中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その26/春の雨
第1詩集のために中原中也が清書した原稿を
新編中原中也全集は
「第1詩集用清書原稿群」と名付けていますが
「春の雨」もその一つで
昭和2~3年の制作(推定)です。
この「春の雨」の原稿の欄外に
「文学界七月号」と赤鉛筆で書かれてあることから
考証・研究が深まり
新たな発見が生まれたという
エピソードについて触れておきましょう。
□
「文学界七月号」というメモは
発表予定を記したものだったのか
昭和11年の「文学界」7月号には
「春宵感懐」の掲載があるだけで
詩人がなんらかのチェックのために記したようですが
それがなんであるかは不明でした。
たわいもない記入で
なんら意味も持たないようなことですが
このわずかな書き込みから
重要な事実が引き出されました。
中原中也の詩篇が「文学界」へ初めて載ったのは
昭和10年4月号であることから
「文学界七月号」のメモは
昭和10年4月以降に書かれたことが推定されたのでした。
未発表詩篇である「春の雨」は
昭和2~3年に制作されたのですが
大事にしまわれてあり
昭和10年に発表されようとしていた
――ということがわかったのです。
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱ解題篇より。)
□
さすが「幻の処女詩集」のための作品で
詩人は自信作もしくは愛着を持っていた詩ということになりました。
「春の雨」は
未発表詩篇/草稿詩篇(1925~28年)の真ん中あたり、
「浮浪」と「屠殺所」の間にあります。
■
春の雨
昨日は喜び、今日は死に、
明日は戦い?……
ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
道に踏まれて消えてゆく。
歌いしほどに心地よく、
聞かせしほどにわれ喘(あえ)ぐ。
春わが心をつき裂きぬ、
たれか来りてわを愛せ。
ああ喜びはともにせん、
わが恋人よはらからよ。
われの心の幼くて、
われの心に怒りあり。
さてもこの日に雨が降る、
雨の音きけ、雨の音。
■
第1連にある「胸ぬち」は
「胸の内」の意味です。
詩人の浮浪は続けられ、
昨日は喜び、今日は死に、
明日は戦い?……
――と歌われるのは
酒交じりの席での意気投合や
論争や口論や取っ組み合い(?)の日々が
明日も続くかと恐れる気持ちの発露でしょうか。
詩をめぐる談論風発ならまだしも
そこに
「愛」はなかったものでしょうか。
酔いを回して歌えば心地よく
弁舌を聞かせれば心苦しく
春の夜に
詩人の心は切り裂かれ
こんなんじゃないやい
ぼくを愛する人よ、来いやい
喜びをともにしよう
恋人よ 友よ
ぼくの心が狭いばかりに
怒りがどうも先に立つ
こんな時だというのに雨だ雨だ
ああ 雨の音だ――。
□
色々なことが歌われています。
単旋律ではありません。
昨日は喜び、
今日は死に、
明日は戦い?……
これが
昭和2~3年の時点では、
つい最近のことでもあれば
昭和10年になっても
ノスタルジーの中のことではない
詩人の心の内でした。
□
ほのかに紅(くれない)の色をしている胸の中は
あまりにも清いので
汚れた世の中では消えていくしかない。
歌えば気持ちがさっぱりし
議論すれば息はあがる。
春が僕の心を引き裂いたのだ
だれか来てよ
僕を愛してよ
一緒に喜びたいのだ
恋人よ友よ
僕の心が幼稚なために
僕の心に怒りは起こる。
そんな日に雨が降るのさ、春の雨。
じっとして雨の音を聞いていよう。
□
恋人・泰子に去られて2、3年が経ちます。
京都で意気投合し同棲
連れ立って上京した「同志」のような存在でもあった泰子が
突然文学仲間の小林秀雄と暮らしはじめました。
この事件後
詩人の心は「千々(ちぢ)に」乱れます。
「口惜しい人」になります。
この頃に作られた詩です。
その詩が
昭和10年にも「現在」であり続けました。
「恋人よ」とあるのは
泰子のことであるなら
「はらからよ」とあるのは
小林のことかもしれません。
遠い日が
雨の音の中から現われては消え
消えてはまた現われます。
雨は昔のことを
かき消すようで
かき乱すものなのです。
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