見出し画像

「英雄サラディンと少年王ボードゥアン4世」世界遺産の語り部Cafe #10

今回は、シリア🇸🇾の世界遺産 【クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン】についてお話していきます。



「クラック・デ・シュヴァリエ」と「カラット・サラーフ・アッディーン」


2つの名城は、いずれも「十字軍」時代を象徴する世界遺産です。

「クラック・デ・シュバリエ」は、1142年から1171年まで「聖ヨハネ騎士団」が拠点とした、当時の建築技術の粋を究めた難攻不落の名城として知られています。

クラック・デ・シュバリエ
ヨハネ騎士団の拠点となった

一方、その北方に位置するのは、1188年にサラディンが陥落させたことで「サラディンの要塞」呼ばれるようになった、「カラット・サラーフ・アッディーン」です。

カラット・サラーフ・アッディーン

元々は紀元前から続く古い城塞をビザンツ帝国が補強した城だったことで、ビザンツ帝国やフランク王国、アイユーブ朝の様式が混在する装飾が特徴的な名城です。

十字軍遠征はなぜ始まったか



そもそも「十字軍」とは、ローマ教皇「ウルバヌス2世」がビザンツ帝国がイスラム勢力により奪われた聖地、「エルサレム」の奪還を提唱したことで結成された遠征軍でした。

当時のヨーロッパ世界において、ローマ教皇は絶対的な権威でした。

その象徴的な出来事が、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で「聖職叙任権」を巡って繰り広げられた、いわゆる「カノッサの屈辱」といわれる事件です。

カノッサの屈辱

事の顛末は、教皇庁に無断で聖職者を任命していた神聖ローマ皇帝「ハインリヒ4世」が、教皇「グレゴリウス7世」に破門されたことに始まりました。

権威が失墜し、求心力を失ったハインリヒは、教皇グレゴリウスが滞在していたカノッサ城の門前で、裸足のまま断食で祈り続け、3日間ひたすら破門の解除を懇願します。

その甲斐あって破門は解かれるのですが、この事件により「教皇 > 皇帝」の構図が浮き彫りとなりました。

絶大な権威を誇った「ローマ教皇」による十字軍派遣の命は、逆らえば破門に遭う運命です。

このような背景から1096年に第1回十字軍が結成され、1099年にエルサレムを奪還したことで「エルサレム王国」が建国されました。

十字軍の遠征

英雄サラディンと少年王ボードゥアン4世


「サラーフ=アッディーン」ことサラディンは、エルサレム奪還を果たした十字軍に対して敵対勢力となった、アイユーブ朝を創始した人物です。

サラディン

サラディン率いるサラセン軍は、エルサレム王「ボードゥアン4世」の軍と交戦した「モンジザールの戦い」で、ボードゥアンの見事な策に嵌り、敗走することになります。

モンジザールの戦い

まだ弱冠16歳の少年王だったボードゥアンは、不治の病に冒されながらも(※当時の医学的に)大変優れた人物として知られています。

ボードゥアン4世


エルサレムを再奪還した寛容なるサラディン


しかし、ボードゥアンが24歳の若さで亡くなった後の1187年、サラディンは再びエルサレム王国と交戦した「ヒッティーンの戦い」に勝利します。

ヒッティーンの戦い

この時、ボードゥアンに代わってエルサレム王になっていた「ギー・ド・リュジニャン」は捕虜となり、もはや趨勢を決したエルサレム王国はなすすべがありませんでした。

ギー・ド・リュジニャン

ところが、サラディンは残されたエルサレム市民に対し、「キリスト教聖地の尊重」や「エルサレム巡礼の容認」などを確約して、無血開城を成功させました。

さらには、身代金が納入されなかった捕虜たちまでも放免してしまい、孤児には私財をなげうってまで補償金を付与しました。

こうしたサラディンの寛容な対応は、まさに英雄と呼ぶに相応しい振る舞いだったと言えるかもしれないですね。

エルサレ厶を巡る争いは、遥か昔の十字軍の時代から現在に至るまで続いていますよね。

国同士、民族同士の争いに終止符を打つためには、お互いに寛容な精神を持つことが重要ではないかと感じる今日この頃です。

【クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン:2006年登録/2013年危機遺産登録:文化遺産《登録基準(2)(4)》】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?