【エッセー】回想暫し 昭和の妖怪(3)中
四
一九五八年五月に行なわれた衆議院選挙の結果は、岸を喜ばせた。自民党は二十から三十の議席を失うだろうと予想されていたにもかかわらず、蓋を開ければ、二百八十七議席を獲得。社会党は百六十六議席。いわゆる五五年体制開始後のはじめての総選挙で、勝利の女神は自民党に微笑んだ。
されど、米国政府の資金援助があったからには、その結果は当然とも言える。投票率七六・九九パーセントというのは、驚異的な数字ではあった。
政権運営に自信を持った岸は、安保改定の審議、批准を円滑に運ぶため、警察官の権限を大幅に拡大し、デモや集会などの取り締まりを強化する方向に一歩を踏み出す。戦前派の岸にとり、左翼系の自由奔放な労働運動は目に余った。岸は、警職法(警察官職務執行法)の改正(実質は改悪)を企図した。
同法を改めるにあたっては、現状では、警察官が犯罪の予防制止ができず、凶悪な犯罪が発生していることに鑑み、それを防ぐのが目的であるとして、治安維持法的な狙いはないとする公式見解を用意した。が、じつは、安保改定に反対するであろう野党、労働組合、全学連等々を対象に反対運動を潰すのが狙いであった。
岸の述懐である。問題の大きすぎる法改正ゆえ、外部に漏れると厄介な事態が生じかねない。岸は極秘裏に準備を進め、同年十月八日、抜き打ち的に国会に提出した。戦前の岸を彷彿させる反動的体質の露わになった場面である。
野党やマスコミの動きは、岸の予想以上に機敏であった。野党は国会審議で頑強に抵抗し、院外では大衆運動が盛り上がった。「デートもできない警職法」「オイコラ警察の復活」といったスローガンは、大衆の危機感を掻き立てた。反対運動は、瞬く間に大きな国民運動に発展した。
それでも、岸は正面突破を図った。が、党内の反対派が足を引っ張る。自民党のハト派は、もともとこの法改正に乗り気ではなかった。岸の方が劣勢だと状況判断すると、公然と反対を口にした。話は後先するが、十二月には、三閣僚が岸に辞表をたたきつけるという内紛まで起きた。
十一月二十二日、岸は警職法改正を断念した。無理は二度も三度も利かない。ここで無理すると、本命の安保改定に響くと自重した。
岸は、これに引き続く安保改定の大騒動でも、党内の反対派に煮え湯を飲まされた。岸を最も苦しめたのは、野党でもなければ、マスコミ、国民運動でもなく、党内反主流派であった。
自民党の派閥はタカ派、ハト派の違いや、主義主張の相違はあれど、要は親分を頭に権力欲と私欲の命ずるままに次期政権を手中にせんとする面々の集まりである。昨日の敵は今日の友とばかり、合従連衡、離合集散を繰り返す。たとえ主流派であっても、党内の力関係によっては反岸に立ち上がる。権謀術数の渦巻く一寸先は闇の政治の世界のなかで、自民党内の派閥抗争もまたひとつの政治の世界を形成していた。
警職法改正は、六〇年安保改定の前哨戦に位置づけられる。その断念は、行く末に影響を与えずにはおかない。が、完敗した岸はむしろさばさばしていた。
当時、官房長官だった赤城宗徳による岸の品定めである。一九六〇年一月十六日、岸は、ホワイトハウスでの新安保の調印式に出席するため、訪米の途に就いた。
この前日夕、全学連主流派のメンバーが羽田空港に集まり、岸の搭乗機離陸を阻止しようとした。学生たちは国際線ロビーに座り込み、集会を開いたあと、千人ほどの学生が空港内レストランにテーブルや椅子でバリケードをつくり、閉じ籠もった。
十六日早暁、警察機動隊がバリケードを撤去し、学生たちをごぼう抜きにした。岸はあたかも何事もなかったかのように飛び立っていった。
警察は七十六人を検挙した。このなかには、全学連の幹部級学生が大勢いた。全学連委員長の唐牛健太郎や、のちに最も有名になる樺美智子もいた。
同月十九日、新安保は調印された。ダレス国務長官はすでに死去し、ハーター国務長官が米政府側の主席代表となっていた。岸は米国で前回以上の歓迎を受ける。ニューズウィーク誌はもちろんのこと、タイム誌も岸を褒めあげた。羽田空港の暴動による見送りに比して、差がありすぎた。
日本側は、アイゼンハワー大統領の訪日を招請し、同大統領は六月の訪日を快諾した。岸は新条約の批准とアイクの訪日により、おのれの政権基盤が一層強まることを期待した。
五
一九六〇年一月二十四日、岸の帰国は、民社(民主社会)党発足のニュースと重なった。西尾末広を委員長とする同党のメンバーは、社会党の左旋回を容認せず、ついに袂を分かったのである。
前年三月、社会党書記長浅沼稲次郎を団長とする使節団が訪中した折り、浅沼は、
「アメリカ帝国主義は中日人民共同の敵」
と、発言した。これが内外に大きな衝撃を与え、社会党右派の議員が民社党を結党する契機となった。じつのところ、これには次の事情が介在していた。
しかしながら、安保国会で民社党が岸の期待どおりに動いたとは、とうてい言えない。当初、民社党議員は、議事の手続きに従う姿勢を鮮明にしていたが、岸の反動的な国会運営を見せつけられて、おつきあいする気持ちは萎え、日増しに強まる院外の安保反対国民運動に背を向けるわけにはいかなくなったのであろう。
二月五日、新安保は国会に提出された。同月十一日、安保特別委員会が設置され、審議が開始された。同委員会における社共両党の追及は厳しかった。野党は徹底審議を求め、それがそのまま審議引き延ばし策ともなった。審議はしばしば中断し、時間ばかりがすぎていった。
院外では、前年三月、社会党、総評をはじめとする十三団体を幹事団体とし、百三十四(のち百三十八)の団体(共産党はオブザーバー参加)が、安保条約改定阻止国民会議(以下、「国民会議」と略称)を結成していた。国民会議主催の請願デモなどは、国会審議につれて活発化した。
アイゼンハワー大統領の訪日は、六月十九日に予定されていた。この日以前に衆参両議院で新安保を可決しておかないと、岸の米大統領に合わせる顔がなくなる。
会期末は五月二十六日ゆえ、参議院の自然承認に必要な三十日間を考慮すると、四月二十六日がタイムリミットとなる。
日程は日を追うごとに窮屈となり、岸は会期を延長するしかないところまで追いつめられた。けれども、かりに会期を延長したとしても、六月十九日は絶対的な期限ゆえ、参議院の自然承認を計算に入れると、最悪でも五月十九日が衆議院可決のデッドラインとなる。絶体絶命の窮地をたかだか二十日あまり先へ延ばすにすぎない。岸にとり、一日一日が戦場となった。
四月二十六日、岸は、なすところなくその日を見送った。
五月一日、トルコ基地から離陸した米空軍Uー2型偵察機が、ソ連領空内を偵察中、ミサイル攻撃を受けて墜落する事件が起きた。
米国政府は、気象観測機が行方不明ととぼけたが、ソ連政府に機体の一部と脱出した操縦士を見せつけられて、居直った。陳謝もソ連領空飛行停止の約束も拒絶したのである。雪解けに向かっていた米ソ関係は冷戦時に戻り、同月十六日にパリで開かれる予定であった米英仏ソ首脳会談は中止になった。
Uー2機撃墜事件は、岸にも安保反対国民運動にも大きな影響を及ぼした。社会党が、東京近くの厚木基地にUー2機が三機あることを暴露し、岸はUー2機によるスパイ活動の許容を詰問された。
ソ連のフルシチョフ首相は、Uー2機撃墜事件に関して、「どこの国から飛来したものであろうと、その国に対しては核弾頭を装備したミサイルで「破壊的な打撃」を加える、と威嚇した」(マイケル・シャラー前掲)。日本人の不安は高まり、米国の戦争に巻き込まれるのはごめんだ、と安保反対国民運動は盛り上がってゆく。
同月四日、安保特別委は、公聴会の日程を十三、十四日に東京で、十五、十六日に地方でと決めた。公聴会の開催は、国会での質疑打ち切りの前提というのが慣例である。が、公聴会のあるなしにかかわらず、社会党は採決に応ずる気配を微塵も見せなかった。
九日、民社党が新安保にも会期延長にも反対することを決めた。米国政府や自民党による民社党への資金援助は、役に立たなかったのである。
十日、自民党内反主流派および新安保反対派の石橋湛山、松村謙三、三木武夫、河野一郎など何人かが、あくまで反対に回ることが分かった。
十六日、公聴会終了。いつでも質疑を打ち切り、採決できる状況となった。
後年、岸は、六〇年安保国会の年初以来、解散のことがつねに脳裏にあったにもかかわらず、その機会を逸したことを悔しがった。
岸は、側近の川島正次郎幹事長の強い反対にあって、迷いに迷った挙げ句、断念したと残念がる。が、ここでも米国政府に反対された事実が秘されている。衆議院を解散すれば、総選挙を経て特別国会の召集まで最長七十日以内の空白が生ずる。
米国大統領選挙戦がはじまると、現政権は、とりわけ現職大統領の引退が確実なときは、おおむね影響力を低下させる。国務省としては、アイゼンハワー大統領八年間の業績の一つとして、日米新安保条約締結を高らかに誇示したかったのであろう。米国から資金援助を受ける岸に、米国側の思惑を撥ねつける勇気はなかったのではないか。岸と米国をめぐる関係は、つねに主従のそれであった。かくして、だれもが何事かが起きると予感しつつ、五月十九日を迎えた。
六
岸の新安保強行突破策は、当時、このように受け取られた。二十一世紀に入ると、十二月八日は忘れられていないが、五月十九日を憶えている人は、少数派であろう。
その日の主役は、衆議院議長清瀬一郎であった。清瀬は、戦前は弁護士出身のリベラルな政治家として知られた。が、やがて考えを変える。GHQから公職追放処分を受けたのも、軍国主義に親しんだことが理由とされた。
清瀬は極東国際軍事裁判で、日本側弁護団副団長と東条英機元首相の主任弁護人を務めた。一九五五年、第三次鳩山内閣に文相として入閣。教育委員の公選制を任命制に改めるなど、法律家としての清廉さを有しつつも、政治的にはタカ派であった。
清瀬は、新安保を必要欠くべからざるものと認識していた。ゆえに、安保国会では、みずからの意志で強行採決の指揮を執った。
五月十七日、清瀬議長は党籍を離脱した。公正な立場をアピールするためであるが、同国会での決定的場面でなしたことは、とうてい公正とは言えない。
同日、自民党は両院議員総会を開き、新安保の取り扱いを執行部に一任した。岸は強行採決の日を十九日と決め、極秘裏に作戦を練った。一本半二正面作戦。一本は会期延長、半は安保特別委での質疑打ち切り。新安保可決は無理とみたので、一本には及ばず、半と呼んだ。当該作戦を知る者は、岸のほかわずかであった。
会期延長のためには、議長による常任委員長会議召集→同委員長会議による承認→議長による議院運営(議運)委員会への諮問→同委員会理事会召集→同理事会承認→同委員会承認→同委員会による議長への答申→本会議開会→会期延長採決、可決と、いくつかの手続きを経なければならない。
要となるのが、議運委員長の荒舩清十郎(あらふねせいじゅうろう)。義理人情に篤く、浪花節(なにわぶし)的と称される。十九日正午、荒舩委員長は清瀬議長の諮問を受け、議運委理事会を召集した。同理事会での話し合いは、半日を費やしても結論が出ない。業を煮やした荒舩は、午後四時半少し前、一方的に理事会を散会し、次いで間髪を入れずに理事会を委員会に切り替えた。
野党委員が慌てて荒舩のもとに押し掛け、阻止しようとして自民党委員ともみ合いになった。この間に、荒舩は、会期延長が与党委員だけで採決されたとして、その結果を清瀬議長に答申した。野党委員は怒ったが、荒舩は受けつけない。一本半正面作戦の前者は、荒舩が勝利をもぎ取った。
同作戦の後者の要は、安保特別委員長の小沢佐重喜。闘牛の異名をとる押しの強さには定評がある。同日午前十時四十分、安保特別委は審議に入った。同委員会は開催前から騒然としていた。午後に入って、小沢委員長は休憩を宣告した。
そのころから、自民党秘書団が議長室、安保特別委室、本会議場の議長入口、同議員入口にピケを張った。一見して、こわいお兄さんたちが少なくない。院内は異様な雰囲気に蔽われ、社会党は衆議院事務局に抗議した。
夕方になっても、小沢委員長は何を待つのか、黙然として動かない。安保特別委では、与野党委員の睨み合いが続いた。
院内では社会党秘書団もピケを張り、一触即発の不穏な情勢が続く。清瀬議長が自民、社会両党の秘書団に退去するよう要請。両秘書団は退去したものの、午後八時ごろには、社会党議員団が議長室前廊下に座り込んだ。清瀬議長の本会議場入りを阻止するためである。
午後九時半ごろ、清瀬議長は警官五百人の派遣を要請した。
午後十時二十五分、本会議開会の予鈴が鳴った。自民党は、この予鈴を安保特別委での奇襲作戦開始の合図としていた。
社会党は、自民党の作戦が本会議での会期延長の採決にあると読み誤り、安保特別委に十三人の委員を残すのみで、あとは議長室へ押し掛けた。
小沢委員長が、すかさず「休憩前に……」と発言しはじめた。安保特別委室は、たちまち大混乱に陥り、小沢委員長の言葉はだれの耳にも達しない。怒号と金切り声と議員同士のもみ合いのなかで、賛成やら万歳やらの声が上がり、自民党委員が小沢委員長をかかえて素早く退席していった。
これが午後十時半ごろ。実質三、四分の間に、質疑打ち切りの動議が出され、これを賛成多数で可決。次いで、新安保三案採決の動議が出され、これを賛成多数で可決。さらに新安保三案を一括採決し、これも可決したというのである。
自民党にとって、質疑打ち切りどころか、新安保三案を可決したというからには、一本に近い戦果で、残るは本会議での会期延長採決ばかりとなった。
午後十時三十五分、本会議開会の本鈴。清瀬議長は、社会党議員団等の座り込みのため、議場に入れない。
午後十一時すぎ、警察官五百人が社会党議員をごぼう抜き。同五十分ごろ、実力排除が完了。清瀬議長はその少し前に本会議場に入り、開会を宣した。この折り、清瀬は左足を骨折し、背負われて移動している。
清瀬は、ただちに五十日間の会期延長の採決に入った。議席にいるのは自民党議員ばかりである。全員が起立して会期延長はあっさり決まった。
清瀬の腹づもりではそれでおしまいで、作戦上もそうなっていた。ところが、岸ら自民党首脳は、毒を食らわば皿までと、新安保の本会議採決をも極秘案として持っていた。
議長室に閉じこめられていた清瀬は、安保特別委での強行採決を知らなかった。これを知って、即座に意を決した。
一旦散会ののち、翌二十日午前零時五分、本会議を開会。新安保採決に入り、一気に可決した。社会、民社両党議員のほか自民党の一部も欠席するなかでの強行採決であった。
院外の安保反対国民運動に参じた人々は激高し、マスコミその他世評はことのほか厳しく岸および自民党の暴挙を弾劾した。
岸はこのように弁明している。強行採決が、アイゼンハワー大統領の訪日に合わせたものでなかったとしたら、まだ論理に破綻はないが、事実は米大統領の日程に合わせたにすぎないのであるから、岸が何を言おうと自己正当化と見なすべきであろう。
岸の怒りは、現状を批判するだけとするマスコミや世論に向かわず、自民党内の新安保反対派に向かっている。飼い犬に手を咬まれた心境なのであろう。
岸に名指しで罵倒された反主流派の松村謙三は、会期延長の採決に加わらずに国会をあとにしたが、「自動車のなかのラジオで安保可決のニュースをきき、「ああ、日本はどうなるだろう」と暗然とした」(信夫清三郎『安保闘争史─三五日間政局史論─』)という。
松村の反応の方がよほどまともであったが、政治的な立場が異なれば、松村は裏切り者にされてしまう。げに恐ろしきは政治の世界である。
岸は、いたるところで弁明に努めているが、岸自身の認めた異常な手続きのもと、強行採択された新安保が、半世紀以上も日本を米国に従属させてやまない絶対的根拠となっている事実は、否定しようがない。