残雪 [1]
初冬。青森県にある酸ヶ湯温泉。
江戸時代からの歴史を誇り、八甲田山の山中にあるこの温泉は、真冬ともなると豪雪により下界との往来が阻まれ、訪れた湯治客は長期滞在を余儀なくされたという。
ここを訪れたのは、湯治のためでも旅行のためでもない。新製品の広告制作に必要なロケーション撮影。豪雪地帯ならではの「雪の回廊」。そこで渋滞しているシーンを撮影するためだ。
撮影は二泊三日の予定だった。最終日、前日まで綿密に準備して臨んだ撮影現場では、早朝から片側の車線を封鎖し、演出イメージに合わせて車を一台一台配置していた。トランシーバーでエキストラや車列の運転手に指示を出し、シャッターを切り始めたところで思いがけないアクシデントに見舞われた。
撮影が中断する。その対処に多少時間を費やしたが、それでもどうにか自分が果たすべき仕事を終えることができた。想定通りにいかないのが人生。僻地や過酷な状況でのロケが好きなのは、それを感じることができるからなのかもしれない。
昼前に撮影を終えると、東京への帰路は撮影スタッフたちとは別行動することになった。彼らは地元のコーディネーターが手配したロケバスに乗り込むと、青森空港へ向かった。慌ただしい年末進行の最中、すぐ次の仕事が待つ東京へ急いで戻る必要があるのだという。
彼らを見送ると、自分よりもひと周りほど歳上のコーディネーターに促され、ワゴン車の助手席へと乗り込んだ。
彼らと同行しなかった理由。飛行機に乗ることがあまり好きではないという真実を隠し、のんびり電車で帰りたいからという我儘な理由に仕立てあげた。その場しのぎの思いつきだ。「それなら駅まで送りますよ」と申し出てくれたコーディネーターにしてみれば、それも仕事のうちだとはいえ内心は面倒だと思っていてもおかしくはないだろう。
「本当にのんびり帰るなら、青森駅じゃなくてもいいですか?」
「ええ」
「折角青森まで来たんですから、少しドライブしましょう」
「おまかせします」
「十和田湖の方を通って花輪線の駅の方へ出ようかと思います。十和田湖の方は、まだ綺麗な紅葉が残ってると思うんですよ」
車を走らせる彼は、面倒そうだというよりは、むしろ楽しそうだった。人懐っこい男なのだろう。他愛のない世間話と、車窓から絶景が飛び込む度に始まる観光ガイド。会話が途切れることのない彼との道中は、特に退屈することはなかった。
雪化粧をした遠くに見える山々、冬の訪れを抗うような紅葉が鮮やかな近くの山々、陽の当たらない路肩に薄く残る雪を眺めながら、ワゴン車は秋と冬の境目を縫うように走っていく。
二時間弱のドライブだった。
「お疲れさまでした。お気をつけて。じゃあまた」
来た道を戻っていく彼の車を駅前で見送った。昭和から時が止まったように何もない駅前には、少し雪が散らつき始めていた。
とある小さな駅。古い駅舎に入る。人の気配がない券売窓口には、色褪せたカーテンが下がっていた。窓口の脇に貼られていた時刻表を確かめる。列車はおよそ二時間に一本しか走っていないようだ。そして、次の列車までは一時間以上あった。「のんびりか・・・」と呟いてみる。せめて青森駅に送ってもらえばよかったかと軽く後悔をしながら、窓口の向かいにあるベンチに腰掛けた。
誰もいない冷え切った駅舎の中で、煙草を喫おうとロングコートのポケットを弄っていると、駅の外から車の走り去る音と同時に男の声が近づいてきた。
「はい。わかってます。間違いなくいるはずですから。大丈夫です」
電話の声。辺りの電波状況が悪いのか、時々、男の声が大きくなる。
ソフトパッケージと一緒に愛用の古いジッポを取り出し、煙草に火を着けたその時、通話を終えたのか、掌の中で携帯電話を折り畳みながら男が駅舎に入ってきた。
こちらを見て一瞬立ち止まるその男の様子は、他に人がいることに驚いたようにも、何かに身構えたようにも見えた。男は、書かれた数字の少ない時刻表へ目をやると、振り向きながら何事かを小さな声で吐き捨てるように呟いた。
その様子を冷たいベンチで煙草を燻らせながら上目遣いで眺めていると、目が合った男が近づいてきた。
「ここ、いい?」
ベンチの端を指し示す男の言葉に、黙って頷く。
一・五メートルほど離れた場所に、身を投げ出すようにして腰掛ける男。草臥れた黒い革のブルゾンから覗く派手な柄のセーター。ダークブラウンのウールパンツに革靴。足元に置いた小さなボストンバッグ。パンチパーマ、ゴールドのフレームに薄いブラウンレンズのサングラス。地元の人間には見えなかった。そして、おそらく堅気じゃない。
胸ポケットから煙草を取り出し咥えた男は、鈍い光を放つ銀張りのライターを数回鳴らした。ジャッジャッと音がするだけで、指の腹で何度擦っても火は着かなかった。
「悪い、火、貸してくれる?」
そう言いながら顔を向けた男のサングラス越しの目には見覚えがあった。時間が、巻き戻っていく。
男にジッポを差し出す。伸びてきた男の手の甲にある火傷の跡。それは、日陰にいつまでも残る雪のように、溶けることのない記憶。
「悪いな」
男は火が着いた煙草を咥えたまま、用を果たしたジッポが横たわる掌をこちらへ差し出すと、少し微笑むような表情を見せた。そしてすぐに男は正面を向き直すと、目を閉じて煙を深く吸い込んでいた。心を落ち着かせようとしているかのように煙を吸い、溜息をつくように煙を吐いている。
間違いない。確かな面影のあるその横顔を見つめながら、声をかけるタイミングを待った。気づけば、人差指と中指に挟んだ煙草はいまにも自分の指を焼いてしまいそうなほど短くなっていた。それを足元に落とし、踵で踏み潰すと声をかけた。
「ケンゴ」
咥え煙草の男は前屈みの姿勢のまま、訝しげな表情と舐め上げるような視線をこちらに向けた。
「あ?・・・・なんだ、おまえか」
「久しぶりだな」
* * *
終業式の朝。いつ雪が降り出してもおかしくないような鉛色の空。冷たい風の吹く日だった。教室に入るとサッカーの朝練を終え、着替えをしている同級生たちがいた。
思えば、顧問の教師の「休日の肝心の試合に来ない奴はレギュラーで使いようがない」その最もな言葉でレギュラーを外されて以来、朝練には行かなくなった。それでも、放課後の練習には参加していた。ひとりで過ごす放課後よりはよっぽどましだったからだ。
同級生たちは、朝練に出なくなった男のことを気に留めもしなくなった。
前からどこか疎まれていると感じていた。それが表面化するきっかけになったということだ。毎朝のそんな空気にもようやく慣れた。群れたい奴らは群れていればいい。明日からの冬休みは何をして遊ぶかという話に興じている彼らを、教室の離れた場所からなんとなく見ていた時に気づいた。ケンゴがいない。そう思った時、群れの中のひとり、タツヤが近づいてきた。
「なあ、ケンちゃんが昨日、S中の奴らにぶっ飛ばされたの知ってる?」
「知らない。なんで?」
「そいつら、おまえのこと探してたみたい」
心当たりはあった。数ヶ月前の、とある夏の日の夕方。毎週通っていた道場に向かう途中の、駅前の商店街で、執拗に絡んできたS中の奴らを締めたからだろう。まさか、恥ずかしげもなく今になってお礼参りに来るとは思いもしなかった。
「ケンちゃん、メリケンで思いっきりぶん殴られてさ、すげえ顔腫れてたから今日は来ないと思うよ」
「つうか、おまえケンゴと一緒にいたの?」
「うん」
「おまえはなんで無傷なんだよ」
「無傷じゃねえよ。足蹴られたし」
「朝練でサッカーできてんじゃん」
「……」
「どうせおまえ相手にビビって、黙って見てたんだろ。何人いた」
「……三人」
「……だったら、俺に用があるって言ってんだからすぐ呼びに来いよ」
「呼びに行こうと思ったんだけど」
「そうすれば、俺がぶっ飛ばされるとこ見られたじゃん。嫌いだもんなあ、おまえら俺のこと」
「…..でも、ケンちゃんがやめろって。絶対呼ぶなって」
「なんでだよ」
「知らねえよ。あいつよりも俺の方が強えぞって、ケンちゃんが喧嘩買った」
「なんだよそれ」
「結構いい線いってたんだけど、もう一人が手を出してきて、ケンちゃんを羽交い締めにしてメリケンパンチで……」
「なんで止めねえんだよおまえ」
「タイマンだっていうから」
「馬鹿かおまえ……もういいわかった。S中の奴らなんだな?」
「あのさ、S中もそうだけどさ、周りと揉め事になるの、いつもおまえのせいじゃん。ケンちゃんがやられたのも、おまえのせいだからな」
タツヤはそう言い放つと、狂犬病と陰で呼んでいる男へ蔑むような視線を向けながら、群れの元へ戻っていった。
終業式が終わった。「人が降ってくるから団地の側で遊ぶな」という冬休みの注意事項。こんなことを連続休暇の度に言われるのは、飛び降り自殺の名所と言われている団地内の学校くらいだろう。
結局その日、ケンゴは来なかった。
昼時にまだ誰もいない家へ帰ると、真っ先に台所を漁る。冬休みどころか今日の午後すら誰かと遊ぶ約束は何もなかった。探し出した目当てのものを片っ端から紙袋に放り込む。それを抱え「最近こういうの流行ってるんでしょ」と母親が買っておいてくれた、暖かそうなダウンジャケットをひっかけて再び家を出た。
七階から、奇数階にしか止まらないエレベーターに乗る。一階に着く。エレベーター扉のガラス窓の向こうに「最近ヤクザになった」と噂されていた十一階に住んでいるイケさんが立っていた。
扉が開くと、咥え煙草のイケさんは不思議そうな顔で俺の顔を見ていた。浅黒い肌、パンチパーマ、チョビ髭を生やし、いつもガラの悪そうな数人の仲間を連れているイケさんが何歳なのかは知らなかった。幼い頃からイケさんのことは知っているが、ランドセル姿のイケさんを見た記憶がないのだから、少なくとも年齢は六歳以上は離れているはずだ。そんなイケさんの視線を躱すように軽く会釈をしてすれ違い、団地の外に駆け出した。
一瞬、向かいの棟にあるケンゴの家へ様子を見に行こうかと思ったが、やめた。きっと俺には会いたくないだろう。それ以上にケンゴに会って話してしまうと、これからやるべきことが揺らぐ気がした。
いつも屋台の駄菓子屋がいる広場を抜け、駅の方へ向かった。ふと、ケンゴの母親が働いている総菜屋のことが頭に浮かんだ。いつも通りがかると店先から必ず声をかけてくれるケンゴの母親のいる店は、駅へ向かう方向にはない。行かなきゃいけないのはそっちじゃないだろう。鎌首を擡げはじめる弱気を振り払うよう、自分に言い聞かせる。
団地の建物の下にある商店街から、幹線道路を跨いで駅へと続く長いアプローチ。そこに繋がるこの階段で、あの日、S中の二人が絡んできたことを思い出す。まさかこんなことになるとはな。
辺りに香ばしい匂いを振りまく天津甘栗を売る屋台を通り過ぎ、石焼の匂いが篭った駅を通り抜けて、駅の裏に出る。
ここからはS中の学区域だ。いつ喧嘩を吹っかけられてもおかしくない場所。しかし、毎週通う道場はこのエリアにあり、同級生の誰よりもこのエリアのことを知っていた。団地側の人間と駅裏の人間の気質の違いも、駅裏は昼間と夜ではまったく表情を変える場所だということも。
パチンコ屋の前を横切り、ピアノ教室の角を曲がり、寂れたビジネスホテルの横を通ってまっすぐ歩いていく。その先にある茶色いタイルのマンション。その一階には何度も泥棒に入られていることを自慢するような、泥棒に対する警告文が掲げられたトンカツ屋。その向かいに目指す場所があった。
目隠しのような厚手の白いシートに囲まれたその場所は、工事関係の資材置き場だった。一人にならなければいけない時にいつも忍び込む場所。淋しさを癒すために孤独になることができる場所、勇気を奮い立たせるためのこの場所のことを、同級生たちは誰も知らない。
いつものように家から持ち出したマッチを取り出し、煤で汚れたオイル缶の中で火を起こす。クッキー缶に、小さなプレハブ小屋の脇にあった水道から水を汲み、オイル缶の上に乗せ湯を沸かす。
沸騰した湯の中に切り餅を二つ沈め、焚き火の前に座ると、茹で上がる間にケンゴがなぜ俺を呼ぶことを拒んだのかを考えた。本当はその理由は考えるまでもなくわかっていた。それでも考えなければ申し訳ない気がしたからだ。ケンゴの誇りに。
割り箸で餅を取り出しながら醤油を忘れたことに気づく。仕方なく、まったく味気ない茹で損ねて芯もある餅で空腹を満たした。今朝、教室で同級生に言われた言葉が蘇ってくる。「……おまえのせいだからな」
ふと、クッキー缶の底にこびり付いた餅に気づき、それもこそげ落とそうとするがうまくいかない。「わかってるよ」独り言つと割り箸を焚き火の中に放り込む。じっと手を見る。人差し指と中指のささくれが気になり、次々に剥がしていく。小さな痛み。ケンゴの顔が浮かぶ。「俺より弱いくせによ……」
指先に滲む血を見つめながら、足元に転がる長さ五十センチほどの鉄パイプを拾い上げる。立ち上がり、狂ったように素振りを繰り返す。淋しさと孤独を振り払うと身体の芯が決意で強張っていく。
少し汗ばんだ身体を包む真新しいダウンのポケットに、薄汚れて錆臭い左手を突っ込む。血の滲んだ右手に鉄パイプをぶら下げたまま来た道を戻ると、S中の奴らの溜まり場に向かった。
(続)