子どもがいたら、自分の老いも受け入れられる気がする。
自分はずっと以前から、「ここ」にいてはいけないのだという罪悪感の中で生きている。
後ろめたさから、「ここ」にいていいんだという理由が欲しくなる。
「好きなこと」を仕事にしているわけではないけれど、仕事が辞められないのは、曲がりなりにも誰かに必要とされている実感があるからだろう。
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友人達が母親になっていく。そして子ども達のためなど、自分のためではなく他人のために働き、悩むのはほんとに菩薩様のようで、美しい。
観音菩薩などの菩薩様は、悟りを開いて仏にもなれるけれど、私たち衆生を救うために敢えてこの俗世に身を置いてくれている存在らしい。
母親という存在は、ほんとに菩薩様のようだと思う。
自分のためにお金を使い、自分のために時間を使い、自分のために友人に会う。自分のことでしか悩まない自分がほんとにお子様だ。私も早く彼女達のようになりたい。
だけど、「お母さん」というものを美化しているからだろうか、「恋するお母さん」が苦手なことに気付いた。
「家庭がうまくいっているなら、心は誰のものでも構わない」極論、そう頭では思っている。
けれど、シングルマザーの友人から「既婚者と恋をしている」と聞いた時、どこかでなんか嫌だなと思った。
フリーな以上、恋をするのは自由だ。なのに、だ。
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その嫌悪感はきっと「私」の問題で、「彼女」の問題ではない。
「お母さん、私だけを見て」そういう渇望が私の中にある。だから、他人に恋する母親が本能的に許せないのだ。
別に私の母親は健在だし、決して不仲ではない。苦しい時は助けてくれるし、優しいと思う。なのに、この飢えのようなものが消えないから申し訳ない。底なし沼のようだ。
子供の頃からこの飢えのような寂しさに、ずっと苦しんでいる。
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「誰かの役に立ちたい」病に罹患している。
寂しくて、誰かに必要とされたくて、だから色んなボランティアをしてきた。
ただし、私の身勝手なところは私の助けたいときに私の助けられる範囲で助けたいと思うところ。そして、感謝などの見返りを求めてしまう。
私は決してお人好しではない。
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私が子どもを欲しいと思うのは、この無価値で凡人の私でも、「お母さん」になれば子どもは私を必要としてくれるから。
私は、私の存在価値のために子どもが欲しいと思ってしまっていることに気付いた。
でも実際の子育ては、厳しい。子どもは空気を読んでくれないし、こちらの体調が悪くても御構い無しで面倒を見ることもあるだろう。時にはうるさい。それこそ、無償の愛が必要で。
『「家族」という病』なんて本もあったけど、美しい家族愛ばかりではない。
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子どもを歪んだ愛で包まないように、まずは自分の価値を自分が認めてあげることが必要だけど、今だに私は自分に自信がないのだ。自信がないまま歳だけ取っていくことにも脅えている。
子どもがいたら、自分の老いも受け入れられる気がする。
増えていく白髪やシワなど、変化していく自分の体に自分の心が追いついていけていない。
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そういえば、平安時代、女性は生理などもあって穢れた存在だったし、成仏できないと言われていた。女性の成仏について書かれるお経が『法華経』で、だから平安時代の女性は『法華経』をよく読んだ。
私は平安時代の女性の生き方に興味があるのだけど、私自身がどこか穢れていると思っているから、彼女たちと同じように救われたいと思っているのかも、とふと思った。
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「寂しくて泣いている私」の話を、「私」が聞かなくちゃいけない。でもまだまだ彼女は頑なに本音を話してくれない。
それはほんとに時間がかかりそうで、noteを読む皆さんにお付き合いいただけたら、幸いだ。
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