思い通りにコントロールすること
人はそんなつもりがなくても、こうするべきだという思いに縛られています。心理学用語では認知の歪みともいいます。
それはほんの小さなことからはじまることもあります。例えば、見返りを求めているつもりもなく人を助けたとします。でも「ありがとう」といわれなかったら、お礼くらいいうの当然じゃないの?と思う事が、べき思考に繋がります。もちろん、お礼をいうのは当たり前かもしれないけれど、相手は助けを必要としていなかった場合はどうでしょう?
極論ですが、解けない問題があって、どうしても今回は自分の力でできるようになりたいと思っている人に答えを教えてしまえば、お礼を言われるどころかその人の成長を阻害してしまうかもしれません。
それは親が子に、夫婦間、友人、同僚や部下に。コントロールしてるつもりはないけれど小さなことから自分の思い通りに働かせようとしてしまいます。
けれど、聖書の神様は人間をコントロールしようとはしていません。主権者であられるお方がそうであれば、私たちも、見習うことはできないでしょうか?
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」
創世記 2:15-17 新共同訳
これは神様が人に命じた場面ですけど、善悪の木をおいたのは、人をコントロールせずに、自分の意思で約束を守って欲しかったからです。なので食べる自由も食べない自由も、私たち人間に任せられました。
私を愛して欲しいといったから、愛してもらっても嬉しいでしょうか?浮気しないでって言ったから、浮気したら面倒臭いと思われたくないから、浮気しないでおこうと相手が考え、浮気しないとしても嬉しいでしょうか?
コントロールする事で自分の欲求をみたそうとするほど虚しいものはありません。そうではなく、私たち一人一人の自由意志で、自分や相手を大切にしたいですね♪♪
それと同じように、日本の宗教には無理やり勧誘するような事が多いですが、そこから本当の信仰は生まれません。 聖書の神様は、私たちの方から歩み寄ることを願っておられます。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。コリント第二 9章7節
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