かけた情けは水に流していいのか問題:刻石流水篇
以前、友人が仕事で困っていた時に、私は自分の時間を割いて手助けをした。内容はもうあまり覚えていないのだが、結構な汗をかいた記憶はある。
そしてその一件が解決した後、友人は
「マジで助かった。ありがとう!!!」
と感謝してくれたのだが、その時、ほっとすると同時に嬉しかったというか、ピンチなのに嬉しいという感情だけを字面にすると不謹慎に見えそうだが、平たく言うと自己有用感がちょっと増えたような気持ちにもなり、
「このことは自分にとっても大事な経験だったな」
としみじみ思ったのだった。
彼にとっては大ピンチだったわけだが、たまたまそこで自分が役に立てた。そのことが、お互いの存在感をより明確にしたというか、手助けできてよかったし、これからも何かあったらいつでも言っておくれ、私も何かあったら頼るでな、という絆が深まったのだった。
そのことを思い出すたびに、ふと思うのだ。
友人が頼ってくれたことは素直に嬉しかったが、同時に、私自身もその情けをかけられる余裕があったと気づけたことに感謝した。何かをしてあげられるのは、するほうからしても喜びだったりするよな、と。
と、後藤が書くと「マウント」と言われるんだろうなと思いつつ(笑)、まぁ、とはいえどう思われようと、本人には一切そんな気はないということをどう言語化するかに挑戦したく、今週のチノアソビ大全をスタートしたいと思う。
刻石流水に異論を唱える
「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」と言われる「刻石流水」。
これは、誰かにかけた情けは深く考えず流し、受けた恩はしっかり心に刻みなさい、という意味だ。
しかし、ここにきて、私はこれに少し違和感を憶えている。
ただの反抗心ではなく、何か理由があるはずだ。
そう数日考えていたある瞬間、ヘレン・ケラーの「W・A・T・E・R」のタイミングはやってきた。
「情け」の解釈にもよるとは思うのだが、ここでは同情や哀れみといったカラーではなく、思いやり方面の、「その行為を行うポジティブなメンタリティ」として考えてみたい。
(そう、「情けをかける」こと自体が深い気がするので、これだけでチノアソビを1話やれる気がしている)
誰かに情けをかけるというのは、単に憐憫や善意を施す行為ではない。
別の角度から見ると、憐憫であれ善意であれ、行為者には余裕があり、その余力をもって誰かを支えることができる状況にあるからこそ生まれるものだ、と思う。
そして、その情けをかけさせてくれる相手が存在すること自体に感謝を感じるという現象は少なからず心的に起こり得るのではないかと思うのだ。
そう、むしろ、情けをかけるという行為を通じて、自分もまた豊かさを経験し、成長する機会を与えられているのではないか、と。
情けは一方的なものではなく、むしろ双方向の交流。
だからこそ、誰かに情けをかけるという行為を、自分の中でただ水に流すのではなく、感謝の心を持ち続けたい。
それは、自分が持っている「余力」や「豊かさ」への気づきであり、情けを通じて得る学びへの感謝でもある。と、後藤は思いたい派閥を立ち上げたい。打倒石破!!
「情けは人のためならず」の真意
そしてここまでの流れを補完してくれるのが、
「情けは人のためならず」
なのである。これに気づいた瞬間、後藤は5歳くらい若返ったようなときめきを禁じ得なかった(笑)。
平成の時代に
「このことわざは、情けをかけても人のためにならないという意味ではなく、むしろ自分のためになるっていう意味なんだよ。知ってた?」
というトリビアがまわった記憶がある。
そう、「情けは人のためならず」は、誰かに情けをかけることが巡り巡って自分に返ってくる、という意味。
だとすると、かけた情けはさっさと水に流してしまってはいけないのではないか。後藤が引っかかっていたのはここだったのだ。
ということで、かけた情けを「水に流す」のではなく、その情けをかける機会自体に感謝し、心に刻むべきではないかと個人的には思うし、ついそうしたタームを持ってしまうことを最近は自覚している。
情けを施したことで得られた経験や学び、成長は、無意識のうちに自分を豊かにしているのだ。
(そしてそんな情けも、誰にでもはかけないんだよ、やっぱり相手によるよな、となるのは私だけか?それこそが「情けは人のためならず」、つまり、まわりまわって自分のところに返ってくるって意味なんじゃないの?と。)
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