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【エッセー】回想暫し 13 藤野厳九郎と魯迅

 ずっと昔、JR芦原温泉駅に降り立ったとき、駅前に由緒ありげな古い木造家屋があるのに目がとまった。何だろうと内を覗いて驚いた。藤野厳九郎ふじのげんくろうの旧宅が移築されて、藤野厳九郎記念館になっていた。藤野厳九郎と言えば、魯迅の「藤野先生」に描かれた本人である。だれもが、あの善意の固まりのような人に古きよき日本人を見るはずである。私も然り。
 一九〇四年(明治三七)、藤野は仙台医専教授として中国からの留学生周樹人(魯迅)に解剖学を教える。両人の交流については、「藤野先生」に懐かしくも爽やかに描かれる。魯迅が医学を棄てて文学に転じたため、彼らの交流は二年ほどでやむ。一九〇六年、別れに臨んで、藤野はおのれの写真一葉(裏に「惜別 藤野 謹呈周君」の八文字)を魯迅に贈る。
 魯迅との別離の九年後、藤野もまた以下に記す事情で仙台を去り、東京を経て郷里に帰る。それが福井県であったことは知っていたが、芦原とまでは知らなかった。魯迅を励ました藤野が帰郷後、この家で暮らしたことがあったのかと思うと、胸に迫るものがあった。まさに一期一会いちごいちえ。その後、両人の再会する機会は訪れなかったのである。
 藤野は愛知県立医学校(現名古屋大学医学部)卒業後、仙台医専講師を振り出しに東北帝大医学専門部教授になった。魯迅との出会いはこの間の仙台医専教授時代である。まずまずの学究人生を歩んできた藤野であったが、後半生に入ると、順風満帆というわけにはいかなくなる。
 一九一五年(大正四)、東北帝大医学大学が創設された。それを機にその地方の医療に全面的に携わってきた医学専門部は廃止の憂き目をみる。医専は速成の医師養成機関。今後は医大がより高度な医学を教えるゆえ、医専の役割は終了したと宣告されたのである。
 組織の新設には人事の異動がついて回る。医大は医専よりも上位にあるため、医専教授が医大教授に移行するのは難しい。私の文学の師間瀬昇氏は医師(京城医専卒)であったから、この間の事情をよく知る。間瀬師は、
「私たちの京城医専の場合、一九二六年(大正十五)だったかに京城帝大医学部ができて、そのとき京城医専の教授たちは大部分の人が新設の大学教授となり、のちに医専の方が困ったということを聞いています。このことと藤野厳九郎を同一に論ずることできないにしても、医専教授から医大教授に多く昇格させることは問題になるでしょう。資格面から言っても帝大医学部教授と医専教授とでは、横すべりは簡単に認められなかったのではないでしょうか」
 と、語った。京城医専は廃止にならなかったので、藤野のごとき不運な人は生じなかったが、東北帝大医大の場合は馘首に近い冷たい人事が発生した。医専教授はキャリア不足ゆえ、要らないというのではこれまでの人生は何であったのか。なかには医大教授への横すべりに成功した者もいるが、藤野のようなケースの方がずっと多かったのである。
 このとき、おのれの意志に反して退職願を提出した藤野らに対して、医専教授並みの新たな職の斡旋があったのか、なかったのか。生首を斬っておいて、あとは自分自身で生きてゆけでは、いくら何でも冷たすぎる。
 藤野は、東京の三井慈善病院(現三井記念病院)で耳鼻咽喉科の速成の講習を受け、同科の医師となった。このあたり、新設医大から弾き出された藤野に対する救済措置かといった印象を受けるが、実際のところは判らない。 とにもかくにも不惑を過ぎた藤野にとり、解剖学者から耳鼻咽喉科医への専門替えは、並大抵のことではなかったであろう。帰郷して開業するまでにも、どれだけのエネルギーを費やしたことか。加えて、藤野は妻の早すぎる死にも遭った。
 有為転変は世の習いというが、東北帝大医学大学創設は、藤野に想像を絶する痛苦を与えた。当時の藤野の途轍もない不運を思う都度、私は、それに耐えた藤野に北陸人の強さを見る。藤野は再婚し、坂井郡三国みくに町で耳鼻咽喉科医院を開業する。やがて息二人に恵まれ、後半生に若干の平安が訪れる。

 魯迅の作品を評論した時期がある。「狂人日記」「阿Q正伝」「孔乙己」「薬」「明日」まで来て挫折した。いずれも短編であるが、内容が重くてこちらの精神への影響が少なくない。その点、「藤野先生」や「故郷」はほかの作品ほど重くはなく、読後感もよい。わが国では両作品とも人気があるが、私も好きである。
 しばらく前、友人と三国を散策した。私たちは海派でも山派でもない。専ら町並み派である。古い町並みを歩くと、先人の暮らしを目の当たりにするようで、心が和む。これに明治建築が加わると、言うことはない。三国には旧森田銀行本店があった。みくに龍翔館はあいにくの休館日で入れなかった。ここも外から見る限り明治建築ふうである。
 復路、えちぜん鉄道あわら湯のまち駅で足湯につかった。そのあと、駅前をぶらぶらすると、またしても藤野厳九郎記念館と出会った。十年余前にこの地に移されたという。内部をよく見て回ると、藤野厳九郎が晩年住んだこの家は三国にあったとある。私たちは三国からの復路にある。藤野厳九郎とは何かと縁があるらしい。記念館に再び出会うことになろうとは夢にも思わなかった。
 周樹人は中国に帰ってのち、文豪魯迅となった。中国文学者増田渉ますだわたるが病気見舞いに魯迅を上海に訪ねたとき、魯迅は「藤野先生を終生の恩師として尊仰している」と語った。増田のこのときの訪中は一九三六年。魯迅の逝った年である。
 他方、藤野は三国から芦原へ移って町医者として地域の医療に尽くす。後半生の藤野に悲劇の翳が漂うのは、不運な運命に苛まれたからであるが、さらにもっと過酷な運命が待ち構えていた。将来を期待していた長男恒弥を失ったのである。何が哀しいと言って、親子の間で彼岸への順が逆になることくらいつらいことはない。
 泉彪之助「魯迅と藤野厳九郎」(芦原町・芦原町教育委員会)によると、「恒弥は、東北帝国大学医学部を卒業して航空医学教室に入っていたが、召集をうけて軍医となった。従軍中に病気になり、父に先立って一九四五年(昭和二〇年)一月一日、広島陸軍病院で戦病死した。やはり竹内氏(源九郎の二人の令息の恩師であった竹内静氏のこと──筆者注)の回顧録によると、遺骨を受け取りに行った藤野厳九郎、文子夫婦は帰りに竹内家に寄り、文子夫人は「先生、恒弥はこんな小さな箱に入ってしまいました」と涙を流し、源九郎は無言で立っていたという。恒弥の死は、源九郎には大きな打撃であった」とある。父親として、無言で立ち尽くす以外に何ができよう。
 恒弥の亡くなった同じ年の八月十日の夕刻、藤野は往診に出た途中、河辺橋の袂で倒れ、翌十一日、不帰の人となる。享年七十一であった。
 仙台で別れて以来、魯迅は藤野厳九郎の消息を知ることはなかった。他方、藤野が魯迅のそれを知るのは、魯迅が道山に帰る前年のことであった。泉彪之助前掲によると、「……岩波文庫『魯迅選集』が出版されたのは、一九三五年(昭和一〇年)六月である。このころ、藤野厳九郎の長男恒弥は第四高等学校(旧制)に進学していたが、恒弥の福井中学校(現在の藤島高等学校)時代の恩師に菅好春という国語と漢文の先生がいた。菅教諭がこの『魯迅選集』を読んで藤野厳九郎のことではないかと気付き、恒弥に知らせた。こうして藤野厳九郎は、かっての中国人留学生周樹人が作家魯迅となっており、自分のことを小説に書いていることを知ったのである。その後、菅教諭は厳九郎を訪問して仙台時代の思い出を聞いたが、残念なことにそれから半年もたたないうちに菅教諭が病死したので、藤野厳九郎のことは魯迅の耳に届かずに終わった」とある。
 魯迅の人生は厳しさの一語に尽き、藤野厳九郎もまた然りであった。そのなかに咲いた一輪の花。静かに味わいたいものである。

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