残雪 [3]
幹線道路に沿って作られたグリーンベルトを横目に見ながら、歩いて十分ほどで目当ての場所に着いた。そこは、広大な敷地に墓標のように聳え立つ団地街から一番近いファミレスだった。
「うわ…やべえ」
店に入ってすぐに兄弟分が気づいた。視線の先に目をやると奥のコーナーのテーブルで騒いでいる柄の悪い集団がいた。コーナーソファーの角に踏ん反り返るアキバとその仲間たち。ケンゴを連れてきていたら厄介なことになるところだった。
「あれ?あっくんじゃねえの、ちょっとこっち来いよ」
通された席へ向かう途中、前を歩いていた兄弟分に気づいたアキバが手招きをした。「……ったく」舌打ちをしながらアキバの方へ向かう兄弟分が、数歩で振り返ると「キレんなよ」と声を出さずに言った。
「柵ね…わかってるよ」
心の中で呟きながら周囲を見渡す。店内はまだ、週末の賑やかさを見せていない。
「あいつら、俺とは気づいてなかったな」
窓の外。族車が三台駐められているのが見えた。そうか、これから集会か。十字に焼かれたケンゴの手が脳裏を過ぎった。
席に着いてすぐ、トイレに行く振りをしてレジの方へ戻る。レジ横の棚に並んでいるジッポオイルの缶。店員の目を盗みそれを密かに持ち出すと、奥で兄弟分がまだアキバたちと話している様子を確認して店の外へ出た。
ヨンフォア、ペケジェ、フェックス。態々だっせえ仕様にしやがって。一台一台、店内から死角になるファミレスの裏へ移動させていく。
「誰がやったか分からなきゃ柵もクソもねえよな」
一箇所に集めた族車を次々と蹴り倒す。それぞれのシート辺りにジッポオイルを振り掛け、ライターで火を着けた。
「本当は根性焼きで返すとこだけどな」
シートを焦がす炎を見ながら、ガソリンに万が一引火する可能性と、その場合のそれまでの時間を考えた。焦げ臭く燻る匂いを背に、急ぎ足でファミレスへなに食わぬ顔をして戻る。席には兄弟分が戻ってきていた。
「どこいってたんだよ」
「悪い、俺はすぐこのまま消える」
「なんでだよ」
「後で説明すっから。あっくんはできるだけここでゆっくりメシ食ってて。アキバたちがここにいる間は店を出ないでくれ」
「……わかった」
秘密は兄弟分とだけ分け合えばいい。
翌日、灰色の街ではアキバたちの単車に放火した犯人探しが始まり、そして犯人が見つかることはなかった。
* * *
「おまえだろ、あの日、アキバたちのバイク燃やしたの」
「……知らねえよ、そんな話」
「……」
「……」
「駅に入った時、おまえだって全然わからなかった」
人差し指でトントンと自分の頭を指差すケンゴ。
「ケンゴはあの頃からパンチだったからすぐわかったぜ」
同じ仕草を返す。
「そんな金髪じゃ、まともな仕事してねえな」
「おまえに言われたくねえよ」
小さく笑い合う。少しだけ、あの頃に時間が戻った気がした。
中学を卒業してからのケンゴのことは、誰も確かなことを知らなかった。卒業と同時に転居したのか連絡先を誰もわからず、灰色のこの街の繋がりをすべて絶って消えた。
その理由は、アキバたちが関わっている暴走族と揉めた挙句に大事になり、地元を所払いにされただとか、仲間たちと河川敷に住む浮浪者を次々と襲撃して少年院に入っているとか、後楽園球場でダフ屋をやっていたのを見たとか、まともな噂が全くなかった。
「ケンゴ、中学出てからどうしてたんだよ」
「……卒業間際にアキバ襲った。散々やられっ放しだったからよ。そしたらよ……」
「バックのヤクザが出てきて所払いか」
「なんだ、知ってんじゃねえかよおまえ。……火、貸せよ」
炎が上がったまま差し出したジッポに顔を寄せ、咥え煙草の先に火を着けると、大きく吸った煙を上を向いて吐き出し、話を続けた。
「……イケさん知ってるか?」
「知ってるも何も幼稚園の頃から知ってる」
「あの人が俺を拾ってくれてよ。あの街に戻れるようにしてくれた。じゃなきゃ下手したら殺されてた」
「じゃあ……おまえ極道になったのか。イケさんが兄貴分か」
「兄貴分どころか、いまや組長さまだぞ」
「すげえな」
「……」
「……」
「……俺は、今日まであの人に生かしてもらってた身だからよ」
その言い方にふと嫌な予感がした。ケンゴに釣られるように咥えた煙草に火をつけることも忘れて、その言葉の裏に潜む意味を考えていた。無意識のうちにジッポの蓋を親指で何度も弾いてカチャカチャと鳴らしたが、辿り着いたその嫌な予感をなかなか振り払うことができなかった。
「なあ、ケン…」
「あ、ちょっと待った」
言いかけたその声に被せるように話を遮ると、ポケットから畳まれたまま震える携帯を取り出した。着信。ケンゴはアンテナを伸ばしながら液晶画面を開いて通話ボタンを押した。
「はい。わかってます。心配ありません。はい。ちゃんとやりますから。はい。時間が来たら連絡入れます。後のことは頼みます。はい。」
電話での短いやり取りを終えたケンゴは、しばし遠い目をしながら大きな溜息をついた。複雑な思いが漏れていた。
「仕事の電話か?」
「ああ。イケさんから……すげえタイミング」
「……」
「……」
「……」
「おまえ、仕事は終わったのか?」
「終わらせて東京に帰るとこだって言ったろ」
「そうか……俺は……これからだ」
「……」
「……やっぱりやらなきゃいけねえことはきっちりやらねえとな」
なあ、ケンゴ、なんだか葛藤してるその仕事さ、気乗りしてないイケさんのそんな仕事、ほっときゃいいじゃねえか。こんなド田舎まで来てやらなきゃいけねえ仕事なんて、おまえ、どう考えても絶対貧乏くじ引かされてんだぞ。わかってんだろ、おまえだって。だいたいなんだよおまえのその格好。どう考えても雪国に行く格好じゃねえじゃねえか。何考えてんだよ。ほんと昔からセンスねえよな。だからよ、もういいだろ、そんな仕事。バックれてこのまま一緒に帰っちまおうぜ。
まるで非常ベルが鳴り響いているような悪い予感から逃れたくて、次々と湧き上がる言葉。
微かな願い。
でも、そんなことはきっと、ケンゴもわかりきっている。逃れられないことをわかりきっている。ここにいるというのはそういうことだ。
だから、黙っているしかなかった。立場が逆だったとしても、きっとケンゴもそうしただろう。
「ケンゴ、盛岡の方へ出るんだろ?」
「いや、大館の方だ」
「え?……そうか……逆方向だな」
窓口の上の時計を見る。虚しく針は進んでいた。盛岡方面行きがまもなく来る時間。遠くから響く列車の音が近づいてくる。
「もうすぐ、お前が乗る列車が来るな」
そう言いながらケンゴはポケットを弄り、銀張りのライターを差し出してくる。
「ほら。これ」
「なんだよ」
「これ、おまえにやるよ」
「いらねえよ。火も着かねえライターなんて」
「ガス切れなだけだよ。これ銀張りのダンヒルだぞ」
「どうせパチモンだろが。いらねえよ」
「見る目ねえな」
「……そうじゃねえよ」
小声で呟く。
二人で駅のホームに出る。散らついていたはずの雪は、いつのまにか強く降り始めていた。
「まさかよ、こんなとこでおまえに会えるとは思わなかった」
「俺もだよ」
「会えてよかった」
「なあ、ケンゴ……」
どこか悲しそうに笑うケンゴの顔に、言葉が続かなかった。
「おまえの連絡先教えろよ」という言葉は飲み込むしかなかった。それを最後まであいつが口にしないことの意味に打ちのめされそうになる。
お互いこれまで、本当に伝えたかった思い。伝えるべきだった思い。自分がやり通さなければならないことを前にした時ほど、そんな思いを言葉にせず、いくつも飲み込んで、ここまで生きてきたのだ。だから、最後まで、そのままでいい。
ディーゼル独特の音を立てながら、誰もいないホームに滑り込んでくる短い列車。ゆっくりと扉が開く。
「ケンゴ、またな」
軽く手を挙げ列車へ乗り込んだその時、ケンゴが言った。
「最後は、握手して別れようや」
差し出された、十字架のような傷跡がある手を握る。掌に捩じ込まれる冷たい塊。銀張りのダンヒルのライター。
「おい….」
一瞬呆気に取られた瞬間、ケンゴが腕を引く。同時に、扉が閉まる。じゃあな、ケンゴ。扉の向こうで小首を傾げてニヤリと笑うケンゴの姿がゆっくり遠ざかる。
男を包み込むように舞う雪は、いつからか閉ざされて冷たいままの、心の奥底に積もっていった。
東京に帰った翌日の朝、なんとなく眺めていたテレビのニュースで、もう二度とケンゴには会えなくなったことを知った。
そして、机の引き出しに仕舞った銀張りのダンヒルには、その後も、二度と火が灯ることはなかった。
(了)
【追記】この『残雪』は、作家の浅生鴨さんの所属するネコノスから出版された「ココロギミック」に収録されております。本の形になるとまた違った印象で読めると思います。お手許に一冊いかがでしょうか。
https://neconosbooks.stores.jp/items/64aa27a740aa6200429054a0