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【中編】かえってくる(Ⅰ)

「こんばんはー」
何の変哲もない女性の声だった。魅惑的でも、野暮ったくもない、一般的な透明度を備えた女性の声だった。
とん、とん、とん、とん、とん。
一定の間隔でノックは繰り返される。過剰に乱暴なノックではない。だけど音は確実に寝床にいる俺の耳まで届いている。
「こんばんはー」
平坦な女性の声。4回ノックするごとに規則正しく1回挟まる挨拶。
反応はせず、何も聞こえていないという態度でい続ける。
「こんばんはー」
今日はやけに長い。既に10分は経っている。時間は20時半。夏で陽が長い場合でも、この時間になれば外は暗く沈む。
「こんばんはー」
数週間前、夏が本格化してきてるとぼんやり感じていたあの日から、このノックと挨拶の繰り返しは始まった。
「こんばんはー」
俺はスマートフォンの画面をひたすら触り、アプリを意味もなく閉じたり開いたりして、新しい映画を見るわけでもないのにサブスクを開いて、いつも見ているバラエティ番組をタップ
「こんばんはー」
画面に映し出された丸坊主の男性と四角い顔の男性2人組。しかしいつまでも動きださない。
「こんばんはー」
そうなのだ、ただ挨拶にノックだけならまだしも、
「こんばんはー」
室内灯がチカチカ点滅した。何故か勝手に換気扇が作動し、
「こんばんはー」
とん、とん、とん、
「こんばんはー」
スパンが短くなる。
とん、とん、
「こんばんはー」
「こんばんはー」
「こんばんはー」
はぁ、もう勘弁してくれ。
恐怖を通り越して呆れて頭を掻きむしって、体を横向きに捻った。

応じるな、
見るな、
気にするな。
俺はひたすら心の中で、そう唱え続ける。


「顔色悪くない?ちゃんと寝れてるかぁ」
俺の顔をテーブル越しに覗き込んでくる丸顔。スッキリとした清潔な肌は日頃のスキンケアの賜物なのだろう。俺は「なんでもないよ」と返しながら自分の頬をさすった。若干の凹凸が生活習慣の悪さを示している。
「仕事?しんどいって聞くけど、証券」
「まぁしんどいけどさ。得意先多めに持ててきたからまだ楽だよ。新卒で飛び込みばっかりの時と比べたら」
そう言ってもレイカは心配そうな顔をしたままだ。幼さが若干残る顔でこちらを気遣ってくれる様は、誰から見ても愛らしく映るだろう。
レイカと付き合い始めたのは社会人になってからだ。引っ越した先の飲み屋でたまたま出会い、何度か酒を酌み交わすうちに親しくなった。
老若の男たちから散々言い寄られているようで、俺と付き合い始めてからも飲み屋で男の言葉を躱し続けていた。それほどに魅力が絶えない女性なのだ。
だからこんな俺と付き合ってくれた理由が分からない。顔がいいわけでもなく、特別社交スキルが高いわけでもない。ただ平凡に日々を過ごしているサラリーマンの俺と。
毎度食事の席でその話をする。その度、レイカは「自分を低く見過ぎだよ」と嗜めてくる。
いつだってレイカは俺のことを承認してくれる。それによって自信がついているというか、こんな俺でもまともに恋愛できるんだなと安心する。

だがレイカには、夜毎に挨拶とノックが繰り返されるあの現象について打ち明けられていない。ここまで自分を認めてくれるなら打ち明けてもいいものだが、なぜか俺の中に、この話をすることへの後ろめたさがある。

「ね、ね、あれ持ってる?」
「あれ?」
「この前の旅行でさ、新しく買ってあげたやつ」
そう言われて俺は財布を取り出し、中のクリアホルダーに入れてある紙を見せた。達筆すぎて読めない黒字と、それに混じり合うように押された黒い印。旅行先で行った神社で、レイカがくれたものだ。
「ほら、入れてあるよ、縁起いいんだろ?」
レイカは笑顔で「嬉し」と言って、俺の手元にある財布に指で触れた。紙をなぞったように見えた。
「ずっと大事にしてね、謙介の行いをしっかり見てくれてるものだから」
言っている意味が分からず「なんじゃそりゃ」と返して、財布の中身を見ようと自分に向ける。
真っ黒く筆が四方八方に走らされた、白い紙。小さい頃、お守りをこじ開けた時、同じような形のものが入っていた気がする。しかしそれよりもふた回りほど大きい。
「見てくれてるって、ちょっと気味悪いな」
レイカの気分を害するかと思ったが、素直な感想を口にした。
するとレイカはぐっと手元のワインを飲み干して、
「そんくらいがいいんだよ」
俺はレイカに目を向けると、目が合って、
「ずーっと持ってて。謙介のもとにいつでも行ける。私も、みんなも、それさえあれば」
彼女の目は先ほどと違い、妙に蠱惑的だった。それに惹かれつつ、若干の薄気味悪さも感じて、俺は「酔った?」と聞いて誤魔化す。
「酔ったかも」とレイカは笑って返した。
打って変わって、優しい笑顔だった。


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