Deity of the Dead
金属に触れた手が震える。
恐怖と嫌悪感に抗いながら曲げた人差し指は他人のモノのようにぎこちなく、今にも心がくじけそうになっていた。もしそうなれば、この指をもう一度曲げる自信はなかった。
(しくじれないのに……お願い。止まって)
自分ではどうにもできない震えを抑えるため、水谷理香は教室の黒板に背中を預けた。石膏の冷たさが後頭部に伝わり、視線が天井を仰ぐ。
窓からは陽光が薄く差し込み、光の線が教室内を横切る。それらの光線が埃を浮かび上がらせ、微かな粒子が舞い踊っていた。彼女以外、教室に人はいなかった。そういう場所を選んだ。
――死に場所として。
理香の手には拳銃が握られていた。
この学園に避難する道中、血塗れで倒れていた警官から拝借したものだ。撃鉄は既に起こしており、引き金に添えた指は依然として震えたままでいる。素人目にも暴発寸前なのは明らかだった。
「――――ッ……!」
意を決し――
理香は自らのこめかみに銃口を突きつけた。
鋼の円筒の感触は想像していたよりもおぞましく、まるで冷風でも吹き出ているかのように不快な寒気が首筋から背中へと下りていった。
けれど本来、銃口から飛び出すのは冷風ではない。手加減なしに人体を壊す死だ。
きつく眼をつぶり、理香は引き金を絞った。
カチンッ!
撃鉄がちゃちな音を立てる。
――が、それだけだ。弾丸がもたらす衝撃も、覚悟していた刹那の痛みも、ましてや冷風もない。
「…………?」――疑問附を浮かべ、理香は自分の手元を見下ろした。
拳銃は変わらずそこにある。手汗で濡れて銃把の鈍色がさっきよりも濃くなっているが……
(まさか、汗で弾が湿気ったとか?)
そんな考えが頭を過ぎり、理香は回転弾倉を覗き込んだ。
と――
あっ、と声が出そうになった。回転弾倉の穴を通して床の木目が見えている。そもそも弾が入っていなかったのだ。普段であれば考えられないミスに舌打ちし、理香は羽織っていた白衣をひっくり返した。
たしか拳銃を拾ったとき、血溜まりの中に弾も転がっていたはず……血生臭い光景を想起しつつ、どこかのポケットから弾がこぼれ落ちないかと白衣をバタつかせていると――
「お探しもの?」
いきなり話しかけられ、理香の手がギョッと止まる。
目の前に女子生徒がいた。白を基調に濃い緑色で彩られたセーラー服……この学園の制服だ。彼女は頬杖をついたまま、教壇にもたれかかっていた。その姿勢からは疲れや無気力さが感じられるが、顔にはどこか面白がるような、にんまりとした笑みが浮かんでいた。
いったい、いつ教室に入ってきたのか――
「ひょっとして、これ?」
訝るだけで何も言えずにいると、彼女は小さな塊を指でつまんで差し出してきた。弾だ。
それをどう使うのか。何故使うのか。
(聞かれたら……答えなきゃダメ?)
気まずさを拭えないまま、理香はおずおずと手を伸ばした。ぽとりと、そこに弾が落とされる。
礼を言うべきか迷ったが、会話に発展することを恐れ、理香は口をつぐんだ。視線だけは女子生徒から外さず、慣れない手つきで回転弾倉に弾を込めようとして――
「そいつで自分の頭をパァ――ンとやっちゃうわけだ」
思わず弾を落としそうになった。
バレている。にも関わらず、彼女は釣り銭でも渡すような気軽さで弾を返してきたのだ。その結果、どうなるか理解した上で。
唖然と固まる理香に構わず、女子生徒は言葉を続けてきた。
「なんで? 噛まれたの?」
彼女の問いに主語はなかった。必要なかった。
この世界で噛んでくる相手はひとつだけ。
ゾンビだ。
騒音を抑えるための音響吸収材が床と壁一面に貼り巡らされ、静謐に包まれた研究室――時折聞こえてくる実験の進行を知らせる微かなブザーとビーコンの信号音――
つい先日まで自分がいた環境を思い出しながら、理香は舌先で唇を湿らせた。今日は人目を避けて行動していたため、誰とも会話を交わす機会がなく、上唇と下唇がすっかりくっついていた。
「噛まれてなんかない」
「じゃあ、どうして?」
女子生徒が親指と人差し指で拳銃の形を作り、自らのこめかみに突きつける。ご丁寧に撃つジェスチャーまで。悪趣味なパフォーマンスだ。表情には出さないよう、理香は内心で嘆息した。
「……話したくない」
「ンン? それってあたしには話したくないってこと? 他の人になら話せンの? 誰か呼んでこようか?」
涼しい笑みで言ってくる。彼女の提案はこちらを案じて――ではないだろう。意地の悪さが透けて見えている。
今度は心の中ではなく、はっきり相手に伝わるように理香はため息をついた。
「……ゾンビ災害が発生する前――」
声が上擦る。今さらそんなことを気にするのも馬鹿らしくなり、理香はそのまま話し続けた。
「私は某大学の脳科学総合研究所に所属していたの」
誰にも語るつもりのなかった身の上話。これが嫌で人のいない教室を選んだというのに。
喉の奥に苦いものを感じながら絞り出した声はしかし、緊張感に欠けた女子生徒の声によって上書きされた。
「脳科学? クイズでやわらかい頭を手に入れよう、的な? なぞなぞなら得意だけど。やる?」
「……やらない」
「ゾンビに魂があるかどうか、見分ける方法なァんだ?」
「やらないってば。私が研究してたのはクイズじゃなくて脳の退化性神経疾患を食い止める薬。神経細胞の再生能力を高めたり……」
「ははァん、インテリさんだ。走るの苦手そうだもんね、オネーさん。何かやってた? 運動みたいなの」
「寝返り……とか」
「それ運動にカウントされんの新生児までだよ」
「……ともかく――」咳払いして話を戻す。「私の研究が上手くいっていればアルツハイマー病やパーキンソン病患者の助けになるはずだった。それがどれだけ多くの人を救うことになるか……」
「上手くいかなかったんだ」
心ない相づちに、つい眉間に力がこもる。それでもどうにか自制して、理香は視線に鋭さが伴わないよう感情を抑え込んだ。もっとも、睨みつけたところでこの女子生徒が気分を害するとも思えなかったが。
「上手く……いってたと思う。たぶん」
「たぶん?」
「研究者と言っても雇用形態は一般職と変わらないから。当然、研究を指揮する上司がいたの」
金城教授。
彼は教授として、研究者として、栄光に包まれた存在だった。数々の学術論文や専門書の執筆。輝かしい経歴は脳科学の領域においてさらなる飛躍を遂げるための指針であり、多くの若手研究者や学生にとっての理想でもあった。長身でスマートな体格は自信と優雅さに満ちており、学内には熱心なファンも多かったと聞く。
「もしかして、オネーさんもハマってたとか?」
明言を避け、理香は微笑を浮かべるに留めた。
若い――それこそ目の前にいる彼女とさして歳の変わらない頃であれば、教授の頭の中を覗こうと、会話のきっかけを得るために些細な偶然を探していたかもしれない。
(だけど、今となっては……)
金城教授にはある悪癖があった。彼は学界での地位を確立するためなら、どんな手を尽くすことも厭わなかったのだ。
「私の薬は完成してた。臨床試験も問題なくクリアできるはずだった。それなのに――」
臨床試験の直前、金城教授は無断で薬に手を加えた。
「なんで? 良くない成分でも入ってたの?」
「ちがう。私の研究実績を上書きするため。あの人は、自分で薬を作ったことにしたかったの」
かくして臨床試験は開始された。糾弾する理香を無視して。
ところが。
「……異変はすぐに起きた。薬を投与された患者がベッドの上でもがきはじめて……髪を掻きむしり、頭を抱え込んで……全身が痙攣して跳ね上がった。弓形に腰を突き上げて――」
まるで恐怖の絵画のようだった。患者の瞳は混濁し、不気味な光を放ちながら、理性の壁を乗り越えていくのがわかった。
「止めなきゃいけないのに……動けなかった」
真っ先に止めに入ったのは屈強な男性看護師だった。だが、患者の細腕で顔面を横殴りにされるや、為す術もなく元いた場所まで吹っ飛んでいった。砕けた歯の破片を撒き散らしながら。
混乱と苦痛が患者の顔に浮かんでは消えていく。滅茶苦茶に振り降ろされた肘がベッドを破壊し、患者が床に転げ落ちても、今度は誰も近寄ろうとはしなかった。
次の瞬間。
「患者が起き上がったの。映画の倍速でも見てるみたいに凄い勢いで。声をかけたけど、聞いてくれなかった……壁に走っていって、何度も何度も壁に頭を叩きつけて……」
壁に衝撃が伝わるたび、その音は生命の脆さを物語っていた。
顔面が陥没し、硬質だった衝撃音が泥を捏ねるような音に変化して――患者は壁に突っ伏したまま、ズルズルとくずおれていった。
理香を含め、周囲にいた人々は呆然と立ち尽くしていた。臨床試験の失敗は明らかだった。それは破滅をもたらす結果であり、研究者たちの努力が虚しくなった瞬間だった。
「あのときの空気……忘れられない」
緊迫感と恐怖が漂う中、状況は一変した。
辛酸を舐めるような重苦しさが、悲鳴と共に解放される。
「誰もが自分の目を疑った。死体が、まるで生き返ったみたいに起き上がったの。周りのみんなは呆然と立ち尽くしてた。もちろん、私も」
患者の瞳にあったかつての光は失われ、生気が抜け落ちていた。不気味な静寂が辺りに立ち込め、一瞬、時間が止まったような錯覚に襲われる。
その間も死体はゆっくりと動き続けていた。人間の動作とは異なり、足を踏み出すたびに肉体が不自然にねじれ、歪んでいるかのように見えた。
「死んだはずの人間が、戻ってきた」
怖気が背中を這いずり、危機感が肌に広がった。悪夢のような光景を前に、その場にいた者たちは生存本能に縋り付いた。
「みんな一斉に……逃げた。命を救うことが使命の医者まで一緒になって」
誰かを気に掛ける余裕などなく、後ろから聞こえてくる悲鳴から少しでも遠ざかろうと、全員が無我夢中で走り続けた。
「そうしてゾンビ災害が始まった。私の……私たちの研究のせいで、世界は変わってしまった」
「それで責任を取るために?」
こくりと頷く。
避難所として指定されたこの学園に辿り着くまで、生きることに必死で考える暇がなかった。けれど、避難生活を強いられる人々を見て、恐怖で支配されていた心に別の思いが入りこんできた。自責の念が。
それでも大勢から批難される覚悟ができず、こうして誰にも知られないように決着をつけるつもりでいた。遺書も残さず、ただ世界の変貌に悲観した生存者のひとりとして。
けれど、話してしまった。
女子生徒からどんな罵詈雑言を浴びせられるか。殴られても、それこそ殺されても文句は言えない。
正面から女子生徒の顔を直視することができず、理香は震えながら目を閉じた。
――が、
「ハハッ」
予想だにせず、女子生徒が口にしたのは笑い声だった。そのままケタケタと、愉快そうに大笑いしはじめる。
「あァ~、気にしなくていいのに」
「…………えっ?」
笑いすぎて目尻からこぼれた涙を拭いながら、女子生徒が言う。
「オネーさんが責任を感じる必要なんてないよ。だって、外にいるゾンビたちはオネーさんのクスリじゃなくて、あたしが原因なんだから」
あっけらかんと告げられた女子生徒の言葉に。
理香は言葉を失った。
意味がわからなかった。慰めにしては乱暴で、妄想にしては趣味が悪い。
依然笑い続ける女子生徒が発言を補足する様子はなく、まともに取り合うべきか迷っていると――理香を呼ぶ声がした。廊下からだ。
「おン? 先生ェ~……だって。オネーさん、先生だったの? 研究者って言ってなかった?」
「……医療従事者の手が足りてないらしいから。とりあえず」
避難してきた際、着たままだった白衣を見て医者と勘違いされた。専門ではなかったが、学生時代に収めた薬理学や生化学、生物学を思い出しながら治療に当たるうち、本物の医者として扱われるようになってしまった。
「なァんだ、人の役に立ってんじゃん。良かった、死ぬの邪魔しといて」
良かった良かったと楽しそうに繰り返しながら、女子生徒が背中を押しやってくる。抗弁する間もなくドアの前まで連れていかれ、そのままドンッと廊下に押し出された。
「ちょっと!」
声を荒げながら教室を振り返ると、女子生徒がヒラヒラと手を振っているところだった。
「オネーさんはさ、死んじゃダメ。困る人が大勢いるんだから。その銃は自分の頭じゃなくて――もっと違うモノを撃ったほうがいいよ」
やはり愉快そうに物騒なことを言って。
ガラガラ――とドアが閉められる。問い詰めるべきか迷ったが、再び自分を呼ぶ声がしたため、理香は仕方なく教室から離れた。
『外にいるゾンビはあたしが原因なんだから』
女子生徒の妄言をまともに受け取るなんてどうかしてる。それでも、理香は彼女が告げた意味について、考えざるを得なかった。
「――これでもう大丈夫。作業を続けるならゴム製でもなんでもいいので手袋を忘れないように。感染症対策になりますから」
避難民が集団で生活している体育館の一角。バリケードの増築作業中に負傷したという患者の腕には長い裂傷が走っていた。噛み傷ではない――そのことにひとまず安堵し、理香は傷口を覆い隠すように包帯を巻き付けていった。
何度も頭を下げて礼を述べる患者に温かい笑みを返す。が、胸中は冷え切っていた。いくら負傷者の助けになっても、この騒動の発端として、罪悪感は薄まらなかった。
(この光景を見れば……なおさら)
体育館の空気は湿り気を帯び、汗と人々の息遣いで満たされていた。
床はベッドや敷布団で覆われ、老若男女、様々な避難民たちがひしめき合っている。ゾンビを誘き寄せないよう照明は最低限の光で賄われているが、たったそれだけの光でも、皆の表情に眠気と疲労がにじみ出ているのがわかった。
限られたスペースで身を寄せ合って過ごす人や、一時の休息を求めて寝床に横たわる人。その中には怪我を負った人もいて、悪夢にうなされているのか悲鳴や呻き声も聞こえてくる。
息苦しい混沌……
辛い現実から目を背けようとすると、視線は自然と天井付近に向かっていく。体育館の最奥――舞台の上には、巨大な銅板から削り出したであろう、年代物のプレートが飾られている。
仙花学園。
この学園の名前。鎌倉時代の学問所が綿々と続いたとも、新興宗教が母体で近代になって設立されたとも、様々な噂が飛び交っている。パンフレットに正解が書いてあった気もするが、理香にはどうでもよかった。今、もっとも気にするべきことは――
(抗生物質が足りない。鎮痛剤に……それと抗炎症剤も)
医療スペースの在庫は尽き、次の患者が来れば唾でも塗っておくしかなかった。校庭にアロエなり生えていれば代替できるだろうが、外に出る気にはなれない。
(医務室にまだあったかな?)
この学園に避難してきた際、医者と間違われて真っ先に案内された部屋が医務室だった。特別待遇が嫌で個室としては使っていないが、持って来た荷物はすべてそこに置いてある。逃げて来る道中、いくつか薬も集めていたはずだ。
新しい患者が現れる前に準備しておくべきだろう。
理香は足早に体育館から立ち去ると、医務室へと向かった。
真っ直ぐに続く廊下を進む。医務室に鍵はかけていなかった。無論、私物を入れたロッカーや棚にも。魔の差した避難民に盗まれる可能性を考慮しなかったわけではないが、それでもいいと理香は思っていた。自分には罰が必要なのだ。罪悪感を薄れさせる罰が。
(あっ、でも……)
ひとつだけ盗られたくないものを思い出した。
この学園に辿り着く道中、立ち寄ったパティスリーのショーケースに唯一残っていたフルーツサンド。
店内は荒れ果てておりスタッフが戻ってくる様子はなかったが、黙って商品を持っていくのは気が引けたので、その場に千円置いていただいてきた。
今にして思えば、最後の晩餐として食べればよかった。が、今朝はそんなことを考えている余裕もなかった。薬を回収するついでに食べてしまおう。そう考えながらドアを開けると――
「やほ」
ついさっき別れたばかりの顔があった。女子生徒だ。
丸椅子に腰掛け、暢気に手を振っている。
「あなた……どうしてここに」
「先に言っとくけど怪我人でも病人でもないよ。ただ、オネーさんが会いたがってるかなァと思って。抱えてんでしょ? 罪悪感ってやつ」
「別に……そんなこと……」
ないと言い切ろうとして、やめた。
この女子生徒には自殺未遂の現場を目撃されている。今さら取り繕ったところで何かが変わるとも思えなかった。
「……そうね」素直に頷き、言葉を続ける「あなたの言う通りかも。私もあなたに話を聞こうと――」
言いかけて。
はたと気づく。この女子生徒の名前をまだ聞いていない。
(名刺でもあれば楽なのに)
自分の社交性のなさを恨みながら、理香は話を変えた。
「ねえ。あなたのことなんて呼べばいい? JK?」
「……オネーさんさ、バックのことバックじゃなくてブランドで呼ぶタイプ? 高学歴のあほなの?」
あほ呼ばわりは心外でショックを受けたが、文句を言うより早く、
「あたしは仙花」
女子生徒――仙花は自分の胸に手を当て、そう名乗った。
「仙花……?」
ついさっき目にした名前だ。仙花学園。創設者の血縁だろうか。
「もしかして、この学園の――」
理香は興味本位で尋ねようとしたが、
「そ。この学園の神様」
答えは予想だにしない角度で返ってきた。
「――かっ……み?」
「よろしくいぇーい」
両手でピースサインを作る仙花に対し、理香はぽかんと口を開けた。
そのまましばらく。エサを求める鯉のように口をパクパクさせて。
「は……ははっ……」
自然と肩が揺れ、乾いた笑いがこぼれる。
「はは……ははははははは!」
喉が痙攣したように震え、止まらなくなった。大笑いする自分をどうすることもできず、理香は肺の中の空気をすべて笑い声として吐き出した。
「あははははははははははははははは!!」
「なに――ちょっと。だいじょぶ?」
ピースサインは崩さず、仙花が怪訝な表情をする。引きつるような痛みを訴えはじめた脇腹を押さえながら、理香はもう一方の手で彼女を制した。
「大丈夫……ぶぁはっ、大丈夫。あなたの言う通り、私ってあほなのかも。一瞬とはいえ学生の妄想を真に受けるなんて……」
虚言。妄言。思い返してみれば、自分が学生だったときも似たような子がいた気がする。嘘をついて他人の気を引こうとする子が。よりによってこんな嘘つきに希望を見出そうとしていたなんて――
酸欠気味の喉をか細く鳴らしながら、理香は視線を鋭くした。
「ゾンビ災害の原因? で、今度は神? つくならもっと可愛い嘘にしたらどう? そんな悪趣味な嘘じゃお友達も増えないだろうし、かえって愛想を尽かすんじゃない?」
口早にまくしたてる。
理香の予想では、厳しく叱責された仙花は目に涙を浮かべ、聞き取れないような小声で謝ったあと医務室から駆け出ていく――はずだった。
だが。
「――ふゥん」
予想は大きくはずれ、仙花の目に涙はなかった。乾いた瞳に浮かんでいるのは、挑発的な光。
くすり――と。
今までの子供じみた印象とは異なる微笑を浮かべ、仙花が丸椅子から立ち上がった。
「信じないんだ。そりゃそっか。オネーさん科学者だもんね。非化学はおキライってわけ?」
体重を感じさせない足取りで仙花が歩み寄ってくる。咄嗟に距離を取ろうとしたが、重心を後ろに移すよりも早く彼女の手が腰に伸びてきた。
「――ちょッ――」
そのままワルツでも踊るようにぐるっと回されたかと思えば、唐突に彼女の手が離れた。遠心力に引っ張られ、抗いようのない浮遊感が体を包む。
転ばされる! そう危惧した理香が目をつぶった直後、お尻が何かにぶつかった。床にしては柔らかく、高さも腰よりわずかに低い程度でしかない。
目を開けて見下ろしてみれば――なんのことはなかった。ついさっきまで仙花が腰掛けていた丸椅子に自分が座らされただけだった。
ホッと息をつくと同時、ずいっ――と、仙花が目の前に指を突きつけてくる。
「な……何……?」
ベビーピンクのネイルが今にも鼻先に触れそうで、理香は丸椅子の上で体を仰け反らせた。
「ちょっと、待っ――」
だが、後ろに反れた分だけ仙花も詰めてきたため一向に離れず――あわや丸椅子ごと引っ繰り返りそうになって手近な机にしがみついたところ、ようやく彼女も動きを止めた。
意図がわからず、理香は呻いた。
「っあぁ――だからっ……なんなの! さっきから!」
丸椅子の上でのしかかられるような格好に戸惑っていると、目の前にあった指が方向を変えた。こちらの喉元を指している。その指先と仙花との間で視線を往復させていると、彼女はようやく口を開いた。
「非化学アンチであほなオネーさんに教えてあげる。この学園の地下にね、大昔に掘られた古ゥゥ~い井戸があるの」
そう言われて気づく。仙花の指はこちらの喉元を指しているんじゃない。
床を――さらに言えばもっと深く、彼女が言うところの『地下』を指しているのだ。
こちらの理解を察したのか、仙花はそのまま言葉を続けてきた。
「そこで奉られてきたのがあたし。水源の乏しい地域だったから、そりゃもう重宝されたもんよ。綺麗に掃除してもらって、花なんかも飾ってくれて、収穫祭のときなんて宴よ、宴」
「まるで……経験したことみたいに言うのね」
「経験しましたとも。当事者なんだから。でもね……」
過去の栄光とやらで輝いていた仙花の目が、どんよりと曇る。
「都市開発だかで水道設備が行き渡っちゃって。そしたら今まであたしをありがたがってた連中が『衛生面が気になる』なんて言いだしてさ。見向きもされなくなっちゃった。ヒドイが過ぎると思わない?」
「本当に大昔に掘られた井戸なら……水源管理もずさんだろうし、細菌や寄生虫なんかの病原菌や、化学物質が混入している可能性が――」
正論を並べるつもりでいたが、理香は途中で言葉を呑み込んだ。仙花がこちらを睨んでいた。冷たく、刺すような視線で。
こちらが黙るのを待っていたのか、仙花は突きつけていた指を離し、その場でくるりと背中を向けてきた。後ろ手に指を組み、続ける。
「――そンでまァ、ついには枯れ井戸になっちゃったんだけど――」
はあ……と。
残念そうに、仙花は嘆息した。後ろから見ていてもはっきりわかるほど、彼女の肩が落ちる。
「誰にも崇められないんじゃ起きててもしょうがないし、眠ることにしたわけ。数年だか、数十年だか……で、久しぶりに目覚めてみたら頭の上にでっかい学園が建ってンの。あたしの許可もなしに。これって出るトコ出たら勝てると思う? あっ、別に質問じゃないから。答えなくていいから。どうせインテリしか使わないような画数たっぷり熟語で答えてくるんでしょ?」
彼女の予想通り、理香の頭には『法的情報』や『公物管理権』といった言葉が思い浮かんでいたが、言ったところで聞く耳を持つとは思えないので、やめた。
「でもね、変わったのは頭上の建物だけじゃなかった。枯れ井戸がキレイになってンの。眠る前は苔だらけで、蔦もびっしり絡まってたのに。なんだか学生たちの間で噂になってたみたい。『地下にある枯れ井戸を丁寧に掃除すると願いが叶うらしい』――ってね。学園の七不思議ってやつ?」
仙花がこちらへと振り返った。先ほどまでの冷淡な表情はどこかに消え、にこやかにパン――と手を打ち合わせる。
「誰かに信仰されるなんてホォ――ント久しぶりでェ! これを見逃したら次はないと思って、あたしはノることにしたの。水の恵みを司る神様から、信心深き者の願いを叶える神様にィ……変身!」
芝居がかった仕草で腕を振り、彼女は何かしらのポーズを取ってみせた。そのままビタリと固まり、動かなくなる。こちらの拍手を期待していたのかもしれない。だが、無感情の眼差しで見つめていると、仙花は咳払いを――これも芝居がかっていた――ひとつこぼし、話を戻した。
「アレが欲しい、コレが食べたい、アノ人と両思いになりたい――色々お願いされたけど、人の願いには純度がある。砂で埋もれた井戸から水をくみ上げるのと同じ。心の一番底にある願いをすくい上げようとしても、それに被さった砂、雑念みたいな無意識下の欲望が邪魔して、叶えたい願いの純度がどんどん薄れていくわけ。おかげで壮大な願い事もいざ叶えてみたらちっぽけな結果に終わったりしたんだけど――」
あの日はいつもと違ったんだよね――と、彼女は小声で付け加えた。
「女の子が井戸の前に来て、あたしに願ったの。なんとびっくり、他の欲望がまったくない、純度100%の状態で。ふつーは変えたい過去とか明るい未来なんかを心のどっかで考えてるもんなのに。今だけ! 今を変えられるなら他は何もいらない!――そんな覚悟で会いにきてくれたわけよ」
「……その子は、何をお願いしたの?」
「世界の破滅」
素っ気なく、仙花は即答してきた。
「あたしの存在意義って願い事を叶えることじゃん? 善悪のフィルターなんてザルもいいトコだし。当然、叶えてあげるよね。だけど――叶えたあとも違和感が消えなかったの。止まない雨を降らして、明けない夜をもたらしちゃったような……」
そう言って、仙花は自分の目を指し示した。
「だからあたしは目を持つことにした。あたしが世界のルールをどうねじ曲げたのか確かめるために。世界の破滅を願った子は黒魔術にでもハマってたのかな。代償を払ったほうが願いが叶うと信じてたみたい。ドバ――ッとね……井戸に捧げちゃったのよ。自分の血を」
仙花が目元に置いていた手を首筋へと下げ、襟を撫でる。その仕草の意味を理香は考えようとしたが、彼女の嘆息によって物思いは中断された。
「ズルくない? 井戸をキレイにしてくれたから願いを聞いてあげたのに、そのあと血で穢すなんて。せめてもの仕返しとして――体をいただくことにしたの。どうせ血の流しすぎで死んじゃってたしね」
「……それって――」
願いを託して息絶えた少女の肉体に神の意識が移り、現世に顕現した――仙花はそう言いたいのだろうか。彼女のせいで終焉を迎えつつある世界を、その目で確認するために。
「なんなら傷痕も見てみる? これまた気合い入ってンのよ。手首じゃなくて頸動脈イってるから。どう? 見る?」
制服の襟に指を引っかけ、下げるか下げまいか焦らす仙花を見て、理香は先ほどの仕草の意味を理解した。そこに深い裂傷があると言いたいわけだ。赤黒い肉を露呈する、見るもおぞましい傷が。
「……いい。どうせ傷があってもフェイクタトゥーかシールなんでしょ」
「ありゃま。まだ信じないんだ」
こんなに頑張って話してあげたのにィ! とむくれる仙花に、元・神などという面影はない。
やはり彼女は嘘つきだ。
ゾンビ災害の原因を自称するのも、それで思い悩む自分の気を引きたいだけに違いない。
(こんな与太話に付き合ってる場合じゃない)
早く薬を探して体育館に戻らなければ。もしかするともう次の患者が待っているかもしれないのに。
そう結論づけ、理香は丸椅子から立ち上がろうとした。が、
「おン? 何コレ?」
今から薬を探そうとしていた棚を開け、仙花が透明なビニールフィルムで包まれた三角形の白い固まりを取り出している。
あれは――
「だば……」
思わず汚い濁音が口から飛び出した。
仙花が手にしているのは、この医務室で唯一盗られたら困るもの――フルーツサンドだった。やめてと叫ぶよりも早く、彼女はビニールフィルムを剥ぎ取り、
「ぅわっはァ! 甘酸っぱァ~い!!」
「――あっ」
フルーツサンドを頬張っていた。歯形が残る断面からはイチゴとミカンが覗き、賞味期限が切れてパサついたクリームに彩りを与えている。
「こんなの初めて食べた! えっ、待って。凄くない? 凄くないわけないんだけど――待って待って。えっ、凄くない?? この赤いのはイチゴでしょ? こっちの黄色いのはミカンだよね? 合うの? 食パンに? 甘いのと酸っぱいのが? ズルくない? ズル凄くない??」
ただでさえ乏しかった言語力をさらに衰えさせながら、仙花が二口目に入ろうと大口を開けたところで、理香は慌てて声を上げた。
「ちょっ――ねえ! それ私の!!」
仙花の肩に取りすがり、前後に揺さぶる。彼女が正気に戻って食事を中断することを期待したのだが――こちらの望みを裏切り、彼女は残っていたフルーツサンドを無理矢理頬張ると、両手で口を押さえつけた。
「あああぁぁ――――ッ!!」
肩を揺する強さを激しくして抗議するも、仙花は食いしん坊なハムスターよろしく両頬をパンパンにさせながら、
「モゴゴゴ! ゴモ! モゴゴゴゴゴ!!」
返事をしてきた。言葉ではない、ただの音で。
ゴクリ――と、喉を無情に鳴らせると、ようやく仙花はこちらへと向き直った。
「うっさいわねェ――! 人が未知との遭遇を楽しんでンのに! さっきまで死のうとしてた人間がおやつに執着しないでよ!」
「なっ、あ――いや――それとこれとは別――」
痛いところを突かれてしどろもどろになったとき、
――ジリリリリリリリリリリリリリリ――
突然、非常ベルが鳴り響いた。ハッと、ふたりの動きが止まる。
空気に焦げた臭いはなく、火事ではない。足下もしっかりしており、地震ではない。あと考えられる要因は――
答えを出す前に誰かの悲鳴が聞こえてくる。それこそが答えのようなものだったが。
とうとう学園内に入ってきたのだ。ゾンビが。
「それ、役に立つの?」
廊下。先行して前を走る仙花が、理香の持ち物を見て首を傾げる。
消火器だ。
意味がわからない――そう言いたげに仙花が形のいい眉をしかめた。
「火事じゃあるまいし。それともあたしが知らないだけで、実はゾンビって火とか吹いたりすンの?」
「さぁ……ぁあ……」
「なら毒とか。ゲロみたいに吐いてきそうじゃない? 紫色のやつ」
「そぉ……かもぉ……」
「ハイ、ここでなぞなぞ。全身グロゲチョのゾンビAがいました。だけども一箇所だけ腐ってない箇所があります。ど~こだ?」
「……はぁぁ……」
「正解は爪! ネイルで蝋を塗ることがあンだけど、蝋って防腐処理の効果もあンだって。体中ドグサレなのにネイルだけピカピーなんて素敵だよね」
「…………ふぁぁぁぁぁぁ……」
走り慣れていないうえに重たい荷物を抱えているせいで、理香は息も絶え絶えになっていた。そのことをしっかり把握しているくせにああだこうだと仙花が話しかけてくるせいで、ロクに喋ることもできない。
内心、理香は『転べばいいのに』と思っていた。
思っただけで祈りが足りなかったのか、仙花は転ぶことなく悲鳴の出所に到着し、少し遅れて理香も辿り着いた。中庭に面した昇降口だ。
中庭にはユズリハやヒイラギ、マホニアといった常緑樹が植えられており、かつては生徒たちの目を休める場所として重宝していたのだろう。
だが、鋭い鋸歯が行き交うゾンビたちの皮膚をこそぎ、体液や肉片が緑の葉を赤黒く汚したせいで、毒虫のようなコントラストができあがっている。
そんな中庭からゾンビの侵入を阻むため昇降口は封鎖されていたのだが、理香と仙花が駆けつけた頃にはバリケードは倒壊寸前だった。
机や椅子、教室の備品、さらには辞典や図書棚など、学園内にある物を駆使してそびえた努力の結晶は、今や下手くそな積み木のようにガタガタで、あらゆる隙間から糜爛した腕が突き出して虚空を引っ掻いていた。
避難民の多くは体育館に集まっているものの、外の様子をうかがうために昇降口に足を運んでいた者や、理香たちと同じく悲鳴を聞いて集まった者が何人かいて、地獄のような光景を遠巻きにしている。
こちらの耳元に顔を寄せ、仙花が囁く。
「なんで逃げないんだろ? この人たち」
「……見て」
ゾンビが群がるバリケードに指先を向ける。
「ぎりぎりだけど、まだ持ちこたえてる。どうにか補強できないか考えてるのかも」
「そう? 野次馬根性が抜けてないだけだと思うけど」
他人事のように素っ気ない彼女の態度に苛立ちを覚え、理香は声を荒らげた。
「嘘つきなら自分が吐いた嘘に責任を持ったら? あなたの言い分だと、こうなったのはあなたのせいじゃなかった?」
言葉にトゲを含めたつもりだったが、仙花にはまったく応えていないようで、鼻で笑って答えてきた。
「らしく振る舞えって? しんみりすればいい? してもいいけど。それであいつらが大人しくなるならね」
仙花が顎で前を示す。同時に誰かの悲鳴。見れば、バリケードの一角――鉄管を束ねた針金がゾンビたちの圧で張り詰めて、バチッ……バチッ……と音を立てて千切れだしていた。決壊を示唆するその音は途切れることなく、加速度的に耳につくようになり――
「――離れて! 早く!!」
鉄管の近くにいた者たちに警告するが、彼らが動き出すよりも早く、針金の束が力尽きた。最後の一本が千切れ、堰を切ったように鉄管が倒れる。それらは床タイルの上で互いに重なり合い、甲高い不協和音を響かせた。
(最悪ッ!)
理香が胸中で毒づいたのはバリケードの倒壊だけが原因ではなかった。倒れた鉄管を避けきれず、避難民のひとりが巻き込まれていた。若い男性だ。足が鉄管の下敷きになり、引き抜こうともがいている。
そして。
鉄管が倒れた音に反応したゾンビが一体、また一体と、図書棚や机の隙間に突っ込んでいた手を戻しはじめた。バリケードの穴を目指し、うなり声を立てて集まってくる。
理香の位置からでは集合するゾンビたちの姿がバリケードの死角にあり、正確な数を把握することはできなかった。けれど、鉄管の倒壊を免れた者たちが青ざめて後ずさる姿を見るに、一体や二体ではなさそうだ。
とうとう死角からゾンビの腕が現れた。あらゆる関節がぎくしゃくと曲がり、皮膚が剥がれ落ちた部分からは剥き出しの筋繊維が覗いている。
ゾンビの姿を認めた途端、辺りに漂う腐臭が強烈になったように理香には感じられた。
足がすくむ。そのまま背中を向けて走り去りたい衝動に駆られたが――鉄管の下敷きになっている男が足を抜こうと必死になる様を見て、理香は我に返った。
持って来た消火器のピンを抜く。ホースの先端をゾンビに向け、
「目を閉じてッ!」
理香がレバーを握り込む。瞬間、ホースから消化剤が噴出した。小さな霧状の粒子が舞い上がり、すぐに大きな噴流となって視界を白く染め上げた。
シューという高圧の噴出音は次第に弱まり、白い霧が風に流されると――
「えっ」
ぽつりと聞こえたのは仙花のつぶやきだった。トリモチのような粘着液が蜘蛛の巣状に広がり、ゾンビたちに絡みついている。
先頭にいたゾンビが男の体にかじりつこうとするが、身動きが取れず、ガチガチと歯がかち合う音を虚しく響かせていた。
囚われたゾンビと消火器の間で、仙花が視線を忙しなくさせる。
「何コレ。消火器じゃなかったの?」
「消化剤に特殊なポリマーを混ぜたの。空気に触れると粘性が増すようになってる」
簡潔に答えると、理香は消火器のホースをゾンビに向けたまま、後ろでおろおろしている避難民たちを肩越しに見やった。
「早く。今のうちに彼を」
下敷きになっている男を目で示す。ハッとした様子で避難民たちは男に駆け寄り、鉄管から引きずり出した。骨が折れているらしく苦痛の声を漏らしているが、この場で診ている余裕はなかった。
「彼を体育館へ。そのあとは……人を連れてきてください。今ならまだこのバリケードも修復できます」
恐怖心が伝わらないよう事務的な口調を意識して、避難民たちに告げる。彼らはしきりに感謝を述べると、男に肩を貸して体育館のほうへと向かっていった。
ヒュ――ッと、仙花の吹いた口笛が聞こえてくる。
「大活躍じゃん。学園のピンチを救ったヒーローって感じ?」
「それを言うならヒロイン――」
言いかけて。
「――――!」
仙花の軽口に応えようと苦笑いしていた口元がひくりと引きつる。
先頭のゾンビ――たった今拘束したばかりのゾンビを見て、心臓が跳ねた。
「……? どったの?」
後ろからきょとんとした仙花の声。
彼女は続けて何か言ったようであったが、理香には聞こえなかった。鼓動は胸を押し上げる勢いで激しくなり、耳元の動脈がドクンドクンと血流を主張する。それが一切の音を遮断していた。
「金城……教授……」
自分でも意識せず、口からこぼれたのはかつての上司の名前だった。
白衣は血と泥で汚れて見る影もない。目はあらぬ方向を向いたまま白濁し、鼻は折れ、唇の端は耳まで裂傷が続いて頬の筋肉と奥歯が丸見えになっている。それでも、見間違えるはずがなかった。
いつの間にか隣に移動していた仙花が、ン~? と声をあげる。
「こいつが? オネーさんの手柄を横取りしたっていう? ゾンビになってたンだ」
仙花は遠くの景色でも眺めるように、水平にした手のひらをおでこにくっつけてみせた。
「イケメンっちゅう話だったけど……ホントにィ? 水もしたたるナンとやらって言うけどさ、違うのしたたってるよね。顔中からドロッとしたのが。何アレ。成分求む……アッ、やっぱいい。知りたくない」
ひとりではしゃぎ、耳を塞ぐ仙花であったが――
ぎょっと、その目が見開かれる。
「――バカ――!」
がっしと。
仙花によって、理香は羽交い締めにされた。
彼女に止められなければ、消火器で金城を殴り飛ばすつもりでいた。
「放して!」
振り上げた消火器が空中で震え、行き場を無くした怒りが怒声に変わる。
「こいつのせいでッ――いったい何人犠牲になったの!? 子供も、大人も!当たり前だった生活を台無しにされて! 怖くて夜も眠れなくて! 責任も取らないで勝手に死んでんじゃないわよ!!」
「わァ――った! わ――ったから! オネーさんの言いたいことはよォ~くわかるよ。でも近づいちゃダメっしょ。どうすんの噛まれたら? したたっちゃうよォ、ドロッとした謎成分」
「ハァ――――ッ…………ハァ――ッ……」
「ハイ、どぉどぉどぉどぉ……」
暴れる馬を落ち着かせるような諌められ方であったが、荒くなった呼吸も静まっていき――理香は、頭上に掲げていた消火器をその場に落とした。
カンッ――カン――と、金属の弾む音が辺りに響く。
「それにさ――」
嘆息混じりに、仙花がつぶやく。
「何回も言ってンじゃんか。ゾンビ化の原因はあたしであって、インテリの皆さんは関係ありません、って」
その言葉で。
収まりかけていた激情が、再びわき上がるのを理香は感じた。
「――だったら!」
癇癪を爆発させるように、仙花の手を振り払って彼女へと向き直る。
「今すぐこいつらをどうにかしてよ! できるもんなら!」
「……あ~……」
困った様子で、仙花が後頭部をかく。
「そうしたいのは山々なンだけど……ちょっち無理かなァ」
「……でしょうね。あなたの嘘にはもううんざり」
「ン。まァ無理なのはホントだし、その批判は甘んじて受けちゃうよ。でもさ――」
仙花が金城を――ゾンビたちを指で示す。
「あたしが嘘つきなら、ゾンビ化の原因はオネーさんと、そこの元・イケメンってことになっちゃうでしょ?」
「だから何度もそう――」
「なんで途中で腐ンなくなるの?」
彼女の言っている意味がわからず、理香は返事を返すのに数秒の沈黙を要した。
「何言ってるの……よく見なさいよ! あんなグズグズに崩れて……」
「途中までね。筋肉とか骨とか、腐ると動けなくなっちゃうトコはちゃんと残ってンの。アレなんで?」
「なんで――って――」
再び理香は沈黙を返した。今度は彼女の言いたいことは理解できていた。理解したうえで――返す言葉が何も思い浮かばなかった。
「元々は脳ミソをどーこーする薬だったんでしょ? 凶暴化するのはなんとなくわかるけど……噛まれると感染が広がる理由は?」
「……詳しくはわからない。きっと金城教授が手を加えたせいで――」
「どんな?」
三度目の沈黙。
金城の天才的な頭脳を駆使して薬をいじれば、どんな不可思議な現象が起きてもおかしくない。魔法を信じる子供のような妄信でそう思い込んでいた。
けれど、仙花に問われ、自分の理論武装がいかに薄っぺらいものであったか、理香は改めて思い知らされた。
「それとさっきの話。そいつらをどうにもできないってヤツ。そっちはね、願い事を叶えられる範囲の問題」
理香が黙ったままでいると、仙花はゾンビに向けていた指を頭上に改め、円を描いてみせた。
「井戸にいた頃はぼんやりした意識が空中にあって、世界に触れてる感覚があったの。だから世界のルールに口出しできたンだけど……今はほら、ご覧の通り。可愛くなっちゃってンじゃん?」
「…………」
「ゴメン、無言で睨むのやめて? ンでまァ、今のあたしにできることってすっごい制限されてるみたい。こうやって――」
手を下ろしてこちらの頬に触れてくる。反射的に払い除けそうになったが、仙花の目は真剣だった。
「触れてる相手の願い事しか叶えられそうにないの」
「それじゃあ……」
彼女に同調するのは気が引けたが、ひとつだけ、どうしても確かめておきたいことがあった。
「私がこいつらが消えるよう願えば……消し去ってくれる?」
「それは無理」
仙花は即答し、すぐさま付け加えてきた。
「さっき言ったでしょ。世界のルールに口出しはできない。世界中のパンをフルーツサンドに変える、とかね。だけど、こうして触れてるオネーさんをどんな材料からでもフルーツサンドが作れる名人に変えることならできると思う」
「――それは……なんとも」フフッと、喉の奥から空笑いがこぼれる。「夢のある力ね」
「何その半笑い。まだ信じないの? なんならオネーさんの願い事、ここで叶えてあげても――」
にっこり笑っていた仙花の顔から、突如、感情らしい感情が消え失せた。硬化させた表情でこちらの――いや、こちらの背後を凝視している。
その瞬間。
鼻につく腐臭が濃くなった気がした。その臭いに混じり、どこかで覚えがある整髪料の香り。これは……金城が愛用していたものだ。
そう気づくと同時に振り返る。
ヌッ――と。
息の届く距離に腐敗した金城の顔があった。
全身の肌が剥がれ、人体模型のような姿。粘着液には白衣とぐずぐずになった皮膚が残っている。脱皮のような痕跡から、理香は彼がどうやって拘束を脱したのか理解した。動けなくなったあとも食欲に突き動かされ、服と皮膚を脱ぎ捨てながら迫ってきたのだ。
(――噛まれる!?――)
逃げる間もなく、理香は目を閉じた。閉じて――覚悟した。すぐに訪れるはずの激痛を。
だが。
心臓が二度、三度と脈打つ時間が経っても、そんなものは訪れなかった。
(――…………?)
そっ――と目を開ける。
「――なんで――」
金城の顔があったはずの場所に、仙花の顔があった。苦痛を堪えるように歯を食いしばり、強張った笑みを滲ませている。
そして、金城は仙花の後ろにいた。彼女のうなじに噛みつきながら。
「づァァあ!」
仙花が声を張り上げ、背中に縋っていた金城を振り払う。ふらふらと後退る彼の背中が粘着液に触れ、再び動けぬ身となりうめき声を発しはじめた。
同時に、仙花の首筋から赤い霧が噴出する。
膝からくずおれる仙花を、理香はすんでのところで抱きかかえた。
「なんで!!」
先ほど不意に出た言葉を繰り返す。
唇の端に血泡を浮かべ、それでも仙花はにんまりと笑ってみせた。
「オネーさんはさ、死んじゃダメ。困る人が大勢いるんだから」
仙花もまた繰り返した。今朝はじめて会ったとき、別れ際に手向けてきた言葉を。
床に落としていた手を、仙花が胸の前に掲げる。握ろうとしたが、彼女は違うことを望んでいるようだった。親指と人差し指が伸び、拳銃を形作る。
「あの銃、持ってる?」
「ある……けど……」
「撃って」
そう言って仙花は指先を向けた。
仙花自身のこめかみに向けて。
金属に触れた手が震える。
恐怖と嫌悪感に抗いながら曲げた人差し指は他人のモノのようにぎこちなく、今にも心がくじけそうになっていた。もしそうなれば、この指をもう一度曲げる自信はなかった。
『その銃は自分の頭じゃなくて――
もっと違うモノを撃ったほうがいいよ』
理香が思い出したのは彼女の言葉だった。
違うモノ――今、銃口は仰向けに横たわる仙花に向けられていた。狙いがずれないよう、彼女も両手で理香の手首を支えている。
震えは手だけではなく、理香の喉にも波及していた。抑えられなかった。声を震わせたまま言う。
「ね――ねえ。こんなの――あなたらしくない」
「らしくって? どう振る舞えばいい?」
「もっと楽観的で――人を小馬鹿にして――」
「してもいいよ。高学歴をおちょくるのサイコーだから」
仙花が笑う。負傷を感じさせない力強い笑みだった。
それに応えるように、理香も微笑を浮かべる。
「ほら、その調子。噛まれた傷だって今ならまだ治せるかも」
「……そっちはね、もう大丈夫」
大丈夫。その響きに不吉なものを覚えるが、すぐに違うと気づく。仙花の言う通り傷は問題なかった。噴き出た血の量からは考えられないことだが、うなじの出血は既に止まっていた。抱きかかえた腕が止血に一役買ったのだろうか。それとも――
「問題なのは――」物思いを破り、仙花がつぶやく。「感染のほう」
出血が止まった代わりに、傷周りの血管が深い紫色に変色していた。
ゾンビ化の兆候だった。
「オネーさん。なぞなぞしよっか。ゾンビに魂があるかどうか、見分ける方法なァんだ?」
その問題は出会ったとき、軽口の延長で投げられた問いだった。
理香はかぶりを振った。
「わからない……わからないよ、そんなの!」
「正解。わかんないの、誰にも」
仙花の目が銃口に注がれる。
「あたしが死ねば、たぶん魂みたいなモノは地下の井戸に戻ると思う。もう一度ふンわり漂う神様として。だけど……もしこのままゾンビになったら?あたしの魂は腐った肉体に閉じ込められて、二度と戻れないかも」
だから、と。彼女は言葉を続けた。
「オネーさんの手であたしを神様に戻して。そしたら世界のルールを変えられる。死体が歩く歪んだ世界を元に戻せるの。ホントはこれを頼みたくて医務室に行ったンだ。信じてくれなかったから言い出せなかったけど……」
仙花が視線を転じ、こちらの目を真っ直ぐ見つめてくる。その眼差しには決然とした意思の光があった。
(――この子……)
本当に神なのか。
それとも徹底した嘘つきなのか。
彼女の言うことがすべて真実で、本当に神なのだとすれば。言われた通り彼女の頭に弾丸を撃ち込み、地下に下りて『さっきはごめんね』と謝りながら井戸を掃除してやればいい。
だけど、もし嘘つきなら。
命を救ってくれた女子生徒を、自分の手で殺めることになる。神の存在は証明できず、背負う罪がまたひとつ追加される。今朝の時点でその重みにはもう耐え切れなくなっていたのだ。遠からず、彼女の後を追うことになるだろう。
神。嘘つき。拳銃。金城教授。薬。避難民。ゾンビ。患者。殺人。
様々な言葉が浮かび上がり、渦を巻く。研究所が機能停止した日から今日までの光景が脳裏を過ぎり、ストロボのように明滅する。
誰も答えを与えてくれない疑問に葛藤を続け、理香の口から漏れたのは、
「……フルーツサンド」
そんな言葉だった。
「…………?」
仙花の表情に戸惑いが混じる。理香は真顔のまま彼女に言った。
「ちょっと前に流行ったの。フルーツサンド。街中もテレビもSNSも、みんなこぞって夢中になってた。私はそこまで熱心じゃなかったけど……今の学生なら知らずに生活するなんて無理」
疑問に決着をつけ、理香は心静かに告げた。
「だからあんな風にフルーツサンドを食べる人……きっと世間知らずの神様しかいないんでしょうね」
理香は彼女を信じることにした。
その答えに満足した様子で、仙花が深く息を吐く。
「良かった、そう言ってくれて。それじゃあ――」
こちらの手首を支える仙花の手が、弱々しく銃口を導き、こめかみへとあてがう。血管の変色は先ほどよりも酷くなっており、半袖から覗く肘まで広がっていた。
彼女は目を閉じ、つぶやいた。
「撃って」
「…………」
親指で撃鉄を起こす。カチリ――と、小さな金属音がした。
手の震えはいつの間にか収まっていた。あとは引き金に添えたままだった人差し指に力を込めれば、仙花の望みを叶えられる。
けれど、その前に――理香は彼女に尋ねた。
「ねえ。さっきあなた、私の願いを叶えてくれる……って言ったでしょ」
「…………?」
仙花が右目を半眼に開く。この期に及んで何を……そんな思いがありありと伝わってくるが、理香は構わず続けた。
「願い事を叶えるのは純度が大事で、他に何も望まない、真っ直ぐな願望をすくい取る……条件はこれで合ってた?」
「そう……だけども……」
なおも不可解そうにする仙花の手をやんわりとどかし、理香は拳銃を別の方向に向けた。うめき声をあげ、粘着剤に囚われたままの金城の頭へと。
引き金を引く。
撃鉄が落ち、銃口から放たれた弾丸が金城の頭を砕く。絶え間なく続いていた耳障りな声が止まり、頭蓋の中身が辺りにぶちまけられた。
仙花から驚きの声があがる。
「えっ、なン――なんで? なんでそっち?」
「……一度見てみたかったの。天才的な彼の脳がどうなっているのか」
なんてことはない、腐敗が進行して灰色に変色した、つまらないペーストだった。
さしたる感動もなく、理香は床タイルに散らばったそれから視線を外し、仙花へと向き直った。彼女の手を取る。
「これで私のささやかな願いはおしまい」
叶えたい願いの純度をあげる。そのために理香は気がかりを排した。
「残っている願いはひとつだけ。さあ、叶えて」
神に祈る。そんな心地で。
理香は、仙花に願い事をした。
ゾンビの侵入を許しそうになった日から数日が経ち。
理香と、そして仙花の姿は学園の屋上にあった。
快晴の空の下、んんん……と伸びをした仙花の背骨の辺りから、ぱきぱきと小気味よい音がした。
天気と同じく朗らかに、仙花が口を開く。
「ンヤー、本日はお日柄もよろしく、絶好の打ち上げ日和ですなァ」
「そう……? 別に天気なんてどうでも……風もないし」
「雨よりかマシでしょ。ンで、どっちに撃つ? あっち? こっち?」
「偏っても困るから。こっち」
理香が真上に――太陽に向けて右腕を掲げる。
その手には銃が握られていた。といっても、散々翻弄してくれた拳銃ではなく、運動会や競技で用いられるスターターピストルだ。機構に手を加え、薬剤を射出するよう改造してある。
薬剤――その薬こそ、理香が仙花に願ったものだった。
世界の理を変えることはできず、個人の能力にしか干渉できない。
それならば、と――理香はこう願った。
『自分をゾンビ化の治療薬が作れる人間にしてほしい』
ゾンビ化は科学ではなく信仰からはじまり、そして今、科学によって治療されようとしていた。
理香は左手で耳を塞ぎ、引き金に指をかけた。
が、引き金を絞る寸前、ふと思い立って仙花に尋ねる。
「そういえば、神様にはないの? 自分が叶えたい願い事」
そんな質問は予想外だったようで、仙花はきょとんとしていた。
「ン~? ウ……ン……ウ……ンンンン~?」
ウンウンとうなり、腕を組んで熟考し、ああでもないこうでもないと決して短くない時間を待たされた末に出てきたのは、
「あっ。フルーツサンド。別の味も食べてみたいかも」
そんな願いだった。
「いいね。一緒に行こうよ」
今度は自分が彼女の願いを叶える番だ。
そう笑い返し、理香は空に向けてピストルを発射した。
END