(連載36)テルミン奏者のシンセ・バンドにスカウトされた:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1999-2001年
前回からの続きです。
前回も長かったけど、今回も長いです!!すんません。
ざっくりと、まとめますと、1998年前後の話ですが、ロサンゼルス在住の日本人仲間とカラオケで馬鹿騒ぎするようになって、コスプレもやりだして、飲めや、歌えや、踊れや〜〜って、ワイワイやっているうちに、「パーティー・ピーポー」に。そして、、、、、。
気がついたら、ローカルバンドの踊り子でひっぱりだこ、、、。
別にダンサーやりたくて、アメリカいる訳でわないのに。。。
私のアイデンティティは、ケージツ家っ!!
です。
売れなくたって、自分の作品だけ作ってれば、幸せなイチ小市民なのです。
食えないアーティストでもぜんぜん、オッケーでした。(もちろん食えれば、嬉しいですが)
なので、舞台で何か、とか、人前でなにかやりたいなんて、思った事は一度もありませんでした。(きっぱり)
私は常に裏方さん!!!
表に出る人を助けたり、準備したり、お世話したり、また、ミシンを踏んだり、絵を描いたり、電気のこぎりで、板を切ったり、ネジをまわしたりとかとかそういうのが好きなんですよ〜。なので、仕事の方もバイトにつぐバイトでしたが、それで、満足!!
もう裏方さんの才能が十分に開花しておったのです。
あ、、ウラカタ時代の昔の写真をあさってたら、こんなのがありました。
この頃、映画秘宝という雑誌で、柳下毅一郎さんと町山智浩さんの取材のお手伝い=裏方さん)を、させて頂いた事もあったんですよー。
当時、私は、純真無垢だったのですが、このおふたりから、エッジなカルチャーをとことん教わり、多大な影響を受けました。彼らから、ブラック・エクスポイテイション・ムービーと言われるという70年代のブラック映画の数々を紹介されて、ハマってしまい、その監督にインタビューに行ったり、アフロになったのも、すべて、彼らの影響なのでした。
楽しかったな〜!!
おっと、話を戻しますと。「私は裏方さんがお似合い」話でした。。。
確かに、これまでも、私は派手な服、変わった舞台衣装のような服を着てた頃もありましたが、それはただ、自分がそれを着たいから。という理由だけで、別に人前で目立ちたいからではありませんでした。いや、逆に。目立ちたくないと思ってた。だって、バカにされて笑われたりしてましたからねー。詳しくは(連載15)に書いてますが。
それから、次に踊りに関してですが。
踊るのは好きでした。皆様も、クラブにいったりしますよね? その程度だと思ってました。ダンスの学校とかに通った事も、もちろん、ないし。
ただ、、、、ふ〜む。。。。思い起こせば、、、、。ですよ。
1970年代、私の実家の北九州市の門司港でも、アメリカのテレビ番組の「ソウルトレイン」をやっていたんです。あれは、門司港の住民としては衝撃的でしたね。
うちの亡くなった母は中学校で、社会科の教師をやっていたのですが、これが、また破天荒な先生で。苦笑 暴露しますと、、、
母は踊り好きだった。
私は、中学生で、この「ソウルトレイン」を見ながら、テレビの前で母と踊りの学んでおりました。母は先生という学習のプロ。。。笑
「右に1、2。左に1.2やろ?」とステップを踏んだり。「あんた、もうちょっと足をあげてみてん。」とか「ここはこういう風に手を回すのがかっこええやろ〜」とか「脇をしめるのが、コツやね」などと、ビデオがない時代だったので、もう、その瞬間を見逃したら終わりです。なので、ふたりとも、テレビに食いつきで。。。
私はまだ子供だったので、クラブには行けませんでしたが、
母は大人!
なので、地元のクラブにも出入りしてた。。。。
「今、ゴーゴー・クラブではこんなんが流行っとるんよ。」と踊ってみせて、私は中学生で、ナマの現地情報でさえも習得! 母は教えるプロ!!
母と娘がリビング=家庭内ダンスフロアで、行ったり来たり。
ちなみにこの頃の母の髪型はミニアフロ!爆
もう母の事は、一冊書けるくらいキャラが濃かったんで、またの機会にぜひ、ご紹介させてください。
そして、私の踊り経験ですが、高校時代には、キャロルというバンドにのめりこんで、(連載24)ロケンロールやロッカビリーのリバイバル、アメリカの50−60年代のポップスなどをかじるようになったので、(かじった程度です)50年代ファッションのポニーテールでツイストを踊ったりするようになり、東京に引っ越してからは、キャロルの弟分?だった、たしか、チェリーボーイズっていうバンド、、、、彼らがツイスト大会を新宿のクラブで主催したので、それに参加してみたら、なんと3位だったんですよー。
それでも、別に、舞台で踊りたいとか、将来ダンサーになりたいとか、思ってもみませんでした。
で、その後もずっと、このブログに書き続けていたような、
基本、バックステージの舞台裏人生。
それがナンの因果か、。。。。
例のカラオケの馬鹿騒ぎ大宴会を続けていくうちに、人前で何かバカな事やるのが、まったく平気になってしまい。。。。
その結果の「気がついたらロスの踊り子」
そして、前回も申しました、あっという間に3つのローカル・バンドの掛け持ちとなり、多忙きわまりない夜の生活がはじまったのです。
そして、この流れは、止まらず、とうとうその中の一つのバンドから、
バンドメンバーにならない?
と、スカウトされたのです。
踊り子から、バ、バ、、、、、バンドぉ??
まず、告白いたします。
70年代はキャロル
80年代は、ユーミンと山下達郎。。。
90年代はアメリカに来て、自慢じゃないけど、CDは(デジタル以前、まだCDの時代です)2枚しか買ってない。汗
10年間で、たったの2枚ですよ!!
ちなみにその2枚は、「ディガブル・プラネット」という今はもういなくなったヒップホップのバンドと「ビースティー・ボーイス」それも、買った理由は、ディガブルは英語がわかりやすい、そして、ビースティーは自分の家の近くに住んでるという理由だけで。。。
別に音楽がどうのこうのという理由じゃなかった。汗
もちろん、あたくし、楽器は、ほとんどできませんでした。
あ、はい。失礼いたしました!
まずは、私をスカウトしたというバンドのお話からはじめます。
実はバンドといっても、韓国系のアメリカ人のケビン・スッコ・リー君がひとりで、音を作っていたんですよ。
当時のケビンです。アメリカ生まれで、韓国語はできません。
特筆すべきなのは、彼はテルミンが弾けたのです。
みなさん、テルミンてご存知ですか?
こんな楽器。
両手で、周波数を遮ったりして?音を出すので、何も触らないのに音が出るんですよ。
その昔テルミン博士って人が発明したのですが、不思議な音。
そして、知る人ぞ知るこの楽器、クールなミュージシャンなら誰もが、憧れるこの楽器ですが、演奏するのは、かなり高度なテクニックがいるのです。
それを彼は!!楽々と弾けるのでした。。。
ともかく、スゴイです!!!
なので、彼の楽曲はこのテルミンとシンセで構成されていて、それでいて、かしこまっていない、踊れるラウンジ・ミュージックとでも、申しましょうか、グルーブ感のあふれる見事なシンセ・ポップでありました。
そして、すでにこの時点で彼のアルバムは、ベルリンのレーベルからデビューする事が決まっていたのでした。
で、そのバンドの名前っていうのが、ですね。。。
すごい名前でしょ?
東京に住んでる妹は、これを聞いて、もうショックで気絶しそうになってました。「姉がアメリカでセックスロバっていうのをやってるなんて、誰にも言えない。。。。」と、電話口で、嘆いておりました。
なんで、こんなヘンテコな名前になったのか、理由を尋ねたら、日本食レストランで、sex ってなんていうの?って聞いたら、せっくすぅー。では、donky は?ってきいたら、ロバと言われたんで。という理由。
なんで、この二つがくっつくかね〜〜?とも思ったけど?
ま、英語だと、セクシーロボットに聞こえる事が多かった。
踊り子の時は彼がバックトラックを流し、ライブでテルミンを引いてる横で、私が踊ってるというライブ、を何回かやりました。
そして、その後、このバンドメンバーにならない?と言われたのでした。
で、よくよくケビンに聞いてみたら。。。
彼がいうのは、バンドメンバーといっても、ビジアル担当のメンバー。もうCDはできてるし、営業ライブをやるにも、自分一人で舞台に立ってるよりも、なにか派手なチラチラする存在が、必要だと思ったのでしょう。音楽のビジュアル・イメージというのもあるし。
なので、バンド・メンバーなんだけど、音以外担当ってことで。。。苦笑
まあ、これも、コスプレ・カラオケの大宴会パーティーの延長だと思えば、
あたいの
お得意分野!!!
それに、ただ踊り子と違って、自分で好きなイメージやアクションも決められるんだったら、クリエイティブな可能性も無限大だし、「ほな、やってみるわ〜」となった。
そしてバンドのイメージは、「レトロフューチャー」と「メディカル」をまぜたスタイルにして、衣装も、私が決めた。それは彼の音楽や、テルミン演奏ともとフィットしケビンも気に入ってくれた。
そして、舞台用におもちゃのキーボードを買って、スイッチはオフにして、ピコピコ鳴らすふりをした。のちにシンセドラム、簡単なボーカルくらいはやるようになったのですが。。。。(その頃のファンの皆様、騙しててごめんさない。苦笑)
セットも小道具も全部自分ひとりで作った。美容室の頭にかぶるドライヤーをリサイクルショップで、買ってきて、分解して、スタンドにしたり(写真中央の丸いやつ二つ)
彼はまた、映像オタクでもありまして、、あ、私はオタク=マニアを尊敬しています。なんてたって、前述の映画秘宝=町山・柳下の影響下ですから!
彼は自分の集めた昔のロボットや怪獣、SFのフィルムやビデオをバックで流したり。最低でも私の衣装替えは2回。
彼の音楽と、テルミン演奏と、ライブのビジュアルが合体して、あっという間に一つの世界ができあがった。
そして、ベルリンのレーベル・オーナーがロサンゼルスに来て、我々のライブを見て、「すごく、いいわ〜!!」となり、私は晴れて、正式なバンドメンバーに昇格したのであった!
で、いよいよCDが出ました。
このグラフィックは、ケビンが私の80年代からの友人のアモーレ・ヒロスケ君の作品を気に入って、お願いしたのでした。アモはこの頃、よくアメリカに来てたので、ふたりとも知り合いになってたんです。
そして、CDが出たあとは、バンドといえば、ツアーです。
同じレーベルのバンドの人たちと西海岸ツアーに行く事になりました。
この馬鹿でかい、ロック・スターが使うツアーバスで!!(レーベルオーナーがジョークでこんなん借りてきた!)
バスの中には、キッチン、リビングやベッドがついてるんです。
バンク・ベッドで寝るツアーメイト達。
そして、も〜〜〜〜う、止まりません!!
西海岸ツアーの後は、海をわたり、ヨーロッパ・ツアーですよ!!
イタリアのミラノ、ドイツはベルリンや、ケルン、フランスはパリ、スイスのチューリッヒ、などなど全部で14箇所も回りました。
左はいっしょにツアーにいったバンド「アニュービアン・ライト」
アニュービアンに美人でセクシー系のダンサーがいて、これはイタリアですが、最前列は男ばっか!!!!爆笑
この女性です。美人でしょ? バックがツアーのポスター。彼女はどこでもモテモテでした。
カラオケ→コスプレ→踊り子→バンド→ヨーロッパ・ツアー!!
ここまで来てしまった。。。。。もう後戻りはできん。。。。
私のアクションの方も、ダンスだけでなく、くるくるとバトンを回したり、シャボン玉を飛ばしながら客席を回ったり、
サックスを拭くマネをしたり、モニターに飛び乗ったり、
舞台で寝転がったり、
どんどん、あのカラオケの宴会芸で鍛えた、
((( 骨太のサービス精神 )))
が、エスカレートして爆発!!
ローカルのシルバーレイクやエコパーク、ハリウッドなどで、ライブを何回もやるうちに、セックスロバは、ちょいと知られた存在になっていきました。。。。。(あくまでローカルですが!)
ほな、あんだけ、言ってたアート活動はどうなったんや???と
皆様は思われるでありましょう。
心配GO無用です!!
私の欲は底なし、、、、であります。
そちらはそちらで、もう〜、
自分が天才かと(またかよ?)
と、思うプロジェクトが始まっておりました。
いったい何を???
それを次回、お話いたします。
でわ!!
L*