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世の中のおかしさの根本的原因を考えてみたら、結論は「愛の不足」だった。
4年前に、こんなことを書いていました。
ざっくりまとめれば、
根本的な原因に目を向けず、対症療法をしているうちは、
根本的な問題解決には至らないということ。
詳細は、リンクを読んでみてください。
元々こういう考え方なのですが、
さらに、世の中のいろんな問題点の原因は何か?と考え続けたところ、
今思うことを書いてみます。
根本的な原因を追求してみる。
「根本的な問題解決」のためには、
「根本的な原因」に対してアプローチをする必要があります。
「症状」と「原因」は違います。
例えば、「肥満で悩んでいる人」がきたとします。
そうなると、目的はダイエットになるので、一般的な運動指導者は、
食事管理と大筋群を中心とした全身運動を行おうとするでしょう。
いわゆるライザップ式のオーソドックスなやつです。
でも、
『なぜ、肥満で悩んでいるんでしょうか?』
そこには、「肥満はよくないもの」という価値観が見えます。
では、
『なぜ、「肥満はよくないもの」という価値観を
持っているんでしょうか?』誰かに太っていることを馬鹿にされたのでしょうか?
そこには必ず、何かきっかけがあるはずです。
誰かと比較をしてしまっているのは間違いありません。
そこには「自分の価値観」ではなく
「他人の価値観」に振り回されている様子が伺えます。
視点を変えて、
『なぜ、太ってしまったのでしょうか?』
食べすぎでしょうか?
運動不足でしょうか?
では、
『なぜ、食べ過ぎてしまったのでしょうか?』
食に関するリテラシーが低いのでしょうか?
ストレスから食べ過ぎてしまったのでしょうか?
それとも、加齢により代謝が下がったことによるのでしょうか?
『なぜ、運動習慣がないんでしょうか?』
元々運動習慣が無い人でしょうか?
忙しくて時間が取れない人でしょうか?
ただ、だらけている人でしょうか?
「運動習慣がない人」は、
もしかしたら、運動に対して苦手意識を持っているかもしれません。
学校の体育の成績が低かったからかもしれません。
では、学校の体育ってそもそも適切でしょうか?その先生は、どんな人だったんでしょうか?「忙しくて時間が取れない」は、本当に時間がとれないんでしょうか?
そう思い込んでいるだけかもしれません。
「忙しい」の字の通り、
「心」を亡くしてしまって、心に余裕がないのかもしれません。
余裕がないのは「時間的なもの」ではなく
「心理的なもの」かもしれません。「だらけてしまっている人は」、なぜだらけてしまっているのでしょうか?
挫折体験が多いからかもしれません。
挫折体験が多いと「失敗するくらいなら何もしない方がいい」
という価値観が生まれますから。
「無気力」を産んだのは誰でしょうか?その人本人のせいではありません。
必ず、そこには原因が存在します。
物事には、必ず「原因」があり、「原因の原因」がさらにあります。
「原因の原因にも原因」があり、
「原因の原因の原因にも原因」があります。
どこまで掘り下げるかです。
こんな感じで、どんどん根本的原因に目を向けていかなければ、
根本的問題解決には至らないと考えています。
「答えをみつける」のに必要なのは、「適切な問い」から
繰り返しますが、
「根本的な原因」まで掘り下げなくては、
「根本的な問題解決」とはなりません。
「症状」に対してアプローチしているうちは、
「根本的な問題解決」には至りません。
故に、症状も消えません。
「答え」というのは、「適切な問い」から導き出されます。
「適切な問い」ができるかどうかは、
「その人に興味関心があるか」どうかです。
いや、もっといえば、「その人の興味関心に『関心』があるか」です。
例えば、前述したような問いは、
カウンセリング や問診の時に、掘り下げた方がいい内容です。
が、カウンセリング や問診の時には、多くの場合、
「自分が聞きたいこと」を聞いているだけではないでしょうか?
その人自身がどんな人で、
どんな考え方をしていて、
どんな育ち方をしてきたか。
今どんな環境にいるか。
今どんな気持ちでいるのか。
自分が知りたいことではなくて、
相手を本当に理解するために、問いをたてる。
その人が、どんな人間か、どんなことに興味があって、
どんな価値観があって、どんな感情をもっているのか。
それを知るために、質問する。
自分が主体ではなくて、相手を主体とする必要がある。
とことん、相手目線で考える。
「自己肯定感」と「自尊心」が低いことが、根本的原因。
これは経験的に感じていることですが、
私のような、トレーナーや治療家のところに訪れるような人は、
何かしら「自己肯定感」が低かったり「自尊心」が低かったりするなと。
なぜか?
それは、そういう環境で育ったからです。
「自分は価値が低い」と、誰かと比べちゃってるからです。
兄弟姉妹と比較されたからかもしれません。
学校や会社での成績が低いからかもしれません。
そもそも、そんなんで評価するなや。
それは、メディアやマーケティングの煽りが原因かもしれません。
でも、現実に、本人は悩み、苦しみ、自分を否定してしまいます。
やっかいなのは、自覚がない場合が多いことです。
だから、余計に問題が難しくなる。
「自尊心を高める」ために必要なこと
「自尊心」とは「自分を尊いと思う心」です。
自分のことが好きかどうか、自分のことを愛しているかどうか。
「自分を愛す」というのは、ナルシストという意味ではありません。
自己顕示欲が強いということでもありません。
ただただ、自分はそのままでいいんだと思えること。
ありのままの自分でいいんだ。私は私。自分を肯定している状態。
それが自分を愛するということ。自分の存在を大切にできること。
そのために必要なことは「他者から認められること」です。
自分を認めるためには、
まず「他社から認められる」という経験が必要です。
否定はNO!ただただ受け入れる。肯定する。
親から叱られてばかり育った子は、
自分を肯定することができるでしょうか?
周りと比較されてばかり育った子は、
自分を肯定することができるでしょうか?
そもそも比較がいらないんです。
この行きすぎた競争社会、
効率性ばかりを重視する社会がおかしいんです。
一人一人がオリジナリティのある存在なんだから、
比較がいらないんです。
親が叱るのは、多くの場合、
子供のためではなくて、自分のためです。
子供のことを本当に思えば、
「叱る」という態度ではなく「共感」という態度になるはずです。
「勉強しなさい!」ではなくて、
「なんで勉強したくないの?」という問いから始まる。
「勉強って楽しいんだよ〜。パパも(ママも)一緒にやろうか?」
みたいな。
どんな学校に行っても、むしろ行かなくてもいいじゃないですか。
その子が、その子らしく育てば。
親子に、上下関係はない。
人間にも、上下関係はない。
故に、常にあるのは「対等な関係」です。
そこに、否定は存在しません。
そこに愛はあるのかい?
「対等な関係」とは、相手を受け入れることです。
受け入れられた人は、
自分の存在、自分の価値を受け入れることができ、
同時に人を受け入れることができるようになります。
そこにあるのは「愛」です。
無償の愛。それは、絶対的な肯定。
「愛が地球を救う」んです。
(あの番組は間違ってますが)
このおかしくなった人間関係、人間社会、地球、
あらゆる事象の根本的な原因は「愛の不足」だと思います。
そこに「愛」はあるのかい?
「愛」があるかどうか。
「愛」さえあれば、すべてうまくいく。
この「愛」という話を小っ恥ずかしく感じる人、
ちょっと引いちゃうような人は、愛が足りない人だと思います。
どうですか?
愛が足りない人は、自己肯定感、自尊心が低い人です。
それが日々の思考や行動に現れているはずです。
それが現実に起こるあらゆる事象を生んでいます。
いいかい。
愛さえあれば、すべてうまくいくんだよ。
ぜひ、目の前の人に、あなたの大切な人に、
愛を表現してください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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