74_坂下ぬくぬく -小倉薬師温泉丘の湯(鉄輪)-
日々のなかには、思いもよらぬ偶然が転がっている。
ついさっきまで、おやど湯の丘の貸切露天を堪能していた。(おやど湯の丘の記事はまた後日。)
すぐそこには、このあと入るつもりの豊山荘がある。(豊山荘の記事はまた後日。)貸切湯のときは、ジモ泉に入るときよりも長くじっくり、ひとりの時間を楽しむことにしている。おかげで身体はまだほてっていて、次の湯に入るにはもう少し時間が欲しい。
2月中旬、今日の天気は快晴。
空気はカラッと澄んで、辺りを散歩するのにはちょうど良い。
豊山荘を右手に、目の前の坂を下る。左手のほうにも豊山荘の建物が見えるけど、こちらは別館のようだ。さらに坂を下っていると、偶然にも湯屋を見つけた。
小倉薬師温泉丘の湯。単純温泉。なんとなくこの辺りにあることは頭の隅に記憶していた。まさか、豊山荘のすぐ近くだったとは気づかなかった。
丘の湯も前々から行こうと意識していたけれど、お湯が出なくて工事中という情報を手に入れていたため、別府を離れるまでの1ヶ月では入れないだろうと思っていた。
おそらく今日も入れない。せめて、場所だけ覚えて帰ろうと、再び歩き出そうとした瞬間、ガラガラガラ、おばあ様が洗面具を持って出てきた。
あれ、もしかして入れるかも。期待を込めて入り口へ向かった。入り口には張り紙がされてあって、実は2月1日から復活していたそうだ。入浴できると分かれば答えはすぐ出る。
左側が男湯、右側が女湯の扉で、中央には薬師地蔵がいらっしゃる。賽銭箱に小銭を入れてお参りをする。ロウソクの横に置かれていた入湯印も早速押した、地蔵さまのやさしい顔が彫られていた。
扉をくぐると、先客のおじ様が背中を洗っていらした。
あいさつすると、顔は向こう側のまま、片手を上げながらあいさつを返してくれた。木目調のようなタイルが敷き詰められた床や、浴室の中央にどしっと構えている檜の浴槽はとても美しくて、湯をかぶる前から、このお湯屋が好きになった。
身体や顔を洗っていると、おじ様から「出るときは、壁の水とお湯の栓をきちんと閉めておいてくださいね」とことづてを預かった。再び独泉、貸切湯になった。
ざぶーん。ぬくぬく。ひとりでこの檜風呂に浸かっていると思うと、とてもぜいたくな気持ちになる。そういえば、入り口の壁には「特効原爆症」・「神経痛リョウマチ・ヤケド婦人病」の文字があった。どうやら、この丘の湯温泉は原爆症に効くというニュースを生み出したことで有名なのだそうだ。
温泉にはそれぞれ泉質があり、別府八湯の温泉たちも、単純温泉・硫黄泉・塩化物泉など各温泉で泉質は異なる。そのため、効能についても違いがある。温泉の効能を深く感じ取ったことは正直ないが、思い返せばこの冬は一度もあかぎれができていない。毎年、両手のあちこちでぱっくりあかぎれができていたから、気づかぬうちに湯のめぐみを受け取っていたようだ。「湯治」の力、おそるべし。
上を見上げると、中央の壁は天井よりも少し低い高さになっていて、あちらとこちらの声は違いに聴こえるようになっていた。壁の向こう側では、いつの間にかおばあさま同士の料理教室が開かれていた。…酒と水であらを煮て、ごんぼ、大根もがーっと煮るのよ。強火で煮汁がなくなるぐらいまでガラガラ煮立てるの。そうすれば大根もいい味が染みるから。
夕食の献立は、まだ決めていなかった。
ぶり大根にしよう。大根はまだ半分残っていたはず。ぶりのあらを忘れずに買って帰ろう。あと、ごぼう。根菜は素朴だけど、良い味が出る。余ったらきんぴらにすれば良い。
今夜の楽しみが1つ増えたところで、2本のパイプの栓をひねり、浴槽を出た。