ADHDの治療を始めた話
突然なんですがタイトルの通り通っている心療内科でADHD(発達障害)と診断を受け投薬治療を始めました。
いや、
お前まだ病気持ってたの?(自分が一番呆れてる)
トラブルの多い私の心身。このnoteに記した分だけでも諸々のアレルギー性疾患、卵巣嚢腫、股にちんぽこ(←)、貧血、自律神経失調症からの鬱病、AC、ADHD(NEW!!)(イマココ!!)、、、、、、、
診断の経緯
結構前から先生から話はされていたんですが、センシティブな話だけに先生もゆっくりじっくり数か月かけて話してくださって、言われたばかりの頃はまだそういう傾向がある可能性があるくらいの話だったんです。そこから数か月かけて私もADHDについて勉強して、先生と私のADHDは治療をすべきADHDなのか話し合って、ついに先日投薬治療を開始したって感じです。
もしかしたら先生はもっと前からADHDの可能性に気付いていたのかもだけど、最初にうっすらと話題になったのは夏頃。「彼氏とか他人のためになら何とか動けるけど自分のために動けない何もできない」って話になったときにドーパミンが少ないせいでそうなっちゃう人もいるんだよって話をしました。そのときはADHDって言葉は出ず。
その後も先生との診療時間の中で、刺激がないと動き続けられない(淡々とした作業や仕事が苦手)、仕事をNOと言えず引き取ってしまう、物事が長く続かないとかいろいろ話す中で、世の中にはそういう脳の傾向を持った人がいるよ~って話をされて、ふ~んと。
で、2ヶ月くらい前に初めてADHD・発達障害って言葉が出てきて、でもそのときも「ADHDは障がいではない。ADHDのような傾向を持っていても普通に世の中で過ごしている人もいる、あなたも現に今の歳まで過ごしてきた。そういった傾向を持つ人の中でも治療をしないと生活を送るのが困難な人が病気として治療をすることになる。薬で前頭葉がスムーズに働くようになるとすごく楽になったという人もいるよ」っていう風に話されて。過去を思い返せばADHDの特徴、確かに自分にめっちゃ当てはまるけどなんだかんだ生きてこれたしな、自分のそういう傾向は治療するほどではないのかなって聞いた当初は思って。この頃は自分がACだってことに気付いた頃でもあったから自分の生き辛さの原因がACによるものなのかADHDによるものなのか悶々としながら過ごしていました。
でも先生とヒアリングを進めていく中で、自分の心の多動(頭の中で何かをずーっと考えてる、頭の中がずっとマシンガンでしゃべり続けている感じ。ぼーっとすることができない。)が酷くて心が休まらないこと、何かに興味を持つ・コツコツ継続することが難しいこと(心を休めるための余暇が持てない)、体調が以前より良くなってきても自分のために起き上って何かをすることが難しいこと(先送り癖)が鬱病を治すうえで障害になっているよねってことを共有して、投薬治療をすることにしました。
とはいってもまだほんと少量のアトモキセチンって薬を始めただけで、前回の診察時にCAARSというADHDの程度を図るテストをしたのでその結果とかを見ながら今後コンサータという薬を使った治療をしていくのかなと思います。
過去の私の辛かったことがADHDのせいだったなら・・・。
まず幼少期。椅子にじっと座ってられなかった。親や周りの人にぺたりちゃんはとにかく落ち着きがないねとかなり言われていた。なんとか椅子に座っていてもスカートを捲ったりしちゃう。パンツ丸見え。母がお受験ママだったためじっと座らないといけないシチュエーションが多く「じっと座ってなさい!!」と何度も怒られたり、小学校受験の面談のとき無意識にスカートを捲りかけたら隣の母に手をつねられたのを覚えている。痛かった。みんながお歌や演技に集中している学芸会ではただ一人ぺたりはここだよ~!ってぴょんぴょん跳ねて自分のことを指さしていたらしい。アホ。小学校受験のために通っていた塾ではIQは高いがとにかく落ち着きがなくそれ故のミスも多いと言われる。志望校は全落ちでほぼコネ入学みたいな感じで一応私立小学校には入る。
小学校に入って以降の朝礼とかも本当に辛かった。静かに起立したり体育座りして人の話を聞くのが本当に辛かった。というか多分できていなかった。手足のどこかしらは動いてたし心はお散歩に出掛けていたけど、親の躾の影響か、私が賢かったからか、みんなはじっと座ってるから自分も同じようにしなきゃと立ち上がったりとかそういうことは多分記憶のうえではしていなかったけどとにかくめっちゃ我慢してた本当に辛かった。みんなもそうなんだと思ってたけど違ったんだね…。社会人になってから瞑想を勧めてくる上司がいたんだけどどうしても瞑想ができなくてエッこれできないの自分だけ?みんなの心の中は今空っぽなの?どうしたら心の声を止められるのォオオオオ(瞑想時間終了)って毎度なってたのも私だけだったんだね。会議とかになると心がお散歩に行っちゃって議事録を妄想で書いていたのも私だけなんだね。
ものをすぐに無くす。大事なものなのに無くす。大事なものこそ無くす。忘れ物のオンパレード。教科書を見せてくれた子、文房具を貸してくれた子に圧倒的感謝。朝机の上に置いてあるお弁当を持っていけない&持って帰ってこれない。部屋は豚小屋で親に毎日怒鳴られる。それでも片づけられない。何度も泣きながら徹夜で部屋の片づけとかさせられてた(でも片付かない)。高校以降はこの汚部屋の写真を付き合ってる人に見せてやると親に脅される(でも片付けられない)。
先延ばし癖がやばい。小学校低学年から夏休みの宿題は前日までやらないというかやれない。やろうやろうと思ってるのにやれない。今年こそと思うのにやれない。毎年8月31日に1か月半分の絵日記を描いている。なんなら9月最初の授業の前の10分休みとかにみんなの答えを写してる。コツコツやれる友達のことが理解不能。答えたくさん見せてくれてありがとう。普段の宿題ももちろんできない。中2のときの成績は5段階中2ばかり。評価欄「やる気がない」、多分集中できない&宿題ができなかったから。これは大人になった今もで会社で必須の通信教育をやらずに同期全員の前で呼び出しくらったり、やらなきゃいけない手続きとかが永遠に後回しだったり(先日3年越しの運転免許の住所変更をなんとかやり遂げました3年間まじで不便だった)。先延ばし癖で友達との関係も継続できない。卒業したら連絡とろうとろう思っても連絡できない来ても返信ができなくて無視しちゃうからサヨナラ~(クソ)。今も未読のメールが何百通とあるしラインの既読をつけることすら困難てか既読機能作ったやつ誰やねんまじでADHD殺す気か。
物事が継続できない。習い事、部活動すべて続かない。夏休みのラジオ体操も1回しか行けない。親にあんたは何をやっても中途半端って怒られる。でも続かない。何も続かないので趣味も特技もない。大学の講義も最初の1回は出られるんだけど2回目以降だんだん出られなくなる。まじで卒業が怪しくて4年生の後期までぎりぎりで単位と闘ってた(ほんとにあと1単位でも落としたら留年のところでギリ卒業。よく頑張りました)。
あといらんことぺらぺらしゃべっちゃうとか、いじめに遭いまくったのもそういうところが周りから見て浮いていたからっていうのもあるかもしれない。会社に入ってからは細かいミスが本当に多くて気を付けてるのに多くてよく注意されたし自分でも自分に絶望してた。
でも私世間から見れば結構優秀なんです
小中高大すべて受験してそこそこの進学校に通い一応高学歴と言われる部類の大学を卒業しているし、入社した企業も言えばすごいねって一応言われるようなところです(実際にすごい会社・良い会社なのかは置いておいて…)。休職前までの社内の評価も体調を崩すまでは普通以上、優秀と言われたりもしました。子供の頃落ち着きがないと言われていたものの、その後やる気がない、だらしがないと言われながらも、そこそこ優秀な人っぽく生きてきました。
自分って本当にダメな人間だなぁと思いながら、本当にここだけはやらないとまずいまずいんだって先延ばしにするなやれやれやるんだ自分キィエエエエエエエって自分を一部矯正して(これを擬態というらしいです)生きてきました。
例えば物を失くすに対しては大事なものはとにかく定位置を決める。置くときに必ずそこに置く。置くことを先延ばしにしようとしてもそうすることによって未来の自分が困るからあアアアアアアアアって鋼の意思で物を定位置に戻す。まぁそれでも失くすときは失くすんですけどね(最近実印なくした)。定位置がないものは失くしたときに自分が探しそうな場所に置いておく(最近返済中の奨学金関係の書類なくした)。パスワードとか忘れちゃうから同じのを使いまわす(ダメ絶対)、紙に書いておく(パスワードの意味ない)。
集中できないことについてはもう何度も何度も歯食いしばって自分の意識を戻すしかない。会議は全部聞こうなんて思うな何とか聞けたワードから文脈を読め(いや話を聞け)。自分でやる会議はブレストになりがち。会議が終わったらみんなにどんな内容だったか聞いて回る、こんな内容で間違いなかったよね?もちろん聞いていましたけど私の理解は間違っていなかったかな?風に攻める。
自己研鑽、興味がない内容コツコツ勉強は不可能なので諦める。みんなえらーい、すごーい、なんで私ってこんなやる気が出ないんだろう?必須のもののときだけは期限直前に本気出して答え持っている人を探す。それすらやらなくて優しい同期が勝手に答えをくれることもあった(優しすぎ)。
受験勉強は毎度短期決戦のスパルタ型、中学校受験ほぼ無勉強、高校受験1年ちょい、大学受験半年。持ち前のIQを活かして瞬発力と運と過集中で勝負!中学時代は一時期本当に成績が落ち込んだけど地元で有名な超スパルタ塾に入れられて毎日のように怒鳴られながら机とか壁とか蹴られながらそれでも宿題とかやっていかなくてこいつはどうしようもねえって親まで怒られながら学年最下位に近かったであろう偏差値を60くらいまで上げてもらいました。冷静に人生の恩人だよね怖かったけど。
部屋の片付けできないので物をなるべく持たない!定位置を決める!散らかりにくい部屋を最初に作る!無理!散らかる!
と、まぁそんな感じで擬態して生きてきたわけです(擬態できてる…?)。
色々問題はあったけどアラサ―まで生きてきちゃったんですね。ADHDや発達障害って言葉は聞いたことはあって意味はなんとなく知っていたけど毒母が「そんなのになるのは教育のせい、うちの子は関係ない」って決めつけてうちの子はもしかしたら…って思ってくれなかったせいで普通の子と同じことを求められ結果としてなんとか体裁上はそこそこ優秀な人に落ち着いたわけです。
生きてこれたなら問題なくない?
私も最初はそう思っていたんですが、生きてこれたというより生きざるを得なかったって感じなので、私の心はたくさんの傷を負ってきました。
まず大量の「なんで出来ないの?」。家族からも先生からも自分自身からも。怒られる理由は分かるけどどうしても周りみたいにできない。周りはできているのに、なんで自分はできないんだろう。なんとかできたとしても周りの何倍も努力をする(脳の違う部分で補う)から疲れる。
そして成功体験のなさ。コツコツと何かを積み重ねた経験がない。その場しのぎで生きてきた感覚。自分に自信がない。
自分を大事にできない。やらなきゃいけないことをこなすのに必死で自分のことを癒せない。思えば子供の頃から休日何もなければ永遠に寝てる子でした。金曜日に寝て日曜日の夜に起きるくらい(実話)。食べることやトイレすら面倒くさい。自分のことになるとスイッチが入らず何もできずにただ時間を過ごして自己嫌悪に陥ってでもスイッチは入らなくて(以下略)。
鬱病を治すうえでこうした問題が障がいになっているよねって話を先生とした上で治療を始めました。効果が出るのはもうしばらく先のことだと思うのですが効果が出て毎日が生きやすくなるといいなと思っています。
同時に絶望も。
ADHDは家族性があると言われていて母は確かにその気がある。では私が子供を持った場合は…?もともとACのせいか結婚や出産には否定的だったのですがさらにマイナスポイントが…。正直今の私は年齢的には結婚出産適齢期なんだろうけど自分を癒す、自分自身を育てる、充実させることすらまだできていなくて、そんな中結婚出産して誰かのために生きることになるの…?という結婚出産に対しての絶望感があって、しかもその生まれてくる子が自分の持つ遺伝のせいで通常より手のかかる子だとしたら…
考えるのやーめた!
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