主体的であるということ



今日は茶摘み
いつも活動しているフィールドを整備してくださっている年配の方々が組織する団体が主催で、毎年50kgをみんなで手摘み、という茶摘み
今年は娘の友達が茶摘みを体験したい!と県外からやってきた
 
毎年やっているが、50kg、果てしない・・
今年は集まっている人数も少なくて、50kg無理でしょう・・というムードが大人の中にもちらほら・・

開始から3時間以上経過し、小さい子連れのご家族は
「すみません、お先に・・」と帰っていく
娘1人だったら、まあいいのだけど、
今回私も初対面のお友達も一緒ということで、気を遣って
「どうする?このあたりで帰りますっていうことできるけど?」
と尋ねると
「もし私たち帰ったら、残された人たちショックじゃん」
最後までやるつもりだという19歳と18歳
 
そこからは、この茶摘み行事について
2人が色々改善案を出し合いながら、手を動かしていた
「ボランティアじゃなくて、お茶摘み体験会、にすれば、もっと人来ると思う」
「インスタ作って、発信すれば絶対集まるよ」
「来てもらう時間帯をずらして、交代すればペースも落ちないのでは」
「途中で計量何回もして、あと◯キロ!と励ましてやるべき」

次々に出る改善案
2人とも超主体的にこの行事に参加している

炎天下での茶摘み
大人でも弱音が出る状況なのに
この人たち、なんでこんなに主体的なんだろうか

主催団体の方が
「50は無理そうだから、40でがんばりましょう」
と声をかけられると
2人は小さな声で「ここまできたら50やりたいよね・・」

で、40くらいになっていそうだから、終了
さあ、帰ろうか、と声かけると
「何キロだったか気になるから最後までいるよ」
計量結果 45kg
「あと5kgなら50kgまでやれたのに・・」
と残念そうな若者2人

テストと評価がない高校で寮生活を送ってきた2人
授業では、教員と生徒が対等に意見を言い合う対話を大切にしている
寮では毎週こども達だけのミーティングが長い時間行われ
みんなが快適に生活するための話し合いをする
行事も参加したい人だけが参加し、運営もすべて生徒が時間をかけてやる

高校生活のみが、今日の2人を作っているわけではないのだけれど
その場を作る、自分の意見を言う、みんなで場を作る
自分たちで変えていく
そんなことを積み重ねてきたことで、
いわゆる「主体的に関わる」ことの価値が知ることに繋がり
「自分が作る、変えられる」
という世の中や社会に対する信頼につながっているのでは

「自分が作る、変えられる」
という信頼がなければ、民主主義は成り立たない
その信頼がないから、選挙に行かない
主体的に関わらない

こども家庭庁が掲げる「こどもまんなか」
こども達が学校や社会に対して
「自分が作る、変えられる」
という信頼をもてる
そんな日本になることが
「こどもまんなか」の真髄になるのでは

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