見出し画像

凡人と天才◇神が愛でし者「アマデウス」(1984年アメリカ映画)


「凡人」と「天才」。この記事のタイトルで映画のシナリオのすべてを表してしまう。「神が愛でし者=アマデウス」が天才で、サリエリは俺たち凡百の代表というわけだ。

とは言うものの、このサリエリ、当時の音楽エリートだ。まず生まれが違う。イタリア人だ。下品で粗野なドイツ語を話さない。正統的な音楽教育をうけ宮廷楽士に任用されている。名声も高い。何の不足もない一流の音楽家なのだ。
実はサリエリは俺たち凡百とは天と地ほども違う。本当は。

画像1

だが映画を見ていると俺たち凡百はサリエリを自分に重ね合わせて見てしまう。

天真爛漫なモーツァルト。ロバのような間抜けな顔。素っ頓狂な馬鹿笑い。ガキのような振る舞い。これがあの神童とうたわれマリー・アントワネットの前でチェンバロを弾いてご褒美をもらった天才なのか?

画像2

サリエリがモーツァルトの天才を悟る有名なシーンがある。コンスタンツェと戯れるモーツァルトをよそに、ふと譜面台に置かれたパート譜を見るサリエリ。

「<グラン・パルティータ>十三管楽器のためのセレナーデ」だ。3楽章アダージョの冒頭。ホルンとバスーンのオクターブのユニゾンでトニックが鳴ると、バセット・ホルン(クラリネットの仲間)やバスーンで、なんだかブカブカしたくすんだシンコペーションが始まる。

字幕では「手風琴」と訳される言葉は一般にアコーディオンのことだ。だがおそらくはライエル というドイツの吟遊詩人が使っていた鍵盤付きの、こすってならす弦楽器を意図していると思う。その、がーがーいう音から、ハーディ・ガーディ とも言われる。音が連続することからオルガンのようでもある。「ハーディ・ガーディ」のニックネームをもつ「4つのメヌエット K.601」という曲もモーツァルトは書いている。

とにかく洗練された音ではない。ゆっくりで優美であるべきアンダンテ楽章がこんな間の抜けた音から始まるとは・・・。

するとなんと!
オーボエが・・・・・・!
神よ!天から優美に舞い降りる御使いのごとき旋律が!!

この世のものは思われない美しい響き!クラリネットがそれに答え・・・・。

天才だ・・・・。

サリエリの陶酔ぶりに、見ている俺たち凡百も酔ってしまう。サリエリを狂言回しにモーツァルトの天才ぶりをいかんなく伝える素晴らしい場面だ。俺はこの場面のサリエリからこの曲の素晴らしさを教えてもらった。

画像7

歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲冒頭の恐ろしいニ短調の音響、交響曲25番のト短調のシンコペイションがメインテーマになって、父親レオポルトとの確執もストーリーの重要な軸になっているのだが、俺はそちらにはあまり興味がなかった。

コンスタンツェとの結婚記念に書いたハ短調ミサ。ザルツブルグのコロレード大司教に書くことを約束しつつ未完に終わった大ミサ曲。

俺はこの曲が好きで様々な演奏の録音を持っている。エリオット・ガーディナー/モンテベルディ合唱団/イングリッシュ・バロック・ソロイスツの颯爽とした「Laudamus te 」のソプラノソロが好きだ。「Jesu Christe」の絶叫のようなアナーキーな響きも素晴らしい。レヴァイン/ウィーンフィルは「Credo」の冒頭のウィンナホルンの咆哮が好き。ショルティ/ウィーンフィルは・・・と、いくらでも話が尽きない。

妻となるコンスタンツェが歌うために書かれたソプラノパートがある。これがまた素晴らしい曲で、一音一音、音に羽が生えて高みに舞い上がる。恋愛の陶酔に近い。コンスタンツェのためにこのパートをさらうためのエチュードも書き残している。なんとも心温まる話だ。

しかしもはやモーツァルトは宗教音楽に興味を失っている。

コンスタンツェの愛らしさ、したたかさも映画に描かれる。
この映画で面白いのは、モーツァルトがベラベラとアメリカ英語を話す点だ。貴族やサリエリはそれなりにもっともらしい格調高いアクセントの英語を話す。

画像4

コンスタンツェはというと、まるっきりアイダホのイモネエちゃんだ!

画像5

結婚後取り組む「フィガロ」。アルマビーバ伯爵の歌う「コンテッサ ペルドーネノ(許せよ、奥方)」の旋律がずっと流れる。オペラで成功を夢見たモーツァルトの会心作だ。

画像6

フィガロの音楽はどこもかしこも楽しく美しく、機知に富んでいるが、この終幕間際の「Contessa perdono 」の素晴らしさ!

とにかくあれこれあって、伯爵が伯爵夫人、つまり自分の妻に「ごめんなさい」という場面だ。素直に罪を認め赦しを乞うのだが、オペラを始めから見てきて、この場面になると本当に心から浄化された気持ちがする。許しと慰めに満ちた愛情溢れる音楽。さめざめと泣いた後のような気持ちよさ。梅雨明けの清々しい太陽の輝き!

ミサ曲のラテン語による「主よ、憐れみ給え(キリエ エレイソン)」もいいが、フィガロでは直接心に愛と許しが押し寄せてくる。

なんと麗しい聖俗混淆だろう。

「魔笛」にも同じように、音楽で全てが解決する場面がある。筋を書いたり理由を説明しようとしても荒唐無稽なだけなのだが。なのにオペラのその場面にくると、歌と音楽で心の底から納得してしまい、なんてこの世界は素晴らしいのだろう、なんて思ってしまう。

これこそが音楽の力、芸術の力だ。

画像7

(この項、力が入りすぎここまでが映画の前半だ。この続きはまたいつか)

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集