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そこに意志はあるかどうか、意志のような別のなにかではないか。フロムの自由からの逃走

最近、というか昔からずっと、わたしは自分の意志を大事にしようと決めています。それは『絶対守るぞ!意志!!』みたいなものではなくて、柔軟で芯であるもの。ちゃんと自分で選ぶということ。

生きていくと考え方が変わることもあるし、知識が増えることによって改めることもあれば、世界情勢が変わりそもそものルールが変更になることもある。影響力のある誰かについつい感化されることもある。多くの意見につい流されることもあるかもしれない。そうしていくと「意志」と呼ばれるものはとてつもなく脆くて危うくて頼りない。


でも、そうしたなかでも、1秒1秒、
『今の私はこう思う。』
『今知りうる情報の限りでは、わたしはこう考えていて、その中で今これが疑問』
『この事について気になっているが違うかもしれないと思っている』
『世の中は違うと言うけれどわたしは現時点でこれが最善策だと思う。』

- だから私はこれを選ぶ -
(=そうすることで責任がともなう。)


最近、こんな人に出会った。
自分をよく見せるために奴隷のように権力や決裁権のある人に従う。奴隷のように。もう、宗教の教祖にむかうなにかのような付き従いかたで、誰が見ても異様なほど。その教祖(権力者)が正しいとか間違ってるとかの発信内容は関係なく、盲信。言うこと成すこと全てが正しいというのだ。

その為には人に罵声を浴びせたり騙したり事実を捏造したり、、手当り次第だ。打ち合わせや話し合いも、全然意味が無い一方的なもので、話し合いをして決め事をすることも教祖の言葉しか耳に入らないようで話し合いにならない。

わたしが意見を聞かれたので答えようものなら、『〇〇さんがこう仰ってるのに!!恩を忘れたのか?!なんで違う意見を言うの?!?!反発したいの?!そうやって頑張っている人たちの努力を踏みにじるのね!!』と、意味がわからないのですが凄い形相でまくし立てた後、不届き者を見るような目でこちらを睨む。
違う意見は断罪するナチスみたいだったので私の中で衝撃的で、とともにショックで、考えた。(ちょっと愚痴みたいになっていてごめんなさい)

誤解がないように書きたいが、わたしはただ「わたしの意見はこうです」と聞かれたから伝えただけだ。

同意見ではないと断罪するのはなぜか。何故そんなことをするのか、どうしてそこまで盲信するのか…と思っていたけれど、最近哲学の本を読んでいたら【自由からの逃走】という言葉を見つけてピッタリだったので忘備録として書いておこうと思う。


自由を追い求め自由を勝ち取るために戦う人がいる一方、自由になると責任が伴うので責任から逃れる為に自由から逃走する人がいるらしい。

自由からの逃走!


その発想はまるでなかったので驚いた。なんと無責任な!人の意見を聞いて従っていたら自分の意見ではないから責任は問われないという考え方のようだ。そんなわけあるかーいと思うけれど、最近出会った人が正にそうで、本を読んでいて「おおお…」と納得。

さらにそんな人の特徴として、
奴隷のように権力者に従う一方で、弱そうな人や年下の人や部下など言い返して来なさそうな人に対してはとても高圧的に接して自分のポジションをどうにかしてマウンティングするそうだ。

責任を逃れたいから意志をもたない、奴隷になりたいのはわかる。ただ、さらに自分は1番にはなりたくないけど高ポジションにいたいから安息の地ではめちゃくちゃにマウンティングするらしいのは思いつかず驚いたが、わたしの知り合いは本に書いてある通りだった。

(本はすごいなあ、知らない知識ばかりだ。)


話はそれたが、

曖昧でも不確かでもいいから、現時点で最大限に勉強し考えて、
『わたしはこう思う』
を自分で決めるようにしている。盲目にならないように、偏らないように、いろんな可能性を考えられるように、相手の立場や知らない人の立場にも立てるように。


上手く言えないけど、コロコロ意見を変えるコウモリ的な金魚のフン的な事ではなくて、ちゃんと考えて責任をもって動く。

責任をもって動く。


ここが面白くて、重要かなと思う。

まだまだ未熟だけど、わたしは自由からの逃走なんてしないし、ちゃんと責任をもって動く。そしてその責任幅を広げられるよう、みんなに安心して貰えるよう、知識や技術を会得していきたいなと思った。

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