ナッジ研究者がお答えします#26:常識を疑うということ②
【問】常識を疑う必要性はわかりましたが、やはり最近の若い人は常識がなく、日本の将来が心配です。
常識はいつどこで誰が作った?
小さなグループでの常識が、大きなコミュニティの非常識なこともよくあります。また、時代が変わると、常識が180度変わることも多々あります。
私が若い頃、「風邪をひいても出勤して、上司が『君、辛そうだから帰っていいよ』と言ったら、ようやく午後から休暇を取得できる」という職場も少なからずありました。風邪での欠席は、非常識と批判されたのです。昔、私の親族は風邪でいよいよ動けなくなって朝に職場に電話したら、上司が病床に来て、引継ぎと様子の確認をしたそうです。
しかし、風邪なのに無理に出勤したら、本人は早期回復の機会を失い、ウィルスをまき散らし、職場でも仕事のパフォーマンスが低下し(プレゼンティーズム)、休ませてくれなかった不満がたまり、周りも感染リスクに怯えます。この常識に基づくシステムにはデメリットだらけです。このように、常識はしばしばエビデンスに反するものもあります。
そもそも、常識はいつどこで誰がどのように作ったのでしょうか?エビデンスは5W1Hがはっきりしていますが、常識はそれがあいまいです。
コロナ禍になって、オンラインMTGの「謎のマナー」が次々と出現してきています。これらのうちのいくつかは、常識として定着し、同調圧力と結びつき、他者への攻撃材料となる可能性もあります。謎のマナーなのに。
20年ほど前、地元のある自治体で、ノーネクタイの革新系の議員が「ノーネクタイは議会の品位を汚す」との理由で、議場から締め出されたことがありました。現在、国会でもクールビズでノーネクタイが常識になっています。常識の名の下に、快適な服装は排除されるというのも、今振り返ってみると、全くおかしなロジックです。が、当時は「常識」を拠り所にしたために、「蒸し暑い服装をすることと、議会のミッションである『市民のための議論』はどう関係あるのか?」という根本的な問いが軽視された感があります。
常識にとらわれなければ「これを機に、ノーネクタイを試行してみよう」と全国に先駆けることもできたはずでした。が、この議会は一度ノーネクタイ議員を排除してしたため、つい最近までクールビズを導入できなかったと報道されました。
このことからも、常識という抽象的な軸で判断すると、合理的な選択につながらない可能性もあります。
常識は人為的に作られたものかも
私は毎朝起きたらすぐに、自分の見た夢をノートに書き留めておいています。ノートがたまるにつれ、「前日に見たメディアの情報がそのまま夢に現れることが多い」ということに気づきました。大量に接している情報に対し単純接触効果(何度も見ているうちに好きになっていく心理)が作動しているからかもしれません。
私たちは自分で考えて意見を持っているように見えても、無意識のうちにメディアの情報に大きく影響されている可能性があります。
ここで、もしも、メディアが特定の方向に誘導しようとする意図があったらどうでしょうか?以前、ファッション関係のマーケティング担当者から、「流行の色は2年前に業界内で合意形成して決められ、業界で一斉に流行を作り出す」という話を聞いたことがあります。
ファッションの潮流にだったら、乗ってもよいのかもしれません。でも、この潮流が差別に関することなら?特定の政党の主張に関することなら?大きな潮流が私たちの無意識に訴えかけてきたとき、無視するのはとても難しいです。
常識だからと言って、盲目的に従ったり、他人を従わせたりしようとするのは、ひょっとしたら古代人と発想が似ているのかもしれないです。それよりも、常識を批判的に吟味し、納得した上で従う方が幸せではないでしょうか?
質問者様も、きっとその思いは同じだと信じています。
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