毎日日記を書く作家、気まぐれに日記を書く作家
昨日筆者の大嫌いな採血があった。
年に一回の拷問だが、今年は雇入前健康診断もあったので二回目だ。最悪だ。
案の定採血で大泣きし痴態を晒した、こうなると予想して午後休を取っていたのが唯一の救いだ。
痴態を晒した分大人ぶろうと本を買った。
品田遊先生の「納税、のち、ヘラクレスメス のべつ考える日々」と、くどうれいん先生の「日記の練習」を買った。
どちらも日記を書籍化したものだ。
ちなみにくどうれいん先生の本はサイン付き、ラッキー。
日々書いたことを書籍化しているという点において一見似ているふたつの本だが、大きな違いがある。
品田遊先生は毎日欠かさず日記を書き、くどうれいん先生は思い立った時のみ書いているという点だ。
どちらが良いのかはわからない、どちらも面白かった。
けれど素人目的にも違いはあった。
くどうれいん先生は現実であった面白いことや出来事を書いているのに対し、品田遊先生は毎日書くという制約もあってかちょっとした小説や思考をふくらませた物が多い。
品田遊先生は日記というよりかは、とにかく筆をとることをやめないことに重きを置いている気がするのだ。
一方くどうれいん先生は本当に日記だ。たまに思い出した心の内を書くこともあるが、日々の記録を摂っている印象が強い。
ちなみに筆者は以前から品田遊先生のファンだが、くどうれいん先生の本は初めて購入した。
書店でぱらぱらとめくった時目に付いた、4月6日の日記が何となくいいなと思ったのだ。
筆者も毎日投稿しているため、このふたつの本には自分の執筆活動の在り方を考えさせられた。
くどうれいん先生の書きたい時に書くことで面白い日記が出来上がるというスタイルも一理あると思うし、品田遊先生の日記に加えて思いついたことを小説のように書くスタイルも心惹かれる。
結局はそのハイブリッドを目指すべきなのかもしれない。
面白いことがあった日は日記を書き、特に何もなかった日は小説や自分の思想を書く。
そうやって書いていったこのnoteが書籍化された時、筆者も日記を分析され執筆の参考にされる日が来るのだろうか。
いや、そもそも本を読んでいる人口に対して執筆している人口が少ないから来ないかもしれない。
そんな分析されなくても良いが、ただなんとなく自分が死んで本だけ残った時、読むだけの人にも面白いと思って貰えるような人生は送りたいと感じた。