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議論することについて

誰かと何かについての意見が対立したときに、お互いの意見を否定せずに両者の妥協点を見つけることが良い議論とされる傾向があるように思う。
僕は全くそうは思わない。
議論(討論)の本質とは、根本から異なる主張をしている人間が目前にいるならば相手の主張の矛盾や無理を見つけ徹底的に言い負かすことである。
あるいは相手の意見に対して一段抽象度の高い圧倒的な主張ではねつけ、さらなる反駁の余地がないことを理解させて完全に黙らせてしまうというのも良い。
議論に勝つことが目的という意味ではなく、少なくともお互いに自分の主張が正しいと相手に分からせることを目指していないのならば議論をする意味がない。

「言い負かす」といったが、あるいは毎回そこまで勝敗や結論が明白でなくともよいとは思う。
しかし議論において自身の意見・立場をはっきりと表明せず、強い主張を繰り広げる者に対して常に「うんうん」「そうだね、でも…」といった導入で返答をする人間には全く魅力を感じない。
そういう人間は近頃「バランサー」などと呼ばれ重宝されがちだが、僕からすれば愚鈍である。
おそらく彼らは主張を表明しないというよりも「どっちでもいい」「どうでもいい」が本音であり、とにかくその場をなるべく早く終わらせたいとか丸く収めたいということなんだと思う。
もしくは、自分の意見を述べるよりも複数人の異なる意見を要約したり、司会者的な役割を演じることに喜びを感じる人たちなのかもしれない。(だとしたら余計に理解できないが)

とにかく、そもそも意見が対立している状況で「最終的にみんなで笑顔になろう」という発想をするのはもはやクレイジーだとさえ思う。
真剣に議論する必要のないことで熱くなるのはそれもまた馬鹿馬鹿しいが、何か重要な事柄やどちらかに決定しなければならない事項については各人の主張に基づいて徹底的に議論がなされるべきだし、
結果として全員が納得できるのではなく誰かがハッピーで誰かが気に食わない状態になることは、ごくごく自然で当たり前のことだと思う。
もちろん議論にも質はあって、相手の発言の内容を拾わず(つまり全く聞かず)に自分の話したい方向に持って行ったり、議題をすり替えて自分の得意なゾーンに持っていこうという(某ひろゆき氏のような)やり方は見ていて全く気持ちがよくないし、ナンセンスだから論外だ。

少し別の見方をするが、「議論の勝者」が必ずしも幸福であるとは限らない。
彼は論理ゲームにおいて常に勝利することができるが、結果として望んだ状況に恵まれない可能性がある。
正しさが時に鬱陶しさや窮屈さを感じさせるのは至極当たり前のことで、その場合、簡単にいうと人にモテない。
例えばその日の議題が「5人グループでこの後ランチに何を食うか?」だったとする。
そのうち3人は「なんでもいいよ」と言い、1人が近所の人気ラーメン店、もう1人が老舗カレー屋をそれぞれ強く希望したとする。
すると当然どちらの店に行くかの議論になる。現在地から店までの距離、値段、待ち時間などの要素を持ち出して論を立てたラーメン派の主張が終始優勢かと思われたが、10分後彼らはカレー屋の列に並んでいた。なんてことはよくある。
データに基づきラーメン店を推した彼の主張は確かに理路整然としていたしメリットを感じさせたが、なんとなく気分でカレー屋に行きたいと言ったもう一人の彼はリーダー気質で皆から信頼のある人物だったため、後者の主張が通ったのだ。
つまり、多数決で意思決定がなされる民主主義においては、論理の正しさよりも「人気のある人の意見」が正解となるのだ。
この場合、議論には意味がない。最初から勝敗が決まっているからだ。
そういった状況は現実で良く起こりうることだ。高校までの学校生活なんていうのはそれがほぼすべてだろう。

話を戻そう。仮に、カレーVSラーメンがグループ内での立場が平等なA君とB君の対決だったとして、お互い平行線のまま5分が経過した状況を想像してみよう。
煮えを切らした3人のうち1人の「どっちでもいい派」のC君が仲裁に入る。バランサーの爆誕である。
C君の提案はこうだ。
「じゃあさ、間を取ってカレーもラーメンもある学食に行こうよ。そうすればみんなハッピーだよね!」
A君とB君は一転、二人で声を揃えて言う。
「いやそうじゃねえだろ!!!」

…これが僕の思う、バランサーのしょうもなさである。
真っ向から対立する2つの考えに対して無理やり妥協点を提示する行為というのは、圧倒的にしょうもない結論を生む場合が多い。
カレーが食いたい、ラーメンが食いたいというのは「なんかそういう美味いやつが食いたい」に決まっているにもかかわらず、両者が学食のそれで満足できるはずがないではないか!アホか!である。
だったらまだ百歩譲ってラーメンをあきらめてでも美味いカレーを食った方が(またその逆も)お互い納得できるのだ。
(最も大事なことは食の趣味が合わないやつとはつるむな、ということだ。)
そういう意味で、「間を取ること」には意味がないことが多い。これは食という例ではなくとも、多くのことに当てはまると思う。

もっと言えば、世の中の全ての「良いもの」の作り手は常に究極に偏っているし、一貫して何かの考えに凝り固まっている。
それが狙って行われている場合もあれば意識せずともそうなっている場合もあるが、とにかく誰も不幸にしないことだけを意識して作られたもので良いものに出会ったためしがない。

さて、ここにきて少し衝撃的な展開になるかもしれない。
僕が生きるうえで大事にしている考えのひとつに、「中道・中観」という思想がある。
これは何かといえば、一言でいえば「中間をとること」だ。(仏教の「空」の概念における本来の意味とは異なっているかもしれないが、ここでは僕の解釈を書く。)
「…は?」と思ったあなたは正しい。ここまで散々バランサーは愚鈍だのしょうもないだのとのたまっておいて何を言っているのか、と思ったと思う。少し待ってほしい。
別の考え方として「即自かつ対自」という言葉もある。
ある事柄について最初に「こうである」と思い込むときが【即自】、次にそれに対して「間違っているかも」という反省をすることが【対自】、
そして最後に根拠をもって「いや、やっぱり最初の考えは間違っていなかった」と確信した状態が【即自かつ対自】という言葉の意味だ。
何かについて自分の中で「これはこうあるべき。間違いなく絶対に正解だ」と【即自かつ対自】の状態で確信していたとしても、それは自分の中での絶対的な価値であり、他人には通用しない。
ちゃんと自分の考えがまとまっている事柄について議論になれば、どんな反論を受けようが絶対的な自信をもって崩れることなく主張ができるのだが、その結果周囲の人間からさっきのラーメン君のように総スカンを食らうことがある。
それは承認欲求を持った一人の人間としてはあまりにも寂しいことなので、それならば自分の主張を貫き通すことを一時やめるか、全部は言わずに黙っておく、という選択をする。
「中道・中観」はある意味「諦め」にも近いのだが、
相手を下に見るわけではなく「そりゃ、おれの考えを理解できるわけないよな」という諦めを自信と同時に心に持っておくことで、友達をなくさずに済んだり、人から信頼されることさえもある。
対立する意見との妥協という意味ではなく、そういう意味での「中間をとること」は忘れないでおきたいと思う。

最後に、「根拠の最小単位」ということについて書いて終わりにしたい。
議論ではよく反対意見に対して「それはなぜか」と根拠をもとめることで相手の論の深さや整合性を測ることがある。
そしてその理由に対してはさらに「なぜ?」と無限に聞き返すことができて、実際これをやられるとかなりイラっとくる。
これは「なんとなく」を許さないビジネスの現場でもよく使われる手法だが、これには明確に限界があると思う。
なぜなら、カレーとラーメンの話もそうだが、そもそもの主張の出発地点≒根拠の最小単位は「好き嫌い」であるからだ。
真偽は定かではないが、AIの判断には感情が一切入り込まないと言われている。
例えば処理にかかる時間やコストなど、何らかの基準で優劣をつけて複数ある選択肢の中から最善と思われるものを選択する。
同じことを人間の思考においても実践することが仕事などで求められたりするし、実際それは論理的思考の基本的なコンセプトだ。
しかし、例えば資料の作り方一つ、ここはなぜこうしたのか、と細かく聞かれたら「なんかそれが良いかな/ダメかなと思ったから」が少なからず入り込むのが人間というものだ。
一言でいえばセンスというか美的感覚だ。生活や趣味のほとんどのこと、すべての楽しいことは「なんか好きだから」「これは嫌いだから」が動機になっているはずで、それが自然である。
だからこそ、人間のすべての判断や主張の根拠の最小単位が無機質な情報であるはずはない。
そう考えると、あまり論理ばかりに偏っていたくはないなとも思う。

ただ、自分の「好き嫌い」からくる偏った主張を論じてくれる人があまりに少ないことが寂しいと、僕は感じている。

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