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20年ぶりに読む物語から愛と赦すことを考える

「世界の中心で、愛をさけぶ」を読み終わって最初に思ったことは、このタイトルは誰の言葉だろうということ。

これは主人公サクの言葉だと思う。

はじめてこの作品を読んだ16歳のときはタイトルのことなんて気にもとめなかった。
主人公の彼らと同じく高校生だった。その頃の印象は”恋愛は楽しくて人生を変えるほど尊くて切ない。だからぼくも恋がしたい”
これが16歳のころの感想。思春期男子の恋への恋を加速させた作品の一つだ。

20年経って、この物語が一人の男性の成長を描いた物語だと気づいた。
恋、愛、未熟さ、喪失、再生、歩みだすこと
サクは人生の重要な部分を若くして経験していた。きっとサクと彼が愛したアキは世界の中心で恋に落ちたと感じていたのだろう。それは尊く、青く、深く人生に残る恋だ。その恋の中でサクは女性を知り、友情を知り、祖父から愛の深さを学び、アキの病気と喪失を通じて、一人の男性として多くの経験を重ねていった。そしてアキとの2度目の別れを経験し、アキを愛したサクから、一人の男性として歩みはじめる一人の男性が愛を通じて成長する姿を見守る物語だ。

この作品の中でもう一人、愛の中で成長した人がいる。サクの祖父だ。
愛は祝福にも呪縛にもなる。でもそれが愛だ。
サクの祖父は数十年のときのなかで多くの人や不都合な事実も不条理もすべて受け止めて、赦して、手放しながら最愛の人を愛し続けた。
そして愛し続けた先の唯一のわがままをサクに託した。

サクも、サクの祖父も大切な人を愛することで、自分の人生を歩むことを学んだ男性だったのではないだろうか。愛は祝福にも呪縛にもなることもサクの祖父は数十年のときのなかで自らと取り巻く環境を赦すことと、手放すことを続けながらも最愛の人を想い続けた。

20年経った今、もし叶うならサクにアキとの時間がどう変化したのか聞いてたい。できることならそこにはうなぎとビールがほしい。


なぜ、このように物語の受け取り方が変わったのか。

それはぼく自身が大切な人を失うことや、未熟さに打ちひしがれること、歩み続ける以外の選択肢がないことを知ったからだと思う。

なぜ今こんなにも自分は未熟なのかとぎゅっと拳をにぎりしめること、それでもどうすることも出来ず助けを求めることでしか新たな世界は開かないということ。今という時間はどんなことをしても止められず流れていくということ。これらを16歳のぼくは知らなかった。

20年の中で価値観に影響を与える出来事はいくつもあったが、普段暮らしていると気づかない。でもふとした瞬間、不意に起こるきっかけによって自分の心や価値観に大きく影響する出来事があったと思い出す。

そのきっかけが今回「セカチュー」を読んだことだ。

サクのように自分を赦していいんじゃないか。赦した先を生きることが、アキを愛したように、ありのままの自分を愛することができるのではないかと感じた。

この作品が映画化された際の主題歌「瞳を閉じて」を物語を読んだ後に聞き直した。

いつかは君のこと何も感じなくなるのかな
今の痛み抱いて眠る方がまだいいかな

瞳を閉じて

時とともに記憶は薄れゆく。声、香り、肌の質感、笑顔。忘れることは痛みだ。でもその痛みと悲しみを抱いて眠りたい時がある。

記憶の中に君を探すよそれだけでいい
なくしたものを越える強さを君がくれたから

瞳を閉じて

時とともに記憶は薄れゆく。でも記憶の中から君を探すことはいつまでもできる。そこに君がいるという事実と、それがなくしたものを越えるということであるとサクは知った。

瞳を閉じてはサクの成長を描いた曲だった。

1つの物語と1つの曲。

一人の男性の深い愛と成長の物語を通して、自分の20年を振り返りながら愛と赦すことについて考えることが出来た。

まだ読んでないという方は、ぜひ読んでみてください。
すでに読んだという方は、どのように感じ方が変化したかぜひ教えて下さい。



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