試小説『ひろや』
私が保育園に通っていた頃、一緒に遊んでくれていた男の子がいる。
その子はひろや君。
かけっこが得意で、笑顔の眩しい男の子だった。
それに対し、私は小さくて動きの遅いどんくさい子だった。
ひろや君は、私が悲しい時は慰めてくれ、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。
私が一人で遊んでいると、一緒におままごとしてくれたり、かけっこしてくれた。
彼と過ごす保育園の毎日は、とても楽しかった。
いつものようにひろや君と遊んでいた時に、お母さんが迎えに来て
困ったように言った。
「誰と遊んでいるの?」
私はとてもビックリした。
ビックリして、何も言わずにひろや君の前から立ってお母さんの手を握った。
それ以来、ひろや君に話しかけられても無視するようになった。
ひろや君は悲しそうな顔をしていたけど、
それ以上何も言わなかった。
そのうちに、私のそばに来ることもなくなった。
そうこうするうちに、私は引っ越しをすることになって、保育園が変わることになった。
そして、ひろや君を見ることもなくなった。
それから10年以上経ち、高校生になって「イマジナリーフレンド」という言葉を知った。
その名の通り、「想像上の友達」。
小さな子どもは、空想の友達を作ることがある、らしい。
ーーーひろや君は私の「イマジナリーフレンド」だったのかもしれない。そう思うようになった。
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ひろや君には会わなくなったけど、小学生の頃から繰り返し見る夢がある。
私が風邪を引いた時や、友だちとケンカした時、失恋した時など落ち込んでいる時に限って見る夢。
目覚める直前の現実と夢のあわいにいる、そんな時。
その時が来るのはなんとなく分かる。
ーーーあぁ、また来た。
誰かが枕元にいる。
そして優しく私の頭を撫で、髪の毛をといてくれる。
私はその手の温もりに安心する。
もちろん、目覚めても誰もいない。
最初は気のせいかな?と思っていた。
けれど、落ち込んだ時にその夢を何度も見るうちに
きっと、ひろや君だろうと思うようになった。
ひろや君は「イマジナリーフレンド」だったかもしれないが、
そうやって私の心の支えになっていた。
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大学受験を終えて、私は大学生になった。
必修の教養科目の初めての授業を受けに、教室に入って座った時である。
「…みゆきちゃん?みゆきちゃんじゃない?」
集団講義用の大きな教室で、机が階段状になっている。
私の名前を呼ぶ声は、少し上の後ろから聞こえた。
振り返って見上げると、私の知らない男の子がいた。
髪を茶色に染め、肌は少し日に灼けた男の子である。
私がよっぽど怪訝な顔をしていたのだろう。
彼は少し困った顔をして言った。
「たんぽぽ保育園に通ってなかった?」
「…そうです。なんで知ってるんですか?」
「その時に、ひろやって男の子と仲良くなかった?
俺、そのひろや」
そう言って、彼はにっこりと笑った。
「懐かしいなぁ…元気だった?」
「…」
「どうしたん?」
「ひろや君っ!!??」
大きな声が出た。周りは一斉に私の方を見た。
しかし私は構っていられなかった。
なんで!?どうして?
彼は私の「イマジナリーフレンド」ではなかったのか?
私は情報処理が追いついていなかった。
私の大きな声に、彼もビックリしたようだった。
「そうだよ。思い出した…?」
困ったように彼は言った。
キーンコーンカーンコーン…
授業開始のベルが鳴る。教授が教室に入ってくる。
その時はそのまま前を向いて授業を受けた。
が、私の頭の中はそれどころではなかった。
落ち込んだ時に夢の中で何度も支えてくれた、ひろや君。
どうしてその彼が今、目の前にいるのか。
では保育園の頃の彼は夢ではなかったのか。
何度も何度も同じ思考がグルグルし、冷や汗が流れた。
本当に長い90分だった。
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キーンコーンカーンコーン…
終業のベルがなった。
「みゆきちゃん、この後授業あるかな?」
彼が後ろから話しかけてくる。
振り返って私は言う。
「ないです」
「そしたらどこかで喋らない?俺も懐かしいし」
「はいっ!」
焦り過ぎて元気な返事が出た。彼も苦笑いしている。
冷静にならなきゃ…でもどうやって⁉︎
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「久しぶりだね。元気だった?」
横に並ぶと、背が高い。
小柄な私は見上げなきゃいけない。取り敢えず学食に向かう。
「相変わらず小さいんだね。」
「そうかな」
「そうだよ」
彼は懐かしそうに、遠い所を見つめる目をして、そして嬉しそうにした。
私は気が気でない。というか、そもそも男の子と二人で話すのに慣れていない。段々ドキドキしてきた。
学食で飲み物を買って、席につく。
「というか、私のことよくすぐ分かりましたね?」
「分かるよ、変わってないもの」
そう言って、眩しい笑顔で笑う。
あ、この笑顔には見覚えがあるな、って思った。
しばらくは、お互いの小中高をどのように過ごしてきたのか話をした。
私は保育園の途中で、隣の県の父の実家の近くに引っ越して、そこで青春時代を過ごした。
彼はそのままその街で成長したらしい。
そうして同じ大学の私は文学部、彼は理学部に進学した。
一通りお互いの話をして盛り上がった後、彼が不意に言った。
「あの時は本当にみゆきちゃん大変だったね」
「………何が?」
「えっ!?覚えてないの?」
「うん…」
というか、ついさっきまであなたのことを夢の中の人だと思っていたなんて、言えない。
彼は言いにくそうに口ごもる。
「何のこと?」
「本当に言っていいの…?」
「うん」
彼は意を決したように言った。
「…お母さん、交通事故で亡くなったじゃない?」
「………」
「ごめんね、踏み込み過ぎたね」
「……」
「ごめん、怒ったかな?」
「……」
「どうしたん?」
彼が心配そうに私の顔を覗き込む。
「そうだった」
「え?」
その瞬間、私は涙が溢れてきた。
そうだった。私のお母さんは私が4歳の時に交通事故で亡くなっていた。
幼い私を育てるために、父は父の実家の近くに引っ越したのだ。
そして、小学生に上がってすぐ、父は再婚した。
新しい母は優しかった。
「母に会いたい」と私が泣くと、父と新しい母は悲しい顔をするから、なるべく考えないようにした。
弟も生まれ、騒がしい毎日になった。
そうして、幼い私は、母を忘れた。
ごめん、ごめんねお母さん。
私が辛い時、頭を優しく撫でてくれた夢の中の人の正体が分かった。
お母さんだったんだね。
涙が止まらない。
ひろや君が困っている。
それでも涙を止められなかった。
彼は黙って手を引いて、誰もいない空き教室に
誘ってくれた。
私は下を向いて黙々と泣き続けた。
お母さんを忘れた非情な私を、母はずっと見守ってくれていた。
1時間ほど泣き続けた。ひろや君は我慢強く私が泣き止むのを待ってくれた。
「ごめんなさい」
「いいよ」
久しぶりに会った女が泣き続けるのを、彼は迷惑そうにもせず、そばにいてくれた。
泣き疲れて、一息ついた私を見て一言言った。
「俺ね、みゆきちゃんが初恋だったの」
「…そうだったの?」
「俺、みゆきちゃんにまた会えて嬉しい」
「…私も」
「実はね。お袋とみゆきちゃんのお母さん、ちょっとした行き違いがあって仲が悪かったんだって。でも、あんなことになって、お袋後悔してた。」
「そうだったの…」
そっか、だからあの時お母さんはひろや君に冷たかったのか。
「もう一度、あの頃みたいに過ごせないかな?」
ひろや君が、真剣な目で私を見つめる。
「…はい」
私は笑った。
「やっと笑ってくれたね」
ひろや君は、クシャッと私の髪を撫でてくれた。
今夜、父にひろや君とお母さんのことを話そう。なんて言ってくれるかな?
ひろや君は私の本当のヒーローになった。
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