうぞ。

 皆さまのご健康を。

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