美しいものを美しいと思える感性
心がささくれ立っている時、「美しいものを美しい」と思えなくなってしまう。
いや、世界はいつだって色んな美しさで溢れているのに、それに氣づく感性を一時的に失ってしまう。
お茶でも飲みながらリラックスして、庭の木々たちや空を見上げていると、なんて美しいんだろうと感じる。
反対に、仕事でうまくいかなくてイライラしている時は、周囲に目を向けようとも思わないし、なんだか世界は靄がかかってグレーに見える。
その時の心の状態で見える景色が全く変わるのが面白い。
人は、自分の見たいように世界を見ている。
心の状態を作り出しているのも、自分の見方で世界を見ているのも、結局は自分。
自分の心がどうあるか、が自分の世界を作る。
美しいものは、物質的な“モノ”だけではない。
誰かの思いやりだったり、温かいスープのように体に染み渡る言葉だったり、毛布ですっぽり包まれて安心感のある抱擁だったり、祈りを捧げる人だったり。
結構さりげないところに「美」は宿る氣がする。
細部に美は宿る
って聞いたことがあるけど、芸術品とかだけじゃないよなと思う。
というか、細部に宿る美に氣付ける感性を持った人が美しいのかもしれない。
細やかな感性や優しさを忘れないでいたい。
物事は、陰陽・両面があるから、美しさが存在するには「醜さ」も存在するということ。
醜さだけ見ないようにしても、“本当の意味での”「美しさ」は感じられないと思う。
見たくない、と感じることも目を逸らさずにただただ受け止めるからこそ、「美しさ」がより際立って見えるのかもしれない。
そして、「美しさ」には色々な種類がある。
何が美しいと感じるかなんて、人それぞれ違う。
「自分なりの美しさ」を追求していれば、それが好きだと言ってくれる人が周りに集まってくるのではないかと思う。
私が感じる美しさを少し言語化してみると、ひたむきでピュアでエゴを超えたもの。
純粋で他意がなく、自分に矢印が向いたものではなく、思いやりみたいな…(まだまだ言語化の抽象度が高すぎるわね)
エゴが悪いと言っているのではなく(誰だってあるもの)、どちらかというとエコロジカルな意味合いの方が強いかもしれない。
自分も他人も・周りにも・地球にも(どんどんデカくなる)エコかという視点は美しいと思う。
言うまでもなく、自然にも美しさを感じる。
物も人もそうだけど、「美しい」と感じるものに囲まれていると、自分のエネルギーが純粋になり満たされてくる。
美しいものに囲まれるためには、「美しい」と感じられる感性が必要だ。
感性は使わないと、どんどん鈍ってくる。
鈍ると濁る。濁ると、停滞する。停滞すると腐る。
腐ると元氣がなくなる。
あれ、元氣ってエネルギーだ。
エネルギーの純度が高いと元氣ってことなのかも。
人間を人間たらしめるもの、より幸せを感じるには「五感」なのだなあ、と今日も行き着く。
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