『さんかく窓の外側は夜』完結から1年経った今、改めて感想を書く
ヤマシタトモコ先生の『さんかく窓の外側は夜』の最終巻が発売されたのは2021年3月10日。もうすぐちょうど1年が経つ。
私は小さい頃から無類の漫画好きだったが、最終巻でこんなに泣いた作品は初めてだった。
感動だかなんだかよくわからないままドバドバ涙が出て、「この作品に出会えてよかった」という幸福感と「この作品に感動できる自分で良かった」という妙な自己肯定感に満たされていた。
感動したものに対して「どんな点がどういう風に良かったのか?」とか「どんな人に勧めたいか?」とか、そういうことを言語化するのが私はとても苦手だ。まあ実際、夏休みの読書感想文じゃあるまいし、言語化しなきゃいけない都合もない。
自分で満足がいくまで『さんかく窓の外側は夜』のことを考え続けよう。そう思っていたら、いつの間にか次の春が来てしまった。
1年かけてもまだ消化しきれていない気がするが、とりあえず1年というこの節目で、自分なりの感想をまとめておこうと思う。
『さんかく窓の外側は夜』は簡単に言うと、霊が見える体質の主人公・三角と浮世離れした謎の除霊師・冷川がバディを組んで、除霊をしたりオカルトな事件の謎を解いたりしながら物語の核心に迫っていく作品だ。
私は先述のように好きなものを言語化することが苦手なので、これ以上のあらすじや世界観の説明は控える。なのでこの文章は本作を未読の人には向かないと思う。
以下、1年かけて向き合ったこの作品の好きなポイントを大雑把ではあるが書き記していく。
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ポイント①:冷川を救った人は三角だけではない
フィクションの世界はどうしても「私」と「あなた」、「僕」と「君」、「主人公」と「恋人」だけで結末が作られがちだ。それは別に悪いことじゃないんだろうけど、私はフィクションの世界のそういう部分がいつも腑に落ちなかった。
これまで読んできたたくさんの漫画の中で『さんかく窓の外側は夜』の結末が特段に好きな理由は、 “冷川を救ったのは三角だけではない” という点が明確なところだ。英莉可、逆木、系多、半澤、その他誰か一人でも欠けていたらあの結末には至らなかった。
冷川の周りの人々はそれぞれ、彼に根気強く語りかけたり、彼を何年も見守り続けたり、そうやって各々の形で彼に向き合った。そうして各々で彼の心を蝕む氷を少しずつ溶かした。三角はその中の一人にすぎない。そのことに強烈に感動した。
主人公は、たった一人の大切な人と二人きりで物語を完結させなきゃいけないわけじゃないのだと示してくれた。
改めて考えてみれば、私達の世界って多分そういうものだよな、と思う。バタフライエフェクトとかってやつで、ほんの些細な出来事が積み重なって大きな事象を生む。
私達は無意識下で数多の人々と関わり合っていて、それらが奇跡的な均衡を保っている結果が今この瞬間であるはずだ。
ポイント②:三角にとって冷川は必ずしも一番の存在ではない
三角と冷川がお互いを想い合っている唯一無二の関係であることは誰の目から見ても明らかだったが、最終話で三角は当然のように冷川ではなく母親と2人で暮らし続ける選択をした。
フィクションの中でこういう結果が描かれるのを私は初めて見た。すごいことだと思った。
またもフィクションの世界での常識に文句を言う流れになるが、恋愛感情が友情よりも必ず上位の存在とされることになんとなく違和感がある。恋人と友達は確かに違うけれども、それはどちらが上とか下とかじゃなくてもよくないか? と思う。
三角は母親をとても大切にしている。思えばそれは、第1話から最終話まで一貫して描かれ続けていたことだった。
話が進むとともに、三角の両親が物語の根幹に大きく関わっていることが徐々に示されたり、英莉可の母親の行動が大きく物語を動かしたりして、この物語のテーマは「家族」なのではないかと気付く。何が主題なのかイマイチ掴めないところがこの作品の良さだが、家族関係の緻密な描かれ方を見るに、これは主題のうちの一つと捉えて良いだろう。
それに、成人男性が他の誰よりも自分の母親を大切にしている描写が “マザコン” などといった侮蔑の意図を全く含んでいなかったところも素敵だった。仮にマザコンと揶揄されても、三角はしれっとした顔で母親の待つ家に帰るだろう。
ポイント③:自分の「正義」を貫く三角の、「正義」が揺らいだ時の脆さ
三角が「人を見捨てたり、傷つけたりを絶対にしたくない」と思って生きている部分に、個人的にとても共感しながら読んでいた。誰に強いられるでもなく、彼はそういう生き方を選んでいるし、そういう生き方しか出来ない。私自身もそういうところがあり、損な性格だなぁと思いながら生きているのだが、三角はそこまで損だとは思っていないようだった。すごい。
三角の真っ直ぐな性格が冷川や周囲を動かしているのを見て、少し勇気を貰った。
人を傷つけず人を助けようとして生きている三角が、9巻で “もしかしたら冷川を見捨てたり傷つけたりしなければいけないかもしれない” という可能性について逡巡したのちに「いや、もう、傷つけはしたよな……」と呟いて歩き出すシーンが印象的だった。
誰かを傷つけることを、受け入れなければ進めない瞬間が人生にはある。実際、三角がその一歩を踏み出していなければ冷川を救うことも出来なかったはずだ。
私自身の話になってしまうが、私はようやく最近「人を傷つけずに生きていくことなんて不可能だ」ということに気がついたばかりだ。
私は他人を傷つけることや不快にさせることを恐れ、ひとたび傷つけたと思えば一生思い出しては後悔するので、「どうして皆そんなに元気に他人と関わり合えるんだろう?」と不思議だった。しかし最近になって知人に「他人を傷つけることは人生の中で避けられないことだよ。あなただって誰かに傷つけられることあるでしょ?」と言われて、た、確かに……と目からウロコだったのだ。
文章に起こすと本当にアホみたいな話だが、それで私の人生観はガラリと変わった。
そういうわけで、私は三角の変化が自分自身の人生観の変化とリンクするように感じ、勝手に胸が苦しくなりつつもエールを送りながら読んでいた。
誰かを傷つけること、何かのために何かを見捨てること、そういうことを受け入れて乗り越えないと手に入れられない景色がある。悲しいけれどそれが人生というものなのかもしれない。
そんな三角が、物語上の最大の敵であり最も憎むべき相手である “先生” が自分の父親だと知ってしまった時、心がグチャグチャになってしまうその気持ちも痛いほど理解出来た。
常に自分にとっての正しさを貫いて生きてきた三角の、その「正しさ」が揺らいでしまった。自分の知らないところで、自分の存在によって人が傷つき、たくさんの命が奪われた。そして今もなお冷川や英莉可の心を蝕んでいる。
三角にとってどんなに大きな絶望だっただろう。
その絶望感が、私は自分自身の経験からかなり想像できていると思う。そして、それを乗り越えた先に救いのある結末が待っていたことも、なんとなく感覚として解っていた。
自分の内面が大きく変化した2021年に、『さんかく窓の外側は夜』を読んでよかった。心からそう思っている。
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大まかなポイントはこんなところだろうか。今から改めて最初から読み返せば1巻ごとに5000字くらいの感想が書ける気がするが、それはまた別の機会にしておこうと思う。
とはいえ、今思いつく限りでも書き足りない部分はたくさんある。
例えば英莉可が母親に助けられて “先生” の家から逆木と逃げ出した後、「もっと早く助けてほしかったよ……」と涙ぐむシーンはあまりに胸が痛かった。このシーンにもすごく自分の人生とリンクする部分があったが、これ以上作品の話より自分語りが中心になってしまうのもどうかと思ったので今回は割愛した。
ヤマシタトモコ先生が現在連載中の作品『違国日記』のコミックスの帯に、「『これは私の物語だ』と思ってくださる方がいたら、その方のために描いている。」と書かれていた。
確かに「まさに自分のことが書いてある!」と思わされる部分が、先生の作品にはたくさん散りばめられている。どうすればこんな魔法みたいなものが描けるのか、凡才の私には全く想像がつかない。
感想文を書いていたらまた泣けてきた。
『違国日記』の感想もいずれ書こうと思う。