【エッセー】回想暫し 17 昭和の妖怪(1)
一
歴史を振り返るとき、同時代人ならば、AならAという人物を評価するにあたって、点数に迷いはあっても、合格か不合格かの判断にさほどの困難は感じないであろう。が、世代が後ろに行けば行くほど、Aの合否判定は難しくなる。
加えて、歴史の改竄が跡を絶たない。極端な場合、史上最低の宰相Aを史上最高のそれと臆面もなく持ち上げたりする。改竄の影響が社会に浸透すると、時代を同じくした人なら、Aが史上最高の宰相と聞いて、
「冗談じゃない。いったい、だれがそんな莫迦なことを言った」
と笑い飛ばす場面で、若い世代の人間から、
「Aは世に言われるほど悪いやつではなかったらしいですよ」
などと、反論されたりする。
その好例が岸信介である。六〇年安保のあの壮大な反対運動から六十年余、岸の死からでも三十年余を経た現在でも、棺を蓋いて事定まったかと言えば、どうもそうとは言えない奇妙な状況がある。
岸の生涯を叙述した岩川隆『巨魁 岸信介研究』、岩見隆夫『昭和の妖怪 岸信介』、原彬久『岸信介 ─権勢の政治家─』などは、いずれも岸信介を否定的に評価しつつ、肯定的にも評価している。
六〇年安保のとき、岩川隆は取材記者としてデモの現場におり、自身も、首相官邸の前に座って安保反対を叫んでいたという。その岩川は前掲書エピローグの末尾に、
と書き、岸を必ずしも否定していない。毎日新聞にいた岩見隆夫は、前掲書のあとがきと同書の文庫版のためのあとがきに、それぞれ、
と記し、岸に対する好悪の情のうち「好」が三分の一、「悪」が三分の二と記すものの、是々非々で是の部分を高く評価している。
原彬久は、一年半、二十数回に及ぶインタヴューを通して岸の実像に迫った。前掲書エピローグとあとがきに、それぞれ、
と書いて、これまた岸への思いを愛憎半ばさせている。三著者のうち、後二者は岸にインタヴューしていることもあり、礼儀として岸を酷評できない立場にあった。それは理解できるにしても、六〇年安保闘争時、岸信介に対する毀誉褒貶のうち、どこに誉褒すべきものがあったろうか。毀貶ばかりではなかったか。
なぜそうだったのかと言えば、不都合なことのすべてが岸自身の撒いた種だったからで、岸に対する再評価の動きには、性懲りもなくまたかの思いを禁じ得ない。
二
一九五五年八月、鳩山内閣の重光葵外相は渡米し、ダレス国務長官と会談した。この折り、重光は安保条約の改定を切り出した。一九五一年九月、サンフランシスコ講和条約締結と同時に調印された安保条約(以下、「旧安保」と略称)は、日本が米軍に基地を提供するにもかかわらず、米軍には日本防衛の義務が課されていない点や条約期限が設けられていない点など、米軍の占領下治外法権の残滓を色濃く引き摺る不平等性に満ちていた。重光は、これを対等のものに改定するべく問題提起したのである。
ダレス長官は黙って聞いていたが、やおら反撃に転じ、
「日本の防衛能力は貧弱なうえ、海外派兵を許さない日本国憲法のもとで、いざというとき、日本がいかにして米国の防衛に参与できるというのか。米国本土と言わないまでも、グアムが危機に陥ったとき、日本は駆けつけてくれるのかね」
と、重光の論を一蹴した。
民主党幹事長としてその場に同席した岸は、重光の主張が一顧だにされなかったという両国の力関係を目の当たりにした。岸の脳裏に、自国の防衛力増強と海外派兵を可能にする改憲が深く刻み込まれた。岸は死ぬまで改憲、つまりは憲法の改悪に執念を燃やした。
日本国民は、しかしながら、米国との双務的安保を望んでいなかった。国民の素朴な感情は、もう戦争はこりごりに尽きた。日本の防衛力が増強され、海外派兵が可能になるならば、戦前、戦時のあの日本軍、あのひたすら威張り散らした軍人たちの復活に道を開くのは自明である。
この一九五五年は、社会党左派と右派が統一を果たし、それを追うように民主、自由両党も保守合同に踏み切った年として一般に記憶される。いわゆる五五年体制のはじまりである。
ちなみに、同年は、共産党が第六回全国協議会(六全協)を開催し、同党が暴力革命路線を放棄した年としても知られる。武装闘争に携わった学生党員がいわば梯子を外され、抗議も反駁も許されなかったことから、既成左翼の腐敗と決別して、新左翼運動へ向かってゆくことになった年でもあった。
さて、六〇年安保のもう一つの問題点は、日本人が一億総懺悔なる曖昧な形で、戦争遂行者の責任追及を等閑にしたことと深く関わり、岸信介による安保改定を通して戦前、戦時の亡霊と否応なく対峙させられたことである。
岸は、日本を戦争へと導いた東条戦時内閣の商工相、のち国務相兼軍需次官であった。戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズン(拘置所)に収容されたが、一九四八年十二月、東条英機らA級戦犯七人が処刑された翌日に釈放された。
首相の東条をはじめ、書記官長星野直樹、外相東郷茂徳、蔵相賀屋興宣ら、東条内閣の主立った面々が起訴されたにもかかわらず、なぜ国務相兼軍需次官の岸は不起訴処分となったのか。
その岸が巣鴨出所後、わずか八年余で総理大臣の職を襲い、安保条約改定に狂奔した。国民にとっては、まさしく悪夢の再現であった。戦犯がいままた国政を壟断していると。国民が岸に対して異議を申し立てたのは、ゆえないことではない。
一九六〇年五月十九日、岸は衆院で単独採決を強行した。なにゆえ暴挙に走ったのかと言えば、アイゼンハワー米大統領の訪日が六月十九日に予定されていたからである。衆院通過後、参院で議決がなくても三十日後には条約は自然成立する。日本を訪れたアイゼンハワーに、胸を張って新安保条約批准を報告するには、五月十九日がタイムリミットであった。
岸は米国の意向しか忖度しなかった。そもそも、岸をめぐるさまざまな逸話は、どれもこれも清潔さに欠けた。岸の金権体質は、生得的と評しても過言ではない。
岸関連の書籍には、岸のこの政治観が必ず出てくる。巣鴨出所から保守合同のなるまでの七年余の間、おそらくは一九五三年三月の総選挙前後に語られた台詞であろう。マックス・ウェーバー流に言うと、政治とは悪魔の力と契約を結ぶことゆえ、岸の言う政治の力学はごく常識的であると言えなくはない。
岸は、おれは政治の本質をよく知っているぞとばかりに、金を集めること、および集めた金をふんだんに使うことに躊躇しなかった。「巨額のカネを動かして人脈と権力を培養し、人脈と権力を動かしてカネを集めるという手法は、紛れもなく岸のものだった」(原彬久前掲)のである。
一九五六年の暮れ、岸は、保守合同のなった自民党初回の総裁選に立候補した。この選挙に際して札束が乱れ飛び、いわゆる金権政治の走りとなった。岸には金の話がつねについて回る。
後年、岸の跡を襲うことになる池田勇人は、「政治というものは数であり、数は金の力だ、というような金権政治の岸内閣には絶対に入らない」(岩川隆前掲)と入閣拒絶を公言していた。のちに、池田の次期首相が視野に入った段階で、岸への協力を惜しまなくなるが。
三
岸は、一九三六年から三九年までの在満三年余、産業開発五ヵ年計画の実施に辣腕を振るった。すでに計画立案の段階から関与していたゆえ、岸の満州国政府入りには満を持しての感がある。左遷といった暗い空気は微塵もなかった。
このころと言えば、一九三六年には二・二六事件、翌三七年には蘆溝橋事件が勃発している。日本国内は戦時色に蔽われ、満州も同色に染まりつつあった。
岸は、満州で具体的に何をしたか。泣く子も黙る関東軍を味方につけ、その強権をバックに経済、産業の統制を果敢に進めた。その内実は、満州物資の一切合切を接収し、それらによる収益を最も効率的に日本の産業向けに投資した。岸の在満中、満州国建国の理想たる王道楽土や五族協和は限りなく色褪せていった。が、そんな見せかけのスローガンなぞ、岸の関知するところではなかった。
満州一国を動かす巨大な事業ゆえ、資金はいくらあっても足りない。岸の果たした役割のなかで、特筆すべきは日本産業(日産)の満州誘致であろう。
鮎川義介の率いる日産は新興財閥として、三菱、三井に次ぐ一大コンツェルンをなしており、傘下に日立製作所、日産自動車、日本鉱業、日本科学工業など、錚々たる有力企業が目白押し。戦後、日産の名を残すのは日産自動車だけとなるが、いまなお旧日産グループは健在である。
関東軍は財閥を嫌った。経営能力では自分たちに勝ち目はない。みすみす利益の上前をはねられるのは目に見えている。それゆえ、関東軍は財閥を満州に入れず、南満州鉄道(満鉄)と一業一社の特殊会社とによって、開発を進めた。
だが、国家的見地から産業政策をドラスティックに推進するには、およそ不向きな方式だったことは、関東軍も認めるところで、総合的開発方式の採用は時代の要請であり、全産業に号令をかけ得る新興財閥日産の力量がクローズアップされたのである。
岸はこの折り、関東軍の頑迷な考えを払いのけ、日産の満州進出を納得させた。返す刀で、日産の総帥鮎川を説得して満州重工業開発(特殊会社。以下、「満業」と略。満重とも称される)を創設させた。
さらには、満鉄に引導を渡し、多くの既得権を満業に移管させることにも精力を傾けた。ときの満鉄総裁は松岡洋右。日本の国際連盟脱退の際の主席全権であった。
満業については、企画段階で石原莞爾、実施段階で岸の役割が重要であったとされるが、何から何まで岸の功というわけではない。当時、巷で口にされた「二キ三スケ」がそれぞれの役割を果たし、その結果が満業創立となって現われたと言うべきであろう。
二キの東条英機と星野直樹は、前者が憲兵隊司令官から参謀長へと昇進した満州きっての実力者、後者は満州国総務庁長官として行政のトップにあった。星野は、大蔵省の気鋭の部下たちを引き連れて、国の体制すら整っていなかった満州に乗り込み、国づくりの基礎を固めた。
三スケのうち岸信介は総務庁次長。役所のことゆえ、上司の星野の全面的支援がなければ、いかに岸とて功を挙げられるはずがない。鮎川義介と松岡洋右は、前者が日産コンツェルンの創始者で、岸とは縁戚の関係にあり、後者は満鉄総裁で岸とは親類の間柄。しかも、三スケは長州出身、鮎川と松岡は互いによく知る間柄であった。
明治維新以降、男子たるもの、過度とも言える立身出世欲に囚われたのは、ひとり長州人に限らないが、権力に近づくにおいて、出自が長州、すなわち陸軍の中枢を握った長州の出身というのは、何かにつけて有利に働いたのは間違いない。
長州人の岸は人脈と運に恵まれた。それに、「頭の回転の速さと、相手に付け入る隙を与えない物事の運び方の上手さには誰しもが舌を巻き、その実力は認めざるを得なかった」(太田尚樹『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』)と評される本人の力量もあって、満州を日本の戦争勝利のための前進基地に大改造しようとする試みは成功した。岸以外の人間にはとうていなし得なかった大事業だったと言われる所以である。
統制経済のエキスパート岸は、当該政策を遮二無二推進することにより、満州人に塗炭の苦しみをなめさせた。元満州国皇帝溥儀は、極東軍事裁判のキーナン主席検事に問われて、次のように答えている。
この結果、綿や綿布を入手できなくなった中国人は、冬になると、凍死や病気に直撃された。岸の功とされるものは、こういった悲惨な出来事の集積である。
中国は清国の時代、欽差大臣林則徐が、英国人が広東に持ち込んだアヘンを焼き捨てさせ、英国によるアヘン密輸を果断に取り締まった。が、彼我の武力の差は如何ともし難い。英国艦船による怒濤の攻撃を受けて、林の壮挙は虚しく潰える。このいわゆるアヘン戦争以降、中国国内でのアヘン吸飲は野放し状態となり、ついには中国人の半分はアヘンを吸うと言われるほどの惨状を呈した。
日本の傀儡満州国政府は当初、アヘン断禁政策をとり、栽培の縮小、専売制の採用、益金のアヘン断禁政策への投入という対策システムを構築したが、「実態はむしろアヘン吸煙・麻薬使用を公認し拡大するものであった」(江口圭一『日中アヘン戦争』)し、その後の日中戦争がそんな対策システムなぞを木っ端微塵に吹き飛ばした。
戦争するには莫大な金が要る。満州国政府は、アヘン専売によって巨額の利を得た。一般的に、価格は需要と供給の関係で定まるが、アヘンの場合、需要の下落は起こらず、供給は専売者に限定されるゆえ、価格のつり上げはいくらでも可能である。アヘンは関税に次ぐ満州国の主要財源となった。いかように取り繕うと、これは国家による重大な犯罪である。
尤も、アヘンをめぐる国家的犯罪においては、証拠となるものが残されるはずはなく、関係書類はすべて灰になったであろうし、数多くの証言が残されているものの、その真偽を判断する手立てはない。
岸信介の下には古海忠之(大蔵省出身。総務庁主計処長。のち、経済部次長、総務庁次長を歴任)がいて、里見甫(里見機関を率いてアヘン密売を取り仕切る)や甘粕正彦(いわゆる甘粕事件の首謀者。関東大震災下、陸軍憲兵大尉として、無政府主義者大杉栄、伊藤野江らを殺害。出所後、満州での諜報諜略活動に携わる)らが実働部隊のトップとされる。古海は、次の証言を残している。
古海のこの言は岸を庇ったのであろう。岸が、信頼する部下の古海がアヘンと深いかかわりを持ったことを知らないはずがない。他の論者も以下のごとく岸とアヘンの関わりを否定していない。
アヘンに関する証拠不足は歯痒いくらいで、証言はあれども、事実か否かすらも断定できない。いったん歴史の闇のなかに消えてしまった事件に光の当たることはまずない。
四
肥後細川家の第十七代当主細川護貞は、第二次近衛内閣で首相秘書官の任に就いたとき、高松宮に情報を上げる役割を務めた。役目がら戦時中の各界動向に精通していたから、そのメモ、いわゆる『細川日記』は、昭和史一時期を知る資料として貴重である。同日記の一九四四年九月四日の項に驚愕の事実が記載されている。
伊沢多喜男は枢密顧問官。元内務官僚。鮎川は鮎川義介。星野は星野直樹。藤原は実業家の藤原銀次郎、当時国務相であった。
この短い細川メモのなかで、二キ三スケのうち三人、内閣は東条内閣であるから、東条も加えると四人が、金に関わって登場するところなぞ、満州人脈がアヘンによる巨額の金をもとに、本国の政治においても多大の影響力を振るったことは自明であろう。
在満時の岸と東条は、持ちつ持たれつの関係にあり、岸は金を、東条は力を持っていた。両人の帰国後も、その関係に変化はなかった。岸の順調な昇進の裏には、東条の力があり、東条の権力掌握の蔭には、岸の金があった。岸と東条については岩見隆夫が次のように記している。
細川メモにある二人の利益分配云々の二人がだれを指すかは、短い文章からでは特定しにくい。鮎川・星野間を指すように読めるが、二人の対立で内閣瓦解ともなれば、岸・東条間と読んだ方がよさそうである。
細川メモは噂話の集積である。噂は所詮、噂であるが、火のないところに煙は立たない。東条内閣の崩壊は、東条と岸の戦争の処理をめぐる対立がもとになったと言われるが、その根っこにはもっと生臭い金の問題があった。金の切れ目が縁の切れ目。藤原ならずとも目を丸くするしかない。
当時の一億円が現代ではいかほどかは、説によって相当な開きがあり、一千倍というのもあれば、五千倍というのもある。前者なら一千億円、後者なら五千億円。岸はこんな巨額の金をいかにして手に入れ、いかなる手段で日本に運び込んだのか。
当時、実弟の佐藤栄作が、鉄道省から華中鉄道(上海)設立のため出向しており、佐藤が運んだという説があるが、真相は究め難い。細川メモ同年十月十六日の項には、さらにアヘンに関わる記述もある。
川崎豊は帝国火災取締役。当時の東条の金遣いの荒さは、すこぶる噂になっていたようで、その前日のメモには、東条が秩父宮および高松宮に車を秘かに献上したことをはじめ、各方面へ土産や贈り物などをした記載がある。
金子伯というのは、金子堅太郎伯爵のこと。一九四二年五月、同伯の病が重くなったとき、「日々百人前の寿司と、おびたゞしき菓子、薬品等を、東条より届けたりと」とある。
満州人脈と金およびアヘンの結びつきは、情報が集まった細川ばかりでなく、政財官界のかなりの範囲で知られていたようである。岸自身は後年、次のように回想している。
茂木久平は、満州映画協会(満映)東京支社長をしていた。甘粕正彦が満映理事長で、茂木に東京支社長のポストを与えたという経緯がある。甘粕と茂木には深いつながりがあり、甘粕と里見はアヘンに関わり、岸は甘粕を知っている。岸は茂木を通じて里見を知り、茂木に頼まれて里見の墓石に刻まれることになる「里見家之霊位」の文字を書いた。いったい、これらは何を意味するのか。
岸が満州で里見に会ったことがないと言うのは、本当であろうか。生身の里見に会ったことはなくても、巨額の金が里見および甘粕を経て満州国政府に流れ込んだ事実からして、岸と里見の間には深いつながりがあったと見ていい。
アヘンの生産、販売というブラックビジネスは、当時もいまも巨利を生み出す。しかも、あらゆることが表に出ないだけに、だれがいかほど巨額のブラックマネーを懐にしたかは、皆目分からない。江口圭一前掲書は、
と、日中戦争時、この汚いビジネスを遂行したのは、日本国家そのものであったと断罪している。具体的には、日本国家の柱石に列なる人々がそれを行なったのである。
満州を去るにあたって、岸は二つの名言を残した。一つは濾過器。武藤富男(東京地裁判事。のち、渡満し、総務庁弘報処長などを歴任。戦後、明治学院院長)ら数人の後輩が岸を送る会をもった。このとき、岸が本音の一端を洩らした。
いまふうに言えば、マネーロンダリング(資金洗浄)ということになろうか。集めた巨額の金がいくら問題になっても、濾過器を通してきれいになった金であれば、政治家にまで責任は及ばぬゆえ、岸は、政治家になる気があるならば、収賄であろうと何であろうと、恐れずにどんどんやれと言いたかったようである。
これを聞いて、武富は自分は政治家になれぬと思ったと書いている。なかには、そんなことは言われぬでも知っているという顔つきをした同僚もいたらしい。
現実の政治の世界で、岸は、インドネシアに対する賠償や日韓問題など、金をめぐる黒い噂にしばしばつきまとわれた。賠償、借款等々、名目はともあれ、他国へ巨額の金が動くとき、関係した政治家にリベートのあることは、常識である。
性能のよい濾過器のある限り、有能な政治家は危機を逃れ得る。機を見るに敏、あらゆる面でそつがない岸は、その都度、危機を切り抜けている。もう一つの名言は、岸が記者団に語った「作品」なる言葉。
岸が大言壮語したのは、「第二松花江に築いた東洋一の規模を誇る豊満ダム、鴨緑江水電、露天掘りの撫順炭坑、鞍山製鉄所、満重、昭和製鋼所、満州浅野セメント、満州住友金属、満州沖電気など、直接、間接に岸が育てた施設や工場が目白押し」(太田尚樹前掲)といった成果を背に快い達成感に満たされたゆえであろう。武藤富男は、岸の「作品」云々には次のように批判的である。
日本の敗戦直前の一九四五年八月九日、ソ連は日本に対して宣戦布告した。待機中のソ連軍はいっせいに国境を突破し、満州に雪崩れ込んだ。
甘粕正彦は、「最後の職場となった満映の全職員に退職金を渡した上、貨車の手当までして満州を脱出させ、自らは服毒自殺した」(佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』)。
人の将に死なんとするや、その言や善しという。その行ないについても同然であろう。甘粕の最後の行為がアヘンに関わる犯罪を帳消しにするものではないが、その潔さは見事である。岸にその種のものがあるのだろうか。
在満三年、大いに功を挙げた岸は、商工次官として本国に呼び戻された。華麗なる帰任であった。
五
岸は戦犯として逮捕されたとき、山口県熊毛郡田布施町の自宅にいた。逮捕に出向いた山口県特高課長、小山進太郎は、「閣下、無念であります」(岩川隆前掲)と、郷土の英雄を捕えなければならぬ不運を嘆き、涙を流した。
岸の一高時代の恩師、同郷で、元一高校長の杉俊介は、「惜名」と題して岸に歌を贈った。
二つなき命にかへて惜しけるは
千歳に朽ちぬ名にこそあれ
岸の返歌は、
名にかへてこのみいくさの正しさを
来世までも語り伝へん
というのであった。(岩川隆前掲)
杉は命よりも名を惜しめと言い、岸は、自分たちは毫も間違ったことをしていないと、名を惜しむというような形而上的な事柄にいささかも関心を示さなかった。
A級戦犯容疑の岸信介はなぜ起訴を免れたのか。この謎はいまだに解明されていない。柴田哲孝『下山事件 最後の証言』に、佐藤栄作と矢板機関との関わりを示す記述がある。一九四七年暮れか翌一九四八年正月ごろ、当時運輸次官だった佐藤栄作が、A級戦犯容疑者岸信介の救済を頼むため、ライカビルに矢板玄を訪れた。
矢板は戦後、東京都中央区日本橋室町、三越本店近くにあるライカビル(戦前からカメラのライカを扱うシュミット商会が一階に入っていたので、この名がある)に事務所を持っていた。亜細亜産業という紙パルプ製造販売を営業種目とする会社を経営し、この事務所には鹿地亘事件で実体を現わした米軍諜報機関のキャノン中佐やビクター・松井准尉らが出入りしていた。
鹿地事件とは、作家の鹿地亘がキャノン機関に拉致され、スパイになるよう強要された事件で、鹿地は拒否し続けてほぼ一年後に解放された。ビクター・松井は離日したあと、カンボジアのシアヌーク殿下暗殺事件を画策したことで知られる。
矢板は、元千葉銀行頭取の戦犯問題をキャノン中佐を通じてもみ消し、その謝礼に旭缶詰会社(千葉県勝浦市)を譲り受けたほど、占領軍に顔が利いた。
しかし、A級戦犯とは、戦争全般に対する指導的役割を果たした者、たとえば軍部や政府のとりわけ重要人物が該当するゆえ、その不起訴、釈放ともなると、まったく別次元の話である。
一九九二年二月、柴田哲孝が矢板玄と最初で最後の面談をしたとき、矢板は、
「岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。岸は役に立つ男だから、殺すなとね。しかし、本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、あとはカーン(ハリー・F・カーン。当時ニューズウィークの記者。アメリカのジャパン・ロビーの中心人物。……)だよ。アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」
と、裏の事情を語った。
白洲次郎は吉田茂の側近。占領下の日本で、終戦連絡中央事務局参与、のち次長として、得意の英語力を駆使してGHQの要人と渡り合った。白洲に岸を助け得る地位と力があったことは確かであるが、後年の岸を見るとき、矢板玄が言ったように、米国情報機関は、エージェントとして使える男とみて、岸をリストアップしていたのではなかろうか。キャノン機関のキャノンに矢板玄を引き合わせたのは、白洲次郎と沢田美喜という。
矢次一夫は右翼であるが、並みの右翼ではない。識見が豊かで左翼をも包含する視野の広さがあった。後年、岸の懐刀として韓国や台湾との政経交流を果たした。
占領下ゆえ、GHQは生殺与奪の権を握り、とりわけG2(参謀第二部)部長チャールズ・ウィロビーには絶大な権限があった。
ウィロビーのもとに、岸の人脈を通じてさまざまな助命嘆願書が舞い込んだ。たとえば、岸の側近椎名悦三郎がマッカーサー連合軍最高司令官あてに提出した「岸信介釈放嘆願書」等々。矢板の働きかけは、その一つということになろう。
GHQは、占領直後から日本の非軍事化と民主化を強力に進めた。その主体を担ったのがGS(民政局)で、ニューディーラーたちによるリベラルな政策は、軍国主義に慣らされた日本人に清新な印象を与えた。目から鱗が落ちるとは、まさにこのことであった。
ところが、東西陣営の対立が次第に深刻さを増す。ウィンストン・チャーチルが、鉄のカーテンなる語に東西冷戦を象徴させたのは、一九四六年三月のこと。世界情勢は激変にさらされた。当然ながら、GHQによる日本の占領行政にも大きな影響が及ぶ。
ワシントンは、極東に位置する日本を押し寄せる共産主義の防波堤にする方針を打ち出した。それは、日本占領下で進行中の民主化路線を停止し、労働運動や社会主義を厳しく取り締まり、公職追放や財閥解体をとりやめて日本経済を速やかに復興させてゆくことを意味した。いわゆる逆コースへの転換である。
マッカーサーは、本国政府のこの方針転換に難色を示した。マッカーサー自身は筋金入りの反共であるが、命令を受けて日本の非軍事化と民主化に取り組んできたにもかかわらず、また命令で従来とまったく逆のことをするのでは、面目丸潰れである。
軍人としてのマッカーサーは最高位にあるのに対し、自分の上司たるトルーマン大統領の軍歴は、州兵太尉が最高である。マッカーサーは、軍事ならば、撤退命令に近い本国政府のそれに、一方的に服することを潔しとしなかった。最終的に逆コースを受け容れたものの、大いに不満であった。
ワシントンとマッカーサーの間の隠微な闘いは、GHQ内部でのGSとG2の代理戦争を熾烈化させた。GSには局長ホイットニー准将と次長ケーディス大佐が、G2には部長ウィロビー少将がいて、両者はマッカーサーの信頼を得ながらも、その政治的思想は両極端にあった。
この戦争は、G2と日本国政府がGSの理論的中心人物ケーディス大佐を汚い手段で失脚させ、GSの力を削いだことで決着する。結局、勝利したごりごりの超保守主義者ウィロビーの存在が際立つようになる。
さて、東西冷戦は岸の不起訴、釈放に有利に働いた。米国は日本を西側陣営に組み込み、中ソと対峙させるべく、日本国内の政治経済運営を旧来の保守的政治家、財界人等に委ねる選択をした。戦争犯罪の追及が緩み、財閥解体が中途半端に終わり、戦争を指導したかつての軍国主義者たちが復権してゆくのは、これが理由である。
さらに米国政府は長期的な視点に立って、吉田茂の後継者を探し求めた。その資格条件としては、本人が徹底した反共、親米派であること。頭脳明晰にして、米国に対して従順であること。米国の単なる操り人形では日本国民に見破られる。リーダーシップと行政手腕に富み、自分の考えで政を強力に推し進め、かつ窮極のところで米国の利害に沿う選択をなし得る政治家が理想的であった。
G2側から獄中の岸へ接触があった。岸には、カミソリのように切れるとか、一を聞いて十を知るとか、つねに最大級の修飾語がついた。頭脳明晰は間違いない。G2側は、残る条件を岸が満たすか否かを吟味する必要があった。
一九四七年四月二十四日、G2はマッカーサーあてに岸の釈放を勧告する文書を提出した。
岸はG2のお眼鏡にかなったのである。むろん、当時の岸は米国側のそんな動向を知る由もない。起訴か不起訴かに心は揺れ動くばかりであったはずである。
二キ三スケはすべてA級戦犯容疑者となった。このうち、東条と星野は起訴され、東条は死刑、星野は終身禁固。松岡は病死。結局、鮎川と岸が釈放された。鮎川の出所は一九四七年九月、星野の仮出所は一九五五年十二月であった。
東条内閣の農林相井野碩哉は在獄一年、一九四六年秋に自由の身となった。岸の三年に比べれば格段に早い。
井野の見解はこうである。米国は日本を占領統治するうえで、天皇を戦犯にするわけにはいかなかった。そのため、戦争を指導した者は戦犯、単に戦争に賛成した者は戦犯とはならないとの基準を採用した。
戦争指導者とは、戦争最高指導会議のメンバーであった者。賀屋興宣蔵相と星野直樹書記官長は同メンバー、井野と岸、逓信相の寺島健はメンバーから外れていた。同会議は政府大本営連絡会議と呼称されたが、この連絡会議に出席したか否かが明暗を分けたというのである。
それにしても、井野と岸とでは、在監の差が大きすぎる。井野は、岸の釈放が遅れたのは、満州の問題と捕虜虐待の疑いを持たれていたからだという話を聞いたと述べている。(岩見隆夫前掲)
岸が東条と意見があわず、東条内閣の総辞職を惹き起こし、それが終戦を早めたことが評価されたという意見もある。(岩川隆前掲)
元ハルピン特務機関員中田光一は、アヘンが関係したという穿った見方を語っている。
この中田の話は、満州七三一部隊による人体実験や生物兵器の研究、開発、実戦的使用等の犯罪が、米軍にその研究成果を提供することによって不問にふされた話を想起させる。
里見は一九四六年九月十七日に釈放。岸が児玉誉士夫、笹川良一らとともに、巣鴨から出所したのは、井野や里見に遅れること二年、一九四八年十二月二十四日、奇しくもクリスマスイヴの日であった。その前日には、東条らA級戦犯七人の絞首刑が執行されていた。
岸や児玉、笹川は、自分の命と引き替えに米国情報当局と秘密のつながりをもつ身となる。スパイ、エージェント、情報提供者、同盟者など、言葉はいろいろあるが、岸はそのいずれに該当するのであろうか。
一九四九年二月から五月にかけて、CIA日本支部編成が本格化した。従って、CIAが岸を巣鴨から出獄させるべく何らかの工作をした事実はない。岸の釈放に与って力があったのは、G2である。
一九五一年九月、サンフランシスコ講和条約の締結がなり、翌年四月、日本に君臨したGHQという組織はなくなる。情報活動はCIAに引き継がれる。それ以降、岸と米国を結ぶ情報分野では、国務省かCIAかのいずれかが登場することになる。
CIAは吉田の後継者として、まずもって緒方竹虎に期待した。が、緒方は急死する。「当時のCIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない」(加藤哲郎「戦後米国の情報戦と六〇年安保──ウィロビーから岸信介まで──」)とされるが、岸のときはどういう関係になっていたのか。CIAは、ほかに賀屋興宣や正力松太郎をターゲットにしたが、やがて岸ひとりに狙いを絞ってゆくのである。