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雨の日の彼女
奇数のお客様
という言葉がバーテンダーの世界にはある。
一人、三人、五人。奇数のお客様には特に気を配れと言う意味だ。
一人は勿論だけど、三人以上のお客様も必ず一人は会話からあぶれる。
話の輪から外れた一人を見逃さず、必ず話し掛ける。それもバーテンダーの仕事だ。
しかもうちの店は、「お一人のお客様には必ずオーダー以外で一度は話し掛ける」と言う、店長が制定した鉄の掟があったから、初見のお一人様と言うのは、新人が特に緊張するゲストだ。
それが、雨に濡れた女性のお一人なら、なおのこと。
金曜の9時は一週間のピークと言っていい。居酒屋での酔いが醒めないうちに、バーへと駆け込んだお客様で、雨だと言うのにその日もほぼ満席。僕とチーフは一人頭20杯のカクテルオーダーを抱え、オーナーと店長はかれこれ一時間はフライパンを振っている。
夏の雨は、地下の店に外の湿気を流し込み、エアコンはべたつく様な空気をただ掻き回すだけで、店の中はそこそこ不快なはずなのに、テーブルもカウンターも笑顔と喧騒がラインダンスでもしてるかの様だ。
一瞬のオーダーの隙間を突いて、チーフと僕はカウンターの内側で屈み込んだ。
せわしなく煙草に火をつけ、立て続けに二三口吸ってから伝票の束を取り出す。
「一番テーブル上から行くぞ。」
オーダーの最中は伝票を付けず、空いた時間に一気に書き込む。
週末はそうでもしないと間に合わない。
「ジントニック4、フィディック炭酸2、ウーロン、オレンジ1ずつ、えーと、ダッド水割1、あいや2、そんでフローズンダイキリが…やばい、まだ出てない。」
慌てて立ち上がりブレンダーを取り上げる。
その時、彼女は店に入ってきた。
畳んだ傘をゆっくりと壁のバーに掛けて振り返る。
キョロキョロと店内を見回す様から、初めてのお客様かと思った。
少なくとも、僕に見覚えはない。
「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ!」
あまりの忙しさに、若干やけっぱちなオーナーと店長の声が同時に響く。
店の一番奥の厨房で、換気扇の真下に立つあの二人は、一体どうやって音のしないドアが開いたのを知るのだろう。
ぼんやりとそう思う僕の後ろを通って、チーフがカウンターのひと席を彼女に勧めている。
「お一人ですか?」
おしぼりを渡しながら聞いてるチーフの口調で、彼女が初見のお客様なのがわかった。
薄い水色のブラウスに、はっきりと目に飛び込んでくる紺色に白い花柄のロングスカート。
スカートの青が濃いのは雨に濡れたからなのか、ちょっと裾を気にするように、彼女はスツールに腰を下ろした。
うちの店にメニューはない。
いや、あるにはあるが、カクテルの種類を載せすぎて、あんまり分厚いもんだから常連客は誰もそれを見ない。
はたして初見であるはずの彼女は、席に着くなりチーフにオーダーを告げた。
「おい。ご新規、女性お一人様ジントニック。ダイキリ代わってやるからお前行って。」
まあ、そうなる。
一旦オーダーの落ち着いた今の時間帯。お一人様は取りあえず新人の担当だ。
チラッと目を遣ると、厨房の店長が「鉄の掟」と言う目でこちらを見ていた。
ちょっと迷ってジンはタンカレー、ライムを絞って氷を入れる。
温度の変わった氷に入るヒビの、小枝を踏むような音を聴きながら、トニックウォーターを細く注いでいく。
バースプーンを隙間に刺す様に入れ、一度だけゆっくりと氷を持ち上げる。
ジントニックの手順を追いながら、僕はチラチラと彼女を見ていた。
雨足は強いらしい。
濡れた髪をハンカチで拭う様から表情は見えない。
酔っているようには見えない足取りだったから、ひとり抜け出した飲み会の帰りでもなさそうだ。
仕事終わりにしては、服装に違和感があった。
そして何より、雨に振られたのとは別の憂いが、彼女の周囲には纏わりついているような気がしていた。
さて、カクテルは出来上がってしまった。
何かを考える時間は終わりだ。
「お待たせしました。ジントニックです。ジンはタンカレーをお使いしました。」
コースターと共にカウンターに置いたグラスを、彼女は僕の話が終わる前に手に取った。
そっと口元に運び、微かにはぜる炭酸の泡ごと、ひとくち目を飲む。
前髪が開け、その奥にこちらに向けられてない目が見えた時、僕はどきりと顎を引いた。
ぼんやりとグラスを見ているその目は、赤く腫れているように見える。
飲み会の帰りでも仕事終わりでも、たぶん無い。
考えていたオーダー以外の一言を、彼女の赤い目が全部吹き飛ばしていた。
顎を引き。真っ直ぐに俯く彼女を見る。
僕の15センチ手前に視線を置いたまま、彼女はふたくち目のきっかけを待っていた。
そう、見えた。
「お仕事帰りですか?」
常套句にしてこの場合最悪だが、何を言うかより、今は何かを言う事が大事な気がした。
彼女の手が、またグラスに伸びるように。
沈黙はいつだって時間を引き伸ばす。
店の喧騒のなか、向かい合った僕らだけ、雨音の聞こえるような静けさの中にいた。
「話、かけないで下さい。」
あ。
初めて聞く彼女の声は、思っていたよりも随分と幼い。
チーフのブレンダーの音が止まっていた。見ると首だけ反対の厨房に向けている。その向こうの厨房には、いたはずの二人の姿は無かった。
「…失礼しました。」
逃げるようにその場を離れ、全く用の無い台下冷蔵庫を空け頭を突っ込む。
みんなが僕を見なかったのは、恐らく優しさなんだろう。
それが余計に、自分の未熟さを縁取って際立たせる気がして、僕はしばらく目の前の生卵を睨みながら冷蔵庫の冷気に吹かれていた。
あれから、彼女を見たことは一度もない。
日が暮れるタイミングで、予報通りの雨が降り出すと、いまでも彼女を思い出す事がある。
もうバーテンダーじゃない僕は、どこかの街で、カウンターを挟んでバーテンダーと笑いあって話す彼女を想像して、
そうであって欲しいなと、たまに願う。
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