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235人/7409、芝居≒料理?「いいね!」枠無い芝居~535日目

 ※312日連続投稿
 都内新規感染235人/7409、9日連続1000人を下回る。7日間平均は469.3人で6月29日以来約3か月ぶりに500人を下回る。都基準重症者139人(-4)、死亡15人(累計2853)
 河野ワクチン担当相、3回目接種は「原則自治体で」 

 菅首相ワシントン到着、クアッド(日米豪印)首脳会合へ。インドのモディ首相と個別会談。

 今日も暑かった。

抽象化の過程における思索、具現化とのバランス

 数日前、不要不急でない外出で行った先は、あれこれ考えることもなく目の前のことに取り組まざるを得ない具現化の世界だった。本来、世界とはそういうものなのかもしれない。しかし、そうした世界に不慣れな自分はあたふたし、具現化の世界に強い人に圧倒される。
 ただ、具現化に強い人は抽象化に弱い傾向もありそう。そう、人間、すべてに得意な人間など、おそらくない(おそらく。そう思いたい)。
 頭を「意味なく」悩ます暇もなく、動き回るのは悪いことではない。ただ、自分はずっとそこにいることはできない。いや、いれば、慣れたのか?

 再び、抽象化の世界に戻った。この世界でこそ、やっと、落ち着いて「意味なく」自分の頭を探ることができる。意味のないことに意味がある。あ、なんだかそれらしいことを偉そうにww
 思索は、抽象化の過程に生まれる。しかし、具現化あってこそ。そのバランス、抽象化と具現化の行ったり来たりの中で、日々生きている。また、具現化の世界に戻ることもあろう。

タクシー運転手さんに話しかけられない不自由

 一昨日思ったことを書いておく。
 4日間のやや遠出から帰宅した際、疲労の余り、また荷物もあったので、少しの区間だけタクシーに乗った。コロナ禍では多少の歩きも運動、公共交通機関すら最低限の利用しかしない今、1000数百円で10数分、超久々の“贅沢”。

 乗ったら、感じのいい運転手さん。
 ああ、何か話しかけたいな。「最近どうですか」「今日は暑いですね」「人出はどうですか」「お、空気清浄のレベル測れるんですね(車内にそんな装置があった)」。。自分はもともとタクシーに乗ればよほど疲れている時以外はなんやかや話しかけて、出先ではその町の雰囲気、帰宅時は少し離れていた地元の雰囲気を少しでもかぎとろうとしていた、それも料金のうちだし。
 でも、今回は止めた。我慢した、コロナ禍だから。話しかけたら、客商売だ、相手はしてくれるかもしれない。でも。本当は話好きの運転手さんで話しかけられるのを待ってたりして。でも。
 通りすがりの赤の他人が密室で“不要な会話”をして、“危険”を増大するわけにはいかない、と真面目に考える。まだ互いにコロナに対する考えを共有し理解しあったうえならともかく。コロナ禍が始まった当初、屋形船が話題になっていた頃に確か、タクシーの客から運転手に感染したというニュースもなかっただろうか(「新型ウイルス 東京都内の70代タクシー運転手 感染確認」2020年2月13日 )。

 無言のまま、タクシーは走る。車窓をただ眺める。じりじり時が過ぎる。
 運転手さんの周りを囲う透明なビニールシート。以前から時々あったアクリル板は車内強盗防止用だったが、今はバス運転手の周囲にあるのと同じ飛沫感染防止用なんだよな。

 ……やがて、目的地の近くで「そこの信号」「右」「こちらで」と短い会話をし、PASMOで支払いして、降りる。
 ちょっと寂しかった。運転手さんが安心してくれれば、いいか。いろんな客がいるだろうから。しばらく、こんな時間が続くんだな。

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芸能、芝居はもともと素人のもの

 芸能、というか、演劇について、アマが下手でプロが上手い、などという単純なものではないと感じたのを発端に、プロとアマの違いをここ数年間考えてきた。時にアマとして舞台の端っこに立ったり、プロアマ問わず舞台に観にいったり、いろんな文献や書籍やネット情報を漁ったり。

 その結果、以前にも書いた気がするが、上手いは永遠にわからないという結論(現時点)。下手と手抜きはわかる
 一方で、自分自身にとっての演劇は、自分が舞台の上に立つことで何かを得るものであり、そこから他人様にお金をいただいて(施設運営うんぬんはすみません)何かを偉そうに伝えられるレベルでないことを痛感。開き直って趣味でいい。
 そもそも、「他人の前に立って何かを表現することでその人が何かを得る」が、演劇なりの最初の効用で、その後に「他人に何かを伝えられる(=仕事にしてもいい)」が来るのではないか。
 なので、まず演劇、芸能はもとい素人、アマチュアの日常の中に存在する“ハレ”。
 その延長線上にプロがいる。アマが先なのだ。

 何度か書いたかもだが、アマの集まりで、経験はそれなりにあるが同じ“生徒”側だった人に「教えてあげる」と言われた違和感が、「演劇のプロとかアマとかなんだよ」と思ったきっかけだ。
 「それなりの経験」は、売れるかどうかは別として、熟達化や人脈形成があるだろうから、「継続は力なり」なのは否定しない
 アマに対して自分の“優越性”を誇示したいのか、自信の無さの裏返しか、と感じた。感じたことは相手に伝わり、嫌われた。他人を無闇に刺激してはいけない、その部分では確かに反省もある、
 しかし、それをきっかけに「演劇のプロとは何か」の疑問はずっと残ってきた。

 で、演劇においては、アマが基本で、プロはそこからの派生であり、生まれながらに華を持つ別格の存在か、相当の訓練を積んだ熟練者か、運と人脈をつかんだ果報者か努力家か、が生き残ったりしている。としよう。

芝居≒料理?

 で、芝居≒料理ではないか、と唐突に思った。
 食事はまず一人ひとりが生きるために何かを食べるが最初で、そこから派生し、食べやすくする工夫をした料理、多くは子どもから老人まで食べやすくした家族のための家庭料理へと発展する。ここまではアマの領域だ。栄養、味、費用のバランスを考え、妥協点を見出す作品となる。無償労働で作られるものだし、味はだいたいで、その日の体調や余り物の具材で日によって変わってもいい。
 ※日本ではこの家庭料理が重視され過ぎ、主婦の負担大となり、主婦が体調を崩しても「ごはん作って」配偶者といさかいが生じる問題もある。

 比して、まずテイクアウト用の総菜や弁当から外食まではプロの仕事。金をとるのだから、味は一定しそれなりの水準が求められる、食中毒を起こさないのは当然。そして、その最高峰が高級レストランとなり、そこに至れば、味はもちろん変わってはいけない(旬の具材でメニューが変わるのはOK)。

 うん、今はとりあえずこんな感じ
 家庭料理=アマ芝居
 テイクアウト~大衆料理店やファミレスの料理=セミプロ
 中級・高級レストランの料理=プロ(売れてるOR一定の評価)
 
プロだから偉い、わけではない。

プロは批判を受け自分を磨き上げていく存在

 では、プロはなんのために存在するか。はまだ答えが出ていない。
 ただ、プロは、プロがゆえに批判を受け、その批判をもとに精進して自分を磨き上げていく立場に置かれていると思う。

 そう思うに至るひとつの観劇体験がある。
 一昨日、疲れ果てて帰ってきた日に再びよろよろ出て観た、ある芝居。
 詳しくは書かないが、少なくとも観客席にイデオロギー色が強かった。観劇の感想というより、体制批判で一致した感想を“仲間”同士で分かち合わねばならぬ空間と、自分は感じた。心の中で何を思うかは自由だが、口に出すときは「よかった」としか言えない、言わない。
 ……これって、「知り合いの(多くはアマかセミプロの)芝居を観た時」の後の「よかった~」しか言えない、に似ていないか?

 いや、その芝居の演者さんたちは「上手かった」。でも、イデオロギーが頭に浮かんで、いや、それを邪魔しない水準で「上手かった」。しかし、観客の反応は、観る前から決まっているのである、演者の上手い下手など感化営内、ああ、そういう芝居があるんだった、そう、知り合いの芝居を観る感覚。ただ、この場合「体制批判部分が不足」などの不満は出るかも、だが。

「いいね!」枠無く、「下手くそ!」と言える芝居

 そう、そういう芝居があってもいい(しつこいが、この芝居の演者はプロだ)。
 ただ、「知り合い」「仲間」とかいう「いいね!」枠を取っ払って、「下手くそ、金返せ!」と思う存分文句が言える芝居があっていいのではないか(実際に下手で返金できないが)、それが、プロの芝居たるべきでないか
 となると、宝塚とか2.5次元とかも、「いいね!」枠に入るが。。「成長」を見るというのがメーンだろうから、それはそれ。

 「下手くそ、金返せ!」と思う存分文句が言える芝居、「いいね!」枠をとっぱらった「純粋な芝居」など、この世に存在するのか??
 そんなものはないのかもしれない、ぞ。
 これを次に続く問いとしよう。

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政局、引き続き勉強中

 小沢一郎『日本改造計画』と『ノマド』を並行読み。日本改造計画の初っ端から「柵を欲しがる日本人」の話だったので、人間似たような話の枕を持ってくるものだと思う。いや、かなり前に自分が読んでいたのか。
 自民党総裁選、どうなるやら。いずれにしても「国民の声をよく聞く」なんぞ、信じておりません。みんなの言うこと聞いてたら、政治を回せないのは誰もが知っているのだから。自分たちと違う世代、立場の若者の声を聞くのはある程度必要だが、どこでうまくバランスをとってリーダーシップを発揮できるか。
 そのリーダーシップが今、どれくらい強力であるべきかどうか、か。。 

 皆さまのご健康を。

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