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【ライフストーリーVol.1】第二世代は特にうまく立ち回ることが大事ではある

外国にルーツを持ち日本で育った人たちのライフストーリーを紹介。

今回はglolab共同創業者・副代表理事である景山宙の物語をインタビュー形式でお届けします。

▶景山宙(かげやまひろし)プロフィール

6歳の時、中国から来日。高校卒業まで地方都市で過ごす。中学3年時に日本に帰化。高校、大学進学後、社会人経験を経て、29歳で大学院に進学。現在はglolabの副代表理事として活動しながら日系の企業で勤務。1児の父。

▶中国人と強く意識していた小学生時代

― 日本に来た時のことは覚えていますか?

父が日本に留学していたことがきっかけで日本に来ました。日本行きの飛行機のチケットを買うために分厚い札束を用意しているのを見てすごいところに行くのかなっていう不安感もありましたが、純粋にワクワクしていました。来日して少し経って小学校に入ったのですが、当時は東京ではなく地方に住んでいたので、外国人は僕だけでした。たまたま小学校の校長先生が国際交流を進めたいということで、わざわざ全校集会を開いてもらって、800人くらいの全校生徒の前で自己紹介をしました。

― 日本語はどうやって勉強していたんですか?

日本語はもちろん話せなかったですし、当時は日本語を教えてくれる先生はいませんでしたから、父に作ってもらった単語カードや父からもらった教科書を使って勉強していました。父が午後11時ぐらいに帰ってきて、言えるようになるまで教科書を暗唱させられました。あと、1行でもいいから日記を書くとか。大体1年くらい過ぎると少し日本語でキャッチボールできるようになってきました。(漢字でコミュニケーションなどは)漢字も当時そんなに習ってなかったので。

― ちなみに今中国語はどのくらい話せますか?

親との会話が最低限成り立つぐらいですかね。物事をロジカルに説明するのは難しいかも。思考する言語は日本語です。

― 小学校ではどのように過ごしていましたか?

小2でサッカー部に入って、そこで友達かすごくできましたね。昼休みに一緒にドッチボールやったり、夕方に秘密基地作ったり。普通に友達はいたような気がします。父が学校の先生だったこともあり、勉強もできました。ただ、「中国人」という理由で茶々入れてきたりからかわれたりもしました。高学年の時、一度同級生に殴られたことがあったんですが、先生が止めもせずにビデオとっていたことがありました。面白かったんでしょうね。その時は父親が校長先生に抗議して、その先生からは直接謝罪されました。当時は「僕は中国人だ」と強く意識していたので、そのようにからかわれるのはすごく嫌でした。

― 小学校とは異なる学区の中学校に行かれたということですが。

はい。小学校でいろいろあったので環境を変えたいと思いまして。あと両親が勉強を頑張らせたいということで、小4,5くらいの時から塾に行かされまして、中学受験もしました。残念ながら失敗してしまったのですが、都市部寄りの中学校に通いました。

▶何をしたいか模索する中学・高校時代

― 中学校ではどのように?

最初は卓球部に入ってすぐやめて、水泳部に入って、2年の後半くらいにサッカー部に入りました。勉強も学年で10番くらいだったと思います。いじめられるといった嫌な思い出はありませんでした。ただ、それは自分が「勉強ができる子」というポジショニングをして優位に立とうとしていた部分も大きいと思います。自分より弱い相手を傷つけてしまったこともありました。その時に先生に「相手だって傷ついているんだ」と諭されたのですが、僕も傷つけられた側の痛みとか寂しさが分かってボロ泣きしました。

― なぜ優位に立とうとしていたんですか?

自分の寂しさとかいらいらを紛らわすためだと思います。父は当時契約社員でしか働けず安定した職につけませんでしたし、母もそんな父親を見て将来を悲観していました。夫婦喧嘩も多かったです。僕も輝いていない父親を見て自信を失いましたし。外では明るく振舞っていましたけど、でもやっぱり他人の家族がすごい幸せに見える。そういったことで、時々、弱い人を傷つけちゃったりしていたんだと思います。

― 中学校3年生の時にご家族で帰化をされたということですが、何か心境の変化はありましたか?

「日本人として生きていくんだなあ」という意識は強くなりましたね。それに「日本にいられるんだ」と安心しました。父も職場で「ビザいつでも切れるからな」と言われていましたし、何度もリストラされてビザも危なかったので。

― そのとき名前は?

中国名から日本名に変わりました。苗字は中国名にちなんで両親がつけ、名前は漢字は自分で決めて、読み方は両親が決めました。宇宙が好きだったんで、それと関係した漢字を選びました。高校から日本名にしたのですが、中学校から僕のことを知っている友人には「なんで名前変わったの?」と説明を求められるのが恥ずかしかったです。実は中国人だったんだって、日本人になったんだって。そういうことを出すこと自体がなんか違う。外から来た人っていう風に見られないかなって。中国は遅れているとか自分勝手だとか、日本人はマナーがとか進んでいるとか、必ずみんな聞いてくるんですよ。要は「中国人なんです」ということでそういうラベルを貼られることってあるわけですよ。だからそういう会話は僕にはすごい面倒くさいし屈辱感を味わうんですよ。なので、「自分が中国人だった」とか、そういうことは出したくなかったです。

― 高校進学はどのように考えていましたか?

両親には「トップ校に行け」と言われ、自分もそのように考えていました。プレッシャーでしたけど、勉強ではそれなりに行けそうな位置だったんで。

― 無事志望校に進学した後はどのように?

高校時代には新たにバスケやりたいと思いバスケ部を始めました。新しいことをやってやるぞという感じ。ところが、中学生で10番以内に入れていたのが、高校時代には200番台くらいに下がり、挫折を感じました。頑張っても頑張っても上に行けない感じ。

― 中学校時代も部活を変えるなど、新しいことにチャレンジしているように見えるのですが。

よく言えばそうですが、あきらめやすい人なんです。一つ成功体験があって辞めるなら、あるいは学びを得てやめるならいいですが、僕の場合、最初の壁で辞めちゃってるように感じました。それに今までは両親のお膳立てがすごい合ったんですね。塾行きなさいとか部活行ったらとか。その中でうまくやれている部分があった。もっと自分事としてとらえてチャレンジしてやりきるっていうことが、後々人生選択をするときに必要となると思うんです。僕は結局そのあと、自分が何をやりたいとか中々見つからなかったんですよね。

― その後はどのように進路を決められたんですか?

両親も理系ですし、理系の方が仕事は見つかりやすいということで理系にしました。あと、宇宙飛行士になりたいと思って理系にしたんです。ただ、それ以上の想像力はあまりなかったですね。仕事のイメージもなかったですし。両親も大学進学を望んでいたのでプレッシャーがあって。成績が上がらない。受験勉強にも身が入らない。航空宇宙を学べる大学を受けたんですが一度落ちて浪人したんです。2年目も受けたのですがまた落ちて。「やべえな、どっかないかな」というときに、父が航空宇宙関係の国立大学があると見つけてくれて、その大学に進学しました。

― では、航空宇宙に関係する専攻?

結局、機械工学でした。高校生まで宇宙飛行士に憧れを持っていたので、大学でそのような勉強ができなくて、またやる気失ってですね。授業つまんねーなとか(笑)やることはやっていましたが、学問的な好奇心はあまり刺激されなかった記憶があります。どちらかというと、外国につながる子どもの学習支援を行う学生団体に入ってから、ソーシャルなことの興味を持つようになり、そちらの時間の方が有意義でしたね。

▶外国につながる子どもたちとの時間により自分自身を見つめ直す

― その団体に参加するようになったきっかけは?

大学1年の時に中国に帰った時、ちょうどオリンピックの時期で、国旗や国歌をすごく目にしました。その時、あ、自分は中国人だったんだってちょっと思いまして。しかし、日本に帰国した後、中国で反日デモが起こっちゃって、それを見てすごい自分の中でショックだったんです。日本人は中国人の悪口言うし、中国人はどうしてこんなに反日活動をするのだろう。なんだこの疎外感。自分が何とかしなきゃって思って。なんでたどり着いたかわからないですけど検索でたまたま引っかかって入りました。多文化に興味を持つ学生との接点が欲しかったというのもあります。

― その団体ではどのようなことを?

フィリピンとつながりを持つ子どもに学習支援をしていたのですが、全然勉強をしない子で。バイクに乗って遊んでいるような子だったんですよ。でも、彼の話をしっかり聞いたり、ウソをつかず本音で話したりする中で彼自身が目標を見つけ、少しずつ勉強するようになって。その時自分の言動次第で相手が変わるっていうのを知って自分の自信にもなったし楽しかったです。また、同じく活動する大学生とも、例えば靖国の問題について勉強会を開いたり議論したりすることもあったのですが、それがすごく新鮮で。大学では言われたことをやる感じだったんですが、自分で考えないといけないんだなと。あとはまあ、自分の過去も出せる機会もあったので。

― 参加していかがでしたか?

高校まで「中国人/日本人」ってどっちかだったんですよ。どっちかを隠す。入学してやっと親元を離れ、一人暮らしをしていろいろ振り返る中で、なんかこう、一つ上に行きたいなと思って。親との葛藤だったりどっちかを隠さないといけないという葛藤。自分が認められる場って何だろう。バックグラウンドが出せて誰かのためになれる場がいいなと思って。それだと本当にこの団体がぴったりで、卒業まで参加しました。

― その団体での経験はその後のキャリアに影響しましたか?

その団体での経験から人材系の会社に関心を持つようになりました。自分が関わることで組織が活性化するとか、人を育てる仕事はすごい興味を持ったんですよ。でも、専攻に関連するモノづくりやエンジニアといった仕事はあまり自分としてはイメージがわかなかったです。自分ってこう海外からきていろいろ大変な経験をしたり、自分でこそわかる葛藤とか多文化の価値観の違いとか分かっているのにその経験を生かさなくてもいいのかなっていう迷いはありました。

― どのように就職活動を?

最初はベンチャーか人材系に。でもベンチャーは終わってて、ベンチャーはあまり力入れなかったんです。全然働くイメージがなかったんですよ。働いている姿も、親も僕はよく見てないですし。屈辱的な環境で働くっていうことしかなかったので。何もやりたいことがなかったんです。それで、まずは自動車メーカーで車の衝突安全や衝突試験をする仕事にしました。自分が本当にエンジニアとしてやっていけるのか試してみて、だめなら、そのあと大学院でビジネスマネジメント学びたいと思いました。

― 働いてみてどうでしたか?

結局、2年10か月くらいで別の外資系の会社を見つけて転職しました。業務で知り合った人が幅広く技術者でありつつセールスやマネジメントやマーケティングもやっていて、MBAも取っている方で。その方にうちに来ないかと言われ、この人と働いたら楽しいんじゃないかと。あと、武器として英語で仕事するというのを身につけたいと思って。外資系の日本支社って技術だけじゃなくて営業も英語もできないといけないんで。フレキシブルに動けるのがいいと思い外資系に入りました。

― 外資系の企業では?

事業の立ち上げなどを行いました。ただ、業務を進めていくうえで直面する課題が見つかったり、その課題について語れるようになってきたので、そろそろビジネス系の大学院に進学しようと思うようになり、大学院に進学しました。大学院1年目は働きながら、そこからだんだんフェードアウトしていった感じです。

― 大学院に行きたいというのは昔から考えていたんですか?

親父を超えたい。大学院に行くってことに関してはそうでした。親父があんな頑張って大学院出たのに、すごい愛情とお金を注がれた僕はなんで学部どまりなんだろうという申し訳なさが一つ根底にあって。あとは、単純に自分はいろいろ経験してきたから、それらの経験を生かせる場を、開発、営業、マネジメント、いくつかの言語を扱うといった複数のバックグラウンドの掛け算で生きていくべきなんじゃないかと20代はいろいろ思って。

― 大学院の研究とは別に通訳派遣のアプリも制作されていたとか。

はい。外国人観光客と地方に住んでいる外国人をマッチングさせるっていうアプリです。外国人観光客が地方に行ったときに交通手段やガイドがいないという課題があるので。院生の時期に当事者意識をもってゼロから事業をやろうと思っていたのと、母親との関係から製作しようと思いました。

▶両親との関係

― お母さまとの関係とは?

母は中国では「教師」という仕事があって人に教えることができたんです。日本に来てからは言葉の壁もあり肉体労働しかできなかった。それで結果的に精神的に参ったり自信がなくなったりして、両親の不和にもつながったのかなと思います。両親は僕のために大変なことをしているっていうんです。それはとても嫌だったんですけど、「嫌」と言うだけではなく自分で変えていかないと思うようになって。仕事があれば自信もつくし、それは子どもにとってポジティブで前向きな影響を与えるのではないかと考えました。

― 今、両親に対する思いは?

二人とも根はとてもいい人で、今となってはチャレンジしてここまでやってきたという尊敬の念と感謝の気持ちを持っているんですけど、10年、20年前はもっとよく接してほしかった。自分が20代で進学・就職をちゃんとうまく立ち回れたんじゃないかなと。父親は我慢して新しいところで何とか家族を生き延びさせるっていう精神力はありましたが、うまく立ち回るのが下手だったのかなと。母親も普段は優しいんですが結果が出ないととても厳しい人で。もっとポジティブに応援してくれればやりきれたなと。とにかくうちの家族はかみ合ってなかったですね。

― ご自身が「父」となって感じることがありますか?

基本的な認識として、第2世代がいちばん葛藤するし苦労するかなと。貧しい環境の中で豊かになるために努力しなければならない。3世代目には負わせたくないというのはまずありますね。どんなに人が良くても、うまく立ち回らないと世の中では勝てないです。うまく立ち回る、成功するっていうのがやっぱり大事ではありますよ。第二世代は特に。じゃないと上の世代も下の世代も支えられないので。その時に、親以外の第3者の存在が必要なんじゃないかなと思います。

― それは「glolab」の設立と何か関係していますか?

ロールモデルとの出会いとプロジェクトレッスンをする場を作りたいという思いはあります。僕は職業観、人生観が本当に定まらなかったですね。その一つの要因として、両親が働く自信をもって何かにチャレンジする姿を見たことがなかったということが大きかったと思います。そういう働く、自分で何かを選択して責任をもって働く、誰かのために役立つ。そういう姿がなかった。結局僕も働くイメージがわかなかったので、そういうことを共有できる場があったらいいなと思いますね。あと、そのうえで何かやってみるということと、やってみる中で自分の強み弱みというか、これだったらやり切れるとか、これは向いていないとか、これだったら勝てるとか、そういったことに気づけるような場を作りたいとは思っています。



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