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【エッセー】回想暫し 昭和の妖怪(3)下


 
 国民は真底、憤った。五月十九日から二十日にかけて、岸政権の反動的体質を間近に見て、安保反対国民運動は安保闘争へと燃え盛った。安保反対ばかりでなく、岸を倒せという岸政権打倒、岸内閣退陣の声がひときわ大きくなった。
 この日以降、新安保が自然承認される六月十九日まで、連日、国会を取り囲むデモばかりでなく、全国いたるところで国民による安保闘争が展開された。
 二十日、国民会議の諸団体が全国いっせいに抗議行動。雨の中を国会に一〇万人の請願デモ。全学連主流派(七千人)の一部が首相官邸に突入。警官隊と乱闘、負傷者四〇人を越す。(日高六郎前掲書日録。以下同じ)
 二十六日、総評加盟各労組の時限スト・職場大会、全国三三〇〇ヵ所で参加二百万人……労組員・学者・文化人・一般市民など約一七万五千人が国会請願デモ。
 六月四日、6・4スト国民的支持のもと成功裡に決行される。総評・中立労組七六単産四六〇万人、学生・民主団体・中小企業者百万人、計五六〇万人(総評発表)が参加。
 などといったように、さまざまな人々のデモ隊が、立ち替わり入れ替わり国会を包囲し、全国諸都市の目抜き通りを行進した。大勢の一般市民が安保闘争に参加したことは、それまで見られたことのない光景であった。
 全国諸都市のなかで、たとえば、大阪の御堂筋はデモの人波で埋め尽くされた。小巻敏雄「大阪に於ける六〇年安保闘争」【六〇年安保地域闘争史 Ⅲ】に、以下の記述がある。 

六・四全国統一行動実力行使に全国四六〇万人が参加したといわれるが、当日、大阪では三三万七〇〇〇人の労働者が決起した。(中略)労働者の隊伍にまじって、商店主や医師、白衣の看護婦、子供を抱いた主婦、一般市民の参加がこのデモを特徴づけていた。特に目だったのは高校生の参加であった。
高津高校生徒自治会は機関決定により、全学参加体制をとり、一三五〇人が、二七学級それぞれ学級編成により、安保廃棄と生徒自治会大阪府連結成要求を掲げつつ、整然と参加した。ナンバ(難波。筆者注)コースをとり、高教祖の隊列の後尾についた高津高校自治会は、御堂筋南下の中で先行する隊列が潮のようにフランスデモに移った後も、四列縦隊の事前申合わせを守って整然と進んで行った。

小巻敏雄「大阪に於ける六〇年安保闘争」【六〇年安保地域闘争史 Ⅲ】

 筆者は同校の一年生であった。周囲のプラカードのなかに、「鬼子」と書かれたもののあったことをいまも記憶している。
 岸は、二十八日、強行採決以来はじめて記者会見に応じた。記者の問いかけに、「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかも知れぬが、私は〝声なき声〟にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは〝声ある声〟だけだ」(一九六〇年五月二十八日付け朝日新聞夕刊)と、答えた。
 声なき声という表現は国民の耳にとまり、六月四日、市民グループによる「誰デモ入れる〝声なき声〟の会」が誕生し、無党派一般市民のデモ行進が出現した。岸の認識とは異なり、声なき声の行進もまた新安保に反対であった。 

私に言わせれば、一部の者が国会の周りだけを取り巻いてデモっているだけで、国民の大部分は安保改定に関心をもっていない。その証拠に国会から二キロと離れていない銀座通りでは、いつものように若い男女が歩いているし、後楽園では何万の人が野球を見ている。日本が内乱的な騒擾だと受けとった外国もあるようだがこんな内乱や革命があり得るわけがない。

岸信介・矢次一夫・伊藤隆前掲

 岸はこんな発言もしているが、新安保が自然成立する十九日午前〇時までは、心の安まるときはなかったであろう。
 十日、ハガティー事件が起きる。ジェームズ・ハガティー米大統領新聞係秘書とトマス・スティーブンス大統領秘書官らが来日した。新聞係秘書は現在の大統領報道官で、ハガティーの報告は、アイゼンハワーの意思決定に重要な役割を果たす。
 ハガティーは、十九日に予定されるアイゼンハワー訪日に備えて、打ち合わせをするためにやって来たのであるが、それに加えて、米国政府は、日本の安保闘争なるものを左翼の跳ね上がり学生による大騒ぎとしか捉えていなかったので、ハガティーとしてはその実態を自身の目で見、肌で感じておく必要があったのである。
午後三時四十分、ハガティーらを乗せた米国政府特別機は、羽田空港に着陸した。米海兵隊のヘリコプターと米大使館のキャデラック三台が待機していた。
 警視庁は、空港内の騒擾そうじょう(そうじょう)を警戒して警官隊を配置していた。一方、全学連反主流派(日共系)と地方労組員のデモ隊は、空港外の沿道に詰めかけていた。車で空港を出たら、間違いなくデモの大群衆二万五千余と鉢合わせする。
 この状況から、警視庁は、ハガティーらと出迎えのマッカーサー大使らが、ヘリコプターで米大使館へ移動するものと思い込んだ。これを警視庁の判断ミスとするのは、いささか公平さに欠けよう。
 ハガティーらは、一旦はヘリコプターの方に歩み寄りながら、なぜか米大使館専用車の方に引き返した。車での移動に決めたらしい。警備側は慌てた。沿道の安全を確保するには、デモ隊を整理しなければならない。人も時間もいる。
 ハガティーらの乗ったキャデラックは、しかしながら、そんな警備側の困惑をよそに、さっさと空港を走り出た。白バイの先導もない。着陸からたった十分ばかりの出来事に、警備側はなすすべなく見送った。
 かくして、事件はいわば偶発的に起きた。と言うのも、弁天橋の手前、地下道を出たところで、ハガティー車は当然ながらデモ隊の真っ直中に飛び込んでしまったからで、車はおよそ千人のデモ隊に包囲され、前進を阻まれた。強行突破はとうてい不可能である。ハガティー車は、一時間余立ち往生することになる。
 当初、デモ隊は、ハガティー一行とは気づかなかった。気づいたときは、デモ隊側もびっくりした。アイク訪日反対をハガティー一行につきつけようとしていた矢先、当の目標が、みずからとりこになるべくやって来たのである。
 デモ隊は車を取り囲み、車を揺さぶり、車体やウィンドウをたたき、反対を叫んだものの、シナリオにない偶発事であるから、気の利いたことができない。両者がずるずると警察の出動を待つ形になった。警察の出動は遅れに遅れた。およそ十五分間の空白が生まれた。
 車内のハガティーらは、不愉快な思いをしたはずである。が、身の危険を感じるほどではなかったらしい。救助を待ちながら、日本の警察の対応の遅さに舌打ちしていた。
 上空には、救援の米軍ヘリコプターが着陸のスペースがないため、虚しく旋回していた。ヘリコプターのパイロットは、沖縄海兵隊大尉ロジャー・ハガティー。車中に閉じこめられたハガティーの息であった。
 ようやく警官隊五百人ほどが到着した。デモ隊を排除し、ハガティー車の周囲を固める。次いで、デモ隊を押し退け、ヘリコプターの着陸スペースを確保した。
 ハガティーらを乗せたヘリコプターは、デモ隊を見下ろしつつ、大空に舞った。米大使館にこの事件が伝わると、大使館員は機密書類の破棄の用意をし、大使館襲撃に備えた。
 日本の安保闘争の拡大につれて、米国政府においても大統領訪日の件は、頭の痛い問題になった。

強行採決から四日後の五月二十三日、ホワイトハウスの大統領執務室で、アイゼンハワー大統領とハーター国務長官が協議した。
「岸は大変な困難に直面しており、政権を維持できないかもしれません。現在、(日米修好百周年行事で)訪米中の吉田(茂元首相)に岸支援を依頼するという考えもあります」
ハーターがそう話を向けると、アイゼンハワーは、
「それはよいアイデアだ」
と、その提案を承認した。しかし、大統領の懸念はそれだけにとどまらなかった。大統領の訪日は六月十九日からと予定されていた。
「訪日計画は変更しなければならんかもしれないな」
 と述べ、マッカーサー二世大使の意見を聞くよう、ハーターに指示した。

春名幹男前掲

 米国政府の訪日延期の検討は、すでに五月二十三日から開始されていたことになる。が、マッカーサー大使は、なお岸寄りであった。岸は、予定どおりの訪日を求めてやまなかった。
 岸の最後に残された切り札が、アイゼンハワー大統領の訪日である。新安保可決と批准、米大統領とのにこやかな握手、日米新時代の幕開け宣言等々が、華々しく内外に報じられれば、崩壊寸前のおのれの政治的基盤は、たちまち盛り返すとの希望があった。
 米国務省は、岸がおのれの政権延命のために米大統領訪日を利用しようとすることに不快感を持った。CIAは、たとえ岸政権が倒れても、日米関係はさほど影響を受けないとより冷厳な判断を下した。
 六月七日、アイゼンハワーは日本の不穏な情勢に嫌気が差して、訪日に気乗り薄となった。それでも、同日の上院外交委員会では、
 

国務省の高官たちは、訪日が岸の政治的運命と結びついているのは不幸なことだが、左翼の抗議にあって取り消すことは、「極東全体に非常に不幸な影響を及ぼすことになるだろう」と述べた。そして結局大統領に直接的な危険がない限り、訪日するべきだ、ということに、全員が一致した。   

マイケル・シャラー前掲

 という展開があり、大統領の訪日は既定の方針どおりに進行していた。結果として、アイク訪日が中止になった経緯を考えると、ハガティー事件がターニングポイントとなった感が強い。
 ハガティーらは、日本警察の実力を見極めるべく危険な任務を買って出たふしがある。巷では、ハガティー・モルモット説が囁かれた。
 羽田から米大使館までの沿道の安全が確保されたあとで、車を走らせても、日本警察の警備能力の本当のところは判らない。状況が不意に危機的様相を呈したとき、いかに素早く遺漏なき対応が取れるか。ハガティーはモルモットとなってこれらの試験を行ない、警視庁は落第したというのである。
 ハガティー事件に引き続いて、安保反対国民運動の大デモ隊が、東京赤坂の米大使館の周辺を取り巻いた。このとき、米国政府は日本警察の能力を見限った。と同時に、マッカーサー大使の判断も信用しなくなった。

ハーターはマッカーサーに指示し、岸から大統領の訪日延期を願い出るようにさせようとした。岸があくまでも計画どおり実行を主張するならば、最終決定は今後の保安状況いかんによると岸にいってやればよい。今やアメリカ政府の関心は、親善から被害対策に移ったのだ、とハーターは述べた。

マイケル・シャラー前掲

 この時点で、米国政府は大統領訪日延期に傾いたとみていい。岸もマッカーサー大使も抵抗した。岸は、日本の名誉を失うことを、マッカーサー大使は、任地国で大統領を迎える自分の功を失うことを、それぞれ懼れた。二人は一蓮托生。まだ乗り切れるとの見通しにすがった。
 六月十五日、東大生樺美智子扼殺あるいは圧殺事件が発生し、岸はついにアイク訪日を断念する。


 
 六月十二日、アイゼンハワー大統領は極東訪問の旅に出た。マニラ、台北、沖縄、東京、ソウルを歴訪する予定であった。
 かりに、岸がアイゼンハワーの訪日中止を要請するなら、大統領の旅程は大幅な変更を余儀なくされる。米国政府はずいぶん寛大なデッドラインを設けたわけであるが、じつのところ、中止を前提に動いていたのである。
 岸が、アイゼンハワー大統領訪日中止を決断するにあたっては、さまざまな要因が介在した。
 一つは、米国側の日本警察の警備能力に対する不満。とりわけ、大デモ隊による米大使館包囲を阻止できなかったことは、マッカーサー大使を除くほとんどの米大使館員をして、アイク訪日はやめるべきだとする結論に至らしめた。
 じつは、五月二十五日、岸は、側近の福田赳夫農相を特使として、マッカーサー大使と面談させ、「なんとかしてアイゼンハワー大統領の訪日をアメリカ側から延期してくれないか。安保条約が成立した直後の訪日は行わないということをアメリカ側から申し出てくれないか」(NHK取材班『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第1巻』)と、申し入れさせた。
 岸は、燃え盛る安保闘争の強さに不安を抱き、転進を考えた。安保騒動を事前に鎮められなければ、アイゼンハワー訪日は、確実に自分の首を絞める縄となる。岸は、そんな物騒な縄を自分の前から早々に消し去っておくにくはないとの判断に傾いた。
 されど、マッカーサー大使は、決して応諾しようとしなかった。米国側から延期を言い出すことによって得るメリットは、ただの一つもなかったからである。
 もう一つは、宮内庁の憂慮があった。同庁は、天皇がアイゼンハワー大統領を羽田で迎え、皇居まで同行する道すがらを心配した。すでにハガティー事件という不祥事があり、これを避けるためにヘリコプターで移動するというでのは、米大統領に対しても天皇に対しても失礼である。可能ならば延期を願いたいというのである。
 さらにもう一つは、警備陣の憂慮があった。警備関係首脳は、アイゼンハワー訪日の際の警備について、万事任せてくれとの太鼓判を決して押さなかった。前にも触れたように、岸は、警職法改正のときのしっぺ返しを食らったかのようである。
 岸には、しかしながら、警察が手一杯ならば、自衛隊を使うという手段が残されていた。尤も、自衛隊を使うことには、異なる問題があった。まず第一に、自衛隊員が国民に向かって武器を使用するわけにはいかないこと。かりに、使う場面があったならば、自衛隊は存在理由を失うほどの痛手を蒙る。
 第二に、自衛隊員に武器を持たせなければ、その働きには大して期待できないこと。安保騒動のような騒擾には、無腰の自衛隊よりも警察機動隊の方がはるかに慣れているし、有能でもある。が、後者は出動が長びき、疲れきっているという事情があった。
 結局、自衛隊を使うにあたっての諸問題をクリアできないまま、いざとなれば自衛隊投入もあり得るとして、その窮極の手段は岸の肚のうちに残された。
 事実、「六月一四日ごろまでに、自衛隊は治安出動の準備をすっかり整えていた」(NHK取材班前掲)のであるが、岸はついに出動命令を下さなかった。
 岸は、樺美智子の死の夜、赤城宗徳防衛庁長官に、自衛隊に武器を持たせて出動させることの可否を問うている。赤城は、「出せません。自衛隊に武器を持たせて出動させれば力になるが、同胞同士で殺し合いになる可能性があります。そうなればこれが革命の導火線に利用されかねません」(岩見隆夫前掲)と答え、どうしてもというなら自分を罷免してからにしてくれ、と断った。
 六月十六日午後四時ごろ、岸は緊急閣議を開き、米大統領訪日延期を提案した。同日午前零時十八分からの臨時閣議では、米大統領訪日は滞りなく行なうとの決定をみていたから、閣僚のだれもが内心驚いた。と同時に、だれもが内心ほっとしたのである。
 かくして、米大統領訪日延期は正式に決定した。辞表を懐にして閣議に出席した赤城は、意外な結果に茫然として言葉もなかった。岸の退陣は時間の問題となった。

私は樺美智子さんが亡くなったということは、単純な一人の人間がなんかの関係で死んだということではなしに、警備力の最終的責任者として、デモを規則正しく行なわしめることができなかったという責任を感じました。だから警備ということを考えて、アイクの日本訪問を断わったんですが、(中略)近頃のデモをみると、(中略)国賓が来ても、飛行場からヘリコプターで連れてくるでしょう。当時はまずそういうことは考えなかったから、陛下御自身がお迎えに行かれなければいけない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理が本当に腹を切っても相済まない。それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って断わったんです。

岸信介・矢次一夫・伊藤隆前掲

 岸は後日、そのときの心情を吐露した。遅きに失した決断であった。とはいえ、アイク訪日中止はおのれの退陣につながるゆえ、決断の遅れたことは分からないではない。
 しかしながら、この重大な決断の際にも、米国政府の強力な働きかけがあったとする説がある。

アイク訪日の中止を決定づけたのは、CIAの東京の出先機関であった。アイクはそのときフィリピンまで来ていたが、訪日中止を説得するCIAの至急報がマニラ臨時ホワイトハウスに届き、アイクはこれを受け入れた。十日に入ってからマッカーサー大使とCIA代表とが岸首相を訪ね、日本側から招待を延期するよう要求したのであるという。

岩川隆前掲

 アイゼンハワー大統領のマニラ着は、六月十四日夕であるから、岩川の記述は時間的に合わない。また、マッカーサー大使は十六日、「「大統領の訪日は計画通りの実施を」/と打電した後、藤山外相からの連絡を受け、慌てて、/「臨時閣議で大統領の訪日延期決定」/と連絡した」(春名幹男前掲)のであるから、岩川の記述はここでも事実と合わない。しかし、CIAが何らかの形で関与したであろうことは、想像に難くない。
 別の説もある。小笠公韶おがさこうしょう官房副長官は、内閣官房で治安警備関係を担当していたが、「訪日中止は確かアメリカから延期が通告され、そうなったと記憶している。日本政府の閣議決定はアメリカからの通告を受けた形でなされたものだった」(岩見隆夫前掲)と語り、ハガティー事件が大きな影響を与えた、とその理由を述べた。
 真実がどちらにあるかは、いまとなっては解明することはできない。が、米国政府がハガティー事件以後、訪日に消極的になったことは確かである。
 岸はハガティー事件で、いわば外堀を埋められ、樺美智子殺害事件で内堀を埋められて、万事休したというのが、真相に近いのであろう。
 
 話は前後するが、岸は六月七日から九日にかけて、新聞各社の首脳部を首相官邸に招き、アイゼンハワー訪日の際の協力を要請した。
 マッカーサー大使も七日、報道機関の責任者と政治評論家を米大使館に招き、「大統領の訪日に対する妨害は共産主義にとっての勝利であると見なす、と警告し」(マイケル・シャラー前掲)て、協力を要請した。
 マッカーサー大使の警告は、存分に威力を発揮した。翌日からの新聞の論調は変化した。とりわけ投書欄は様変わりした。
 たとえば、毎日新聞の投書欄なぞ、「新安保成立させた方が得策」「米大統領の訪日をめぐる心配」「国内ゴタゴタこそ延期せよ」「国内政治とは切りはなそう」など、それまでとは百八十度異なる意見の投書を採用した。
「新聞は、みずから意識的にアイク訪日歓迎への方向に世論を操作しはじめた。新聞は、看板の中立性をみずからなげうった」(信夫清三郎前掲)のであるが、報道機関がある限界点に達すると、左に振れすぎた針を右に戻すのは、歴史が教えてくれる。
 さて、六〇年安保は国を二分する闘争だっただけに、本来なら決して明るみに出ることのない秘密が、陽の目にさらされた。

安定を促進する必要からCIAは、自民党の中でも、進歩的な国内政策に対する日本の有権者の要求によりよく応えることができると思われる「穏健な」分子に資金援助をすることにした。CIAはまた、(中略)民社党の西尾末広や他の穏健な社会主義者に対する援助を増大させた。CIAは、(中略)友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関に、安保反対者を批判させ、アメリカとの強固な結びつきの重要性を強調させた。そしてついには全学連の急進的な学生の動きを抑えるために、活動的な右翼のグループに資金を提供した。

マイケル・シャラー前掲

 唐突に米国寄りの論調に変貌した新聞、左翼のデモにあらん限りの暴力を振るった右翼。その背後にあったものを指摘されるとき、人々はようやく納得できるものを感ずるのである。
 シーザーは今際いまわに、「ブルータス、お前もか」と、ブルータスの名を叫ぶだけですんだ。日本の一般大衆は、「社会党よ、全国紙よ、自民党よ、民社党よ、右翼よ」と並べおいて、「お前もか」と叫ばねばならない。


 
 六月十六日、岸は、アイゼンハワー大統領訪日延期を発表した。そのあとは、新安保が自然成立するまで、泰然自若を装って待つしかなかった。
 同月十八日午後十二時を一秒でもすぎれば、岸の勝利は確定する。そのときまで、たかだか丸二日我慢すればいい。岸にとって、ゴールはもう見えていた。
 最後の日、十八日の夜の岸のありようは、すでに伝説化されている。

岸は国会周辺を含めて三〇万群衆が取り巻く首相官邸のなかでこの待望の「自然承認」を迎えるのである。このとき同官邸にこもっていた側近たちは、相変わらず打ち続くデモ隊の勢いを恐れるかのように、一人去りまた一人去り、ついには実弟佐藤栄作のみが、岸とともにあった。

原彬久前掲

警視総監の小倉(謙。筆者注)君がやって来て、とても十分な官邸警備ができないから、何か事が起ってからではいけない、別の所へ移ってくれと言う。しかし私は、ここが警備できないというなら、どこへ行けば安全なんだ、全力を尽しても、何か起ればそれはやむを得ないんだ、と言ったことを覚えている。その時弟(佐藤栄作。筆者注)がやって来て、とにかくしようがありません、兄さん、今晩ここで二人で死のうじゃありませんか、と言う。私もそうなれば二人で死んでもいいよ、と答えたんだ。

岸信介・矢次一夫・伊藤隆前掲

 じつに、ドラマティックな仕立てになっており、岸がふと後ろを見ると、佐藤栄作のほかにはだれもいなかったというのが伝説であるが、別の描写もある。
 

自然成立の瞬間、岸の表情はどうだったのか。小川半次によると、
「バリバリ、ドンドンという投石の音が聞こえた。岸さんは腕を組んで背筋をまっすぐ伸ばしたまま椅子に腰をかけ、一点を見つめていた。(中略)時計が十二時をさした時、僕は思わず立ちあがり、バーンと手をたたいて『ついにやった』と叫んだんだ。(中略)岸さんも久しぶりに出っ歯を出して『おい、みんなよかったなあ』と握手をした。気がついてみると七人しかいなかった。誰かが『七人の侍やなあ』というんで七人であったことを覚えているんだ」

岩見隆夫前掲

 一方は、岸と佐藤の二人が残っただけだったと言い、他方は、七人だったと言う。伝説というのは誇張されるのがつねであるゆえ、七人よりも兄弟二人の方が感動的ではある。いったい、どちらが正しいのか。少なくとも七人の侍には、死を想わせる悲壮感はない。それに七人のなかに、どういうわけか佐藤栄作がいない。
 さらに、岸と佐藤は二人して官邸で死ぬとは、具体的に何が起きると想像していたのか。ずっと後年、日本人は、東欧ルーマニアの独裁者チャウシェスクの悲惨な最期を見て、息を呑むが、岸は独裁者の末路といったものを脳裏に描いていたのであろうか。
 安保闘争に参じた人々のなかには、岸を殺せと叫んだ者もいるが、たいがいは、うまくいって新安保の廃棄、岸の退陣しか想定していなかったはずである。
 最も過激であった全学連主流派は、官邸内に突入して、岸を国民の前に引き摺り出す戦術を考えたろうか。もし、そういうことが起きれば、ランクは上がり、内乱の扱いを受ける。そうなれば、岸に危険が及ぶ前に、機動隊の暴力はさらに一層強まり、学生側は無慈悲に鎮圧されたに違いない。
 さらには、岸は退路を断たれたわけではない。「自然成立の少し前、岸の命令で福田赳夫、福家俊一の二人は、副総裁の大野伴睦、幹事長の川島正次郎らと連絡をとるため、官邸の秘密地下道を通って表へ出」(岩見隆夫前掲)て、赤坂プリンスホテルへ向かったという事実がある。
 いざとなれば、岸はいつでも脱出できたのである。しかしながら、岸、佐藤兄弟の英雄譚は、それが伝説と化しているゆえに、訂正することは不可能である。
 十九日午前零時、新安保は、参議院での審議をほとんどパスしたまま自然成立した。そのあと、両院における新地位協定(旧行政協定)の審議をともに省略し、二十日、諸々の法案を一挙に抜き打ち可決した。二十一日夜、臨時閣議を開かずに、いわゆる持ち回り閣議で新安保を批准。その夜のうちに天皇の認証を終えた。
 米国では、六月十四日、上院外交委員会が新安保を承認。二十二日、本会議で条約は批准された。
 二十三日、藤山外相とマッカーサー大使が会い、署名済みの条約文書を交換し、新安保は発効。同日、岸は、午前中の閣議で退陣を表明した。七月十五日、岸内閣総辞職。岸の首相の座にあること、三年五ヵ月であった。
 新安保第十条は、有効期限と廃棄手順を謳う。効力は十年間。その後、条約を終了させる意志を通告したときは、通告後一年で条約は終了する。つまり、最短で十一年間、効力は持続する。日本国政府は十年間経っても、終了させる意志を通告することなく現在に至っている。
 岸の後釜に座ったのは池田勇人であった。七月十九日、池田内閣成立。同年十一月、新安保成立後、初の総選挙で自民党が勝利し、議席増を果たした。社会党は民社党の分裂の後遺症を引き摺り、安保闘争の指導は票につながらなかった。
 安保闘争は、反対運動の火がいくら巨大に燃え上がろうと、為政者がその気になり、衆議院で法案を強引に可決してしまえば、とめる手立てのないことを明らかにした。
 選挙で鉄槌を下せれば、まだ救いはあるが、先に見たとおり、ひとたび選挙になると、おらが先生の落選することは滅多にない。
 新安保の自然成立ののち、あっという間に巨大な運動エネルギーは消えていった。政治の季節は経済のそれへと移ろい、国民は高度経済成長に酔い、選挙のたびごとに保守派は勝利した。二一世紀に入ると、左翼勢力の退潮は釣瓶落としとなり、米国への隷従はより一層進んだ。

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