10年ぶりに『芋粥』を読みました
昔読んだ本をもう一度読み返すことを最近やっています。芥川龍之介の話は中学生や高校生のとき好きで、よく読んでいました。中でも鼻とか芋粥の話が好きでした。中高生の頃のわたしはつい色々なことに高望みをしてしまうタイプだったので、当時のわたしにとって、これらの話は慰みになったのかもしれません。
20代後半になり、なんとなしに芋粥をもう一度読んでみました。率直に言って、「こんな話だったんだっけ!?!!?」と驚きました。当時のわたしの理解が、今にも増してあまりにも表層的だったように思えました。本稿では、20代後半の人間の理解として、芋粥の話の感想を書くことで、人生に一個の石を置いておこうと思います。(※あらすじはあえて書かないので、話を知らない人は以下のリンクからぜひ読んでください)
人生に対する路傍の人
――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂(わら)ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。
芋粥全編を通して一番印象的だったのはこの一文でした。「人生に対する路傍の人」とはどういうことなんでしょうか?現代文の試験問題で、傍線を引かれて「どういうことか?」と聞かれると困るな、と思いました。わたしは現代文のこの手の問題が超苦手だったのです。
路傍の人というのは「ただの通りすがりの人」というような意味です。この一文は「(自分の)人生に対する路傍の人」ということなんでしょうか?だとすると、「自分にとって通りすがりの人レベルにどうでもいい存在なので、そんな奴は無視しておけば良い」というような解釈になります。ですが、そんな熱血体育会系のようなことを書いているとはあまり思えず、この解釈は合っていないように思います。もっと強いメッセージがあるというか、その愚行をバカにするタイプの人間に対する、もっと強い軽蔑の念が向けられているように思えてなりません。
これは、人生というものに対して本気で関われないというか、人生という概念に対して通りすがりの人レベルの関わりしか持てない、ということを言っているのではないか?と思います。言い換えると、人生という概念が他人のふりをして去っていくような感覚です。もしかしたら歪んで読んでしまっているのかもしれませんが、「お前は人生を諦めている」ではなく、「お前は人生に諦められている」と言われているかのような冷徹さを感じました。"人生"という概念が主役で、人間が背景にされてしまうような恐ろしさを感じました。
愚を哂(わら)っていないと言い切れるか?
わたしは先ほどの文章にドキッとさせられながらも、心のどこかで、自分はまあ笑ったりしないし……とこれを他人事として扱っていました。なぜなら、自分もまた「叶うか叶わないかわからない欲望」に一生を左右されているタイプの人間の一人だからです。芋粥の小説を読んでいて、五位さんに感じた気持ちは「共感」でした。どうしてもかなえたい欲望があったのに、それがいざ「叶うぞ!」となったときに、「こ、こんなもんか……」とつい思ってしまう……ということに対する共感です。この共感は、例えるなら、「バケツ一杯のプリンを食べたい」とか「シャインマスカットを3房、おなか一杯になるまで食べたい」とか、そういう欲望を抱いたとして、実際に10000円でシャインマスカットを買って食べ、後悔する……と言うような想像に対する共感です。
この共感は、「芋粥」の小説を昔読んだときに覚えた共感でした。それは「こういう話だった」という記憶、それを自分の浅い実体験に紐づけて理解したものに基づくものです。ですが、改めて読んでみると、芋粥の五位さんが味わったことは、そんなものではないのではないか?ということが急に気になってきたのです。
彼の「芋粥に飽かむ」ことは、本当に彼が人生をかけて感じていた、叶うか叶わないかの欲望でした。貯金をちょっと切り崩せばできるというようなものではなく、お金持ちのすごい人間から情けをかけられでもしない限り、絶対に成し遂げられないようなものでした。自分の意志でどうにかなるようなことではないということです。こんな切実な感情に対して、割と色々なことを自由にできる人間が「共感」するというのは、五位さんの人生そのものを軽視していることになるのではないか?という気がしてならなくなってきました。つまり、この浅はかな共感は「愚を哂う」ことの一つの形態なのではないか?と思ってしまったのです。
「人生に対する路傍の人」とは、まさしくこういうことなのかもしれません。「充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしま」うほど、人生と真剣にかかわれていないのかもしれません。人生、ますますわからなくなっていくものですね……。