「米ファーストレディ」オフィシャル・ポートレート考
2017. 04. 03記事
本日、米国大統領夫人メラニア・トランプさんの、ファーストレディとして初めてのオフィシャルポートレートがリリースされました。
この写真、単体で見ても「うーむー」という感じですが、前ファーストレディの比較をすると、さらにいろいろ見えてくる。
ちょっとばかり知的テイストの「ビューティポートレート」としてはありでしょう。
ソフトフォーカスで撮った上に、フォトショップ修正しっかり入ってます。衣服もアクセサリーもポスチャーなどなど、諸々。
しかし「”ファーストレディ”という文脈」ではナシ。
昔の大統領夫人たちのように、クラシック(基、前時代的)にしなくてはいけないなどということは全くないですし、「新しい時代を切り開く」というメッセージであれば、ミシェルのようにスリーブレスのドレス(ワンピース)を着て腕をボーンと出したり、どんどん新しいデザイナーの可能性を広げるスタイリッシュな取り組みをするのだってそのオフィシャルポートレートとしてのビジュアルと行動が一致していて良いこと。
ただ、この写真にはその最も何も見えない。それだけでなく、本来ここで見せなくても良い「違うもの」が透けて見えている。
それに関しては、別枠で書くことにして。
今回のポートレートリリースに際して、このようなメッセージが添えられている。
“I am honored to serve in the role of First Lady, and look forward to working on behalf of the American people over the coming years”
写真に写って見えることって、実はとても正直で、「整える」とそれがとても正直に見えてきて、「作り込む」とそれがメッキであることが露見する。
写真、自身の言動(メッセージ)、行動を総合させてみせることがイメージ戦略であり、写真だけ、服装だけがスタイリッシュであっても、何の意味もなさない。
彼女はモデルでスタイリッシュなものを着慣れてきた。カメラの前に立ち慣れている、それは確かに武器だろう。
しかし、ファーストディとして、世界とは言わないけれど、少なくとも米国民に何を伝えたくて、このポートレートになったのか?ここが問題なのですよ。
せめてその辺りを表現できるしっかりしたブレーンがついていて欲しいものです、アメリカよ。