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君何処にか去る 第五章(1)

第五章 転向


 
 夕闇が迫ってきた。一頻りさえずった鳥の啼き声がいつしかやんで、風向きのせいであろうか下界の音が静まったように感じる。俊雄は、空になった二本のワインボトルを見るともなく見る。無明の、三本目を早く開けよとの素振りが露骨である。
(ワインをまた買ってこいと言い出したら厄介だな)
 俊雄は、ワインオープナーを無明の方に押しやった。無明はあたかも当然であるかのように受け取り、器用な手つきで開けにかかった。小気味のよい音を立ててコルクを引き抜く。
「急に静かになった。いつもこうなのか」
周囲の静寂が一気に拡大した。
「うむ」
「観光客が夜景を眺めようと、大勢で押しかける図を想像したが……」
「その想像はことさら間違いではない。ただし、ロープウェイの駅はずっと東南にあるのだ。ここは、登山道からもけっこう離れている」
「すなわち、然るべき場所ではすでに喧噪がはじまっており、ここは逆にますます静かになってゆくの図だな」
「そのとおり。客のなかには、日没前から待ちかまえる者もいる。光の織りなす幻想交響曲がいかにしてはじまり、いかにしてクライマックスに達するかを知っておきたいらしい。話の種にはなるが、ご苦労なことだ。わが山門からでも夜景は楽しめる。俊雄さん、行って眺めてくるか」
「やめておく。こんな酔っ払った状態で出歩くなんぞ、いわゆる暴虎馮河ぼうこひょうがの勇というやつだ」
「違いない。じつは、儂は山頂から夜景を眺めたことはない」
「おやおや。ネイティブとはそんなものかな」
「儂はネイティブではない」
「一所不住だったな。わたしは、明晩にでも夜景を楽しむことにする。最初で最後の機会だろうからな」
「宿はいつでも提供する」
「意外に親切なのだな。二晩も泊まっていいのか」
「かまわぬ。明日の夕刻、おたくをロープウェイの駅まで案内してやる。おたくは夜景を見たあと、ここへ帰ってくればよい」
「そうしよう。おたくはわざわざ娑婆に下りて、折り返しここに戻ることになるが」
「儂のことは気にかけるな。娑婆に下りたら下りたで、やることがいっぱいある」
「おたくが重い荷物を気にしないのであれば、ワイン三本を進呈する。ここに二泊もするのだ。それぐらいしないとな」
「ありがたい。遠慮なくいただく」
「いい思い出になりそうだ」
「黒川俊雄さまご一行、龍仁寺ホテル特別室に二晩ご宿泊の図だな」
 無明が珍しく冗談を飛ばした。
「無明さん、おたくでもそんな軽口を……」
「そうだ。儂とて、いつも不機嫌に押し黙って、世を呪詛(じゅそ)しているわけではない」
「しかし、世間のルールからはみ出してしまうと、生き方としては楽だな」
「儂は、はみ出したとは思わぬ」
 そう言いながらも、無明の表情かおは肯定している。
「無明さん、わたしは少しく酔ったようだ」 
 続けざまにしゃっくりが出る。俊雄の胃袋が危険信号を発した。
「横になるか」
「否。昼間と同じていたらくではいかにも情けない」
「無理をするな。水を持ってきてやる」
「とんでもない。わたしが行く」
 俊雄は立ち上がろうとして、ふらついた。
「座っておれ。こういうとき、狭い庵は便利なのだ」
 無明は身軽に立ち上がって、台所へ行く。酔いを感じさせい身の動きであった。俊雄はコップを受け取ると、一気に飲み干した。
「美味い。ワインよりも水の方が美味いとは、これ如何に」
「一般的には、美味い水を飲むためにワインを飲むのだ。おたくはもう飲むな。残りは儂が片づける。ところで、何の話をしていた」
「夜景だ。明晩の夜景までにはたっぷり時間がある。その間、わたしは観光地を巡ってくる。まずは五稜郭だろうな」
「うむ。路面電車を利用するといい。どこへでも行ける。安いし、あれでけっこう早い」
「そうしよう。トラピスチヌ修道院へも足を伸ばしたい。しかし、地図で見る限り、路面電車はそこまでは行っていないようだな」
「うむ。湯ノ川温泉で終わりだ。そこからは、徒歩かバスで行くしかないな。トラピスチヌ修道院は修道女の館だ。儂は行ったことがない」
「修道女の館というからには、修道僧の館もあるのか」
「ある」
「はてな。本当にあるのか。地図にはないぞ」
「ちょいと離れているのだ。江差えさし線に渡島おしま当別とうべつ(現北斗ほくと市)という駅がある。函館駅から四、五十分のところだ。その渡島当別駅で降りて、徒歩半時間」
「おたくは、他人を歩かすのが趣味らしいな。三十分程度は、歩くうちに入らぬのだろう」
「うむ。儂は、片道二時間の距離なら歩いて行く。それ以上かかるのならば、諦める」
「分かった、分かった。三十分も歩けば、男子修道院に行き当たるのだな」
「うむ。トラピスト修道院だ。どうせ内部には入れぬ。入れてくれと駄々を捏ねても無益だ。修道院でクッキーを作っているから、それでも買って自棄やけ食いせよ」
「なにゆえ、わたしが自棄食いせねばならぬのだ。修道僧の静謐せいひつを邪魔をするのだ。すまんこってすと頭を下げるのが礼儀というものだ。そのあとで、クッキーをばりばり食べるについては、いささかの逡巡もない」
「勝手にしろ」
 無明は大きな欠伸をした。自分のコップにワインを注ぐ。最後の一本の中身が三分して一に減った。


 
「俊雄さん、おたくは阪本勝さかもとまさるを知ってるか」
「おたくの話題は、あちこちに飛ぶのだな。ずっと昔、兵庫県知事をやった人じゃなかったかな。たしか、知事は二期八年で辞するべきだとして、三期目の知事選には出馬しなかった。当時、あの清新さは国民を魅了した」
「うむ。文人知事として名高かった。にもかかわらず、翌年の都知事選に革新統一候補として立候補した。東京オリンピックの前年だ。あの都知事選は受けるべきではなかった」
「相手が現職知事の、……何と言ったっけ」
あずま龍太郎りょうたろう
「そうそう。たしか医者だったな。その東龍太郎に敗れたのだ。都民としては、兵庫県知事から都知事への横滑りは、面白くなかったのだろうな」
「うむ。阪本勝は、仙台の旧制二高在校時、トラピスト修道院で一ヵ月、瞑想の暮らしをおくった」
「何だ、そういうつながりか。旧制高校生は、人生いかに生きるべきかを真剣に考えた。阪本勝の修道院体験もその流れにあるのだな。いつのことだ」
「一九一九年十月。大正の半ばだ。津軽海峡沿いの磯道を馬車にゆられて行ったとある。『流氷の記』の冒頭だ。一生を回顧した良書だ。あそこにある」
 無明は後ろの書架の上の方を指さした。
「北海道の人里離れた修道院か。ロマンティックではあるな」
「本人は、もう一回行っているのだ。亡くなる七、八年前だ。そのときは半年、滞在した。トラピスト修道院は、阪本勝の精神形成に大きな役割を果たしたのだろうな」
「ふうむ。その修道院にますます行きたくなった。旧制高校生と言えば、連中の学識の深さには、ほとほと恐れ入る。漢文も外国語も自家薬籠中のものにしている。阪本勝の『流氷の記』も、博覧強記はくらんきょうきに溢れているのだろうな」
「うむ。文句なしに凄い。とうてい太刀打ちできぬ」
「当時、あの人たちの憧れの国はフランスだった。トラピスチヌは厳律げんりつシトー修道会と観光パンフに書いてある。これはフランス系だろう。無明さん、阪本勝はトラピスト修道院内では、フランス語で会話したのではないか」
「おそらく」
「革新統一候補というからには、左翼だが……」
「うむ。阪本勝は若いときはカトリックに惹かれ、政治的には左だった。この国を破滅に導いた超国家主義者とは逆の立場にいた。しかし、戦後、公職追放を受けている。このあたりは、微妙なのだ。あのころは、政敵を失脚させようと思えば、GHQに陳情すればよかった」
「ううむ。一般的な見方をすれば、左ではなくなっていたのかも知れぬ。みずからの意志でマルクス主義から離れたのか、強制によるのか……。転向の問題がついて回るのだろうな」
「俊雄さん、転向と言っても、たとえば、島木健作のように一介の農民文学者になるのか、木下尚江のように社会主義から離れて、キリスト教の博愛主義のもと、政治活動を続けるのか、林房雄のようにかつての敵の陣営に属して国家主義の旗を振るのか、さまざまな例がある。いずれにせよ、この国では、大政翼賛会的なものに抗するのは不可能に近い」
「そのとおりだ。現在でも、地域の町内会、町会、自治会等々に叛逆すると、村八分にされる。無明さん、その点は昔とちっとも変わっとらんよ」
「儂は前も言った。転向なんぞに囚われるべきではないとな。各人がおのれの魂の内部で解決すればいいのだ。非転向を貫いたからといって、無謬性を担保できるものではない」
「おたくは、共産党のかつての悪しき暴力主義を言っているのか」
「うむ。党中央の命令に絶対的に服従するなんぞ、自分たちが批判した軍国主義と大して変わらぬではないか」
「いま、時代が変わり、若い連中は言うことを聞かなくなった。これは、じつにいいことだ」
「一面ではな。つまり、最後まで言うことを聞かないのならば、これほど喜ばしいことはない。しかし、この国では、最後まで頑張れば潰される。あるいは病気になって死ぬ」
「無明さん、おたくは、世捨て人なのか否か、よく分からぬところがあるな。世捨て人ならば、この国のありようやら、将来やらに関心を持たぬ。捨て切るってのは、よほど難しいことらしいな」
「うむ。難しいのだ。極めてな」
 無明の声が小さくなった。
(こんな調子で話はどこへ行くことやら……)
 俊雄は、まるで人の一生の聞き取りをしているような錯覚を覚えた。
 

 
「ところで、無明さん。地図に、青函連絡船殉職者慰霊碑というのがあった。この函館山に立っているのだな」
「うむ。登山道路が、ロープウェイの駅近くからはじまるのだ。そいつをちょいと登ったところにある。もともとは、戦時中に殉職した人たちの慰霊のために建立された。一九五三年のことだ。その翌年、洞爺丸遭難事故が起きたから合祀された。洞爺丸のことは憶えているな」
「もちろんだ。何とか浜という地名も当座は憶えていた」
七重浜ななえはま(現北斗市)だ。江差線に同名の駅がある。函館駅から二駅目だ。そこで降りて半時間も歩けば、海側に台風海難者慰霊之碑というのがある」
「また半時間かね。明日一日では、とうてい回り切れそうもないな」
「心配するな。何日でも泊めてやる。台風海難者慰霊之碑とは、いわゆる洞爺丸慰霊碑だ。そこから、津軽海峡を挟んだ対岸の本州最北端、下北半島が意外に近くに見える。穏やかな海だ。乗員乗客千三百人余のうち、助かったのが百八十人余という大海難事故が、どうしてこんなところでと思わずにいられぬ。水上勉の推理小説『飢餓海峡』のなかに、この海難事件が巧みに織り込まれている。洞爺丸を層雲丸にしたり、海難を敗戦二年後にしたり、状況を変えてはいるが、大惨事の臨場感をよく伝えている」
「映画にもなったのだったな。あの洞爺丸台風はすさまじかった。事故の因は、船長の判断ミスにされた。あれは気の毒だった」
「うむ。死屍に鞭うつというやつだ。チェルノブイリの原発事故でも、その因は運転員の操作ミスにされた。古今東西、不条理なことばかりだ。不条理を押しつけるのは窮極のわるどもで、そいつらは必ず逃げおおせる。洞爺丸事故は一九五四年に起きた。その五年後が伊勢湾台風大災害だ」
「無明さん、伊勢湾台風のことは、昨日のごとくに憶えているよ。愛知県と三重県が滅茶苦茶にされた。わたしの住む名古屋市でも、南部が壊滅的打撃を受けた。あの大災害は、洞爺丸事故の五年後だったのか」
「おたくは知らなかったか。洞爺丸台風とは、一九五四年九月二十一日に発生した台風十五号だ。伊勢湾台風は、一九五九年九月二十一日に発生した台風十五号だ。二つの台風十五号が九月二十六日に悪さをした。すなわち、ちょうど五年を経て悪夢が繰り返されたのだ」
「愕いたね。知らなかったよ。考えてみれば、この国は災害だらけだな。戦災で焼け野原になり、次いで地震、津波、台風、高潮、噴火、大火事と、災害の目白押しだ」
「おたくに対しては釈迦に説法と相成るが、『方丈記ほうじょうき』に、處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人ひとり二人ふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方いづかたより来りて、何方いづかたへか去る、とあるな」
「また知らず、假の宿やどり、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人あるじ住家すみかと、無常を争ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし……。鴨長明かものちょうめいは名文家だ」
「俊雄さん、さすがはその道の専門家だ」
「別に誇るわけではないが、わたしは全文を暗唱できる」
「脱帽。それでこそプロだ」
「ところで、無明さん。同じ時同じ所にいて、Aは津波に巻き込まれ、Bは辛うじて生き延びる。これはなにゆえか。しかも、AがBよりも善人だったりするのだ。おたくの言う天地創造の神は選り好みをするのか。さすれば、その選択基準は如何」
「人間の浅知恵で何が分かる。分からぬことは考えるな。考えるだけ無駄だ」
「無明さん、もっと気の利いた答えが返ってくると思った」
「儂は、分からぬものは分からぬと言うだけだ」
「そう言いながら、おたくは答えを持っている」
「俊雄さん、天地を創造するほどの神だ。すべては必然。加えて、神の上にはまた神がいる。その上にも神がいるのかもしれない。ニーチェが高らかに死亡宣告した神とは、いずれの段階の神を指すのだ。人間の浅知恵では何一つ分からぬことが、これだけでも分かるだろう」
「待ってくれ、無明さん。それはまことか」
「儂は知らぬ。一文不知いちもんふちがこの儂だ」
「一文不知とは、蓮如れんにょ上人のあれか」
「うむ。それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世ごせをしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり……。蓮如上人の御文おふみのなかの一節だ。一文不知の尼入道なりというとも、後世を知る。儂は知らぬ」
「また、無明さんに巧く逃げられた。この世のなかはすべて必然。偶然は一つもないのだな」
「神の世界に偶然はない。儂ら人間の世界は偶然だらけだ」
「ああ、無明さん。禅問答では衆生済度はできない」
「儂は、そんな畏れ多いことを考えたこともない」
 ワインは、いよいよもって残り少なくなった。
「無明さん、予め断っておくが、今宵のワインはこれにて打ち止めだ」
 俊雄は無慈悲に宣告した。
「分かっている。案ずるな。残りは嘗めるようにして呑む。」
 無明の顔が綻び、邪気のなさが零れ出た。


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