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アカデミー賞2022と、言ってはならない冗談と、平手打ちの先にあるもの

日曜日のアカデミー賞授賞式の、平手打ちの一件の後、沈黙していたジェイダ・ピンケット・スミスがInstagramで初の公式声明をした。

「This is a season for healing(これは癒しの季節なのです). And I'm here fr it(そして、私はそのためにここにいるのです)」。

問題の発端を作ったプレゼンターだったロックの発言、それに反応した夫であるウィル・スミスの行動、月曜日の謝罪声明。そして火曜日、暴言を浴びせられた当人である彼女が投稿した。

彼女の心情やいかに。

日曜日から、その件に関して思ったことをTwitterに連投していたのだが、備忘録としてこちらにまとめておこうかと思う。

暴言を浴びさせられた当人って、あのような公的な場では特に、その次の瞬間相手を自分で平手打ちしにいく行動には出ないと思う。おかしな言葉を受けただけでストレスだし、健康面からくる症状による事象に触れられたのであれば、無意識に自分自身を守り、自分らを安定させる方にエネルギーを使うもの。その点結構冷静だったりする。

だから、「立派な大人の女性なら自分であの時に何かできた」というのは違うと思ってる。怒るって本当にエネルギーを使うんですよ。それに、意味ある怒りじゃない場合、ただただ消耗して悲しみだけが残り。そこからのリカバリにまた時間と労力を要する。

何かできたとしたら、その場で怒りに任せて勢いで何かをしても一つも良いことはないと判断したということなのではないだろうか。賢明な判断。やらないという行動も判断も存在するから。

また、意思疎通のできている身近にいる人が代わりに怒ってくれたり、代弁してくれたりするというのは、本来とても心強いこと。マイノリティの活動でもアライという言葉があるのがソレ。だけど、それは暴力であってはならない。ここは絶対にブレない一線であり、超えてはならない一線。

この暴力、まずは手をあげてしまうのが最もいけない。そして、同じくらいいけないのが言葉の暴力。今のご時世、ロックの発言こそが暴力として扱われたのになぁと思ったりもする。でもウィル・スミスが手をあげてしまった時点で、その可能性をもぶっ叩いて壊してしまったわけだ。

またこの記事を読むと、

「ウィル・スミスがオスカー賞のステージで、妻の短髪をネタにしたクリス・ロックを殴ったとき、彼はロックの顔だけでなく、もっと多くのダメージを与えた。小癪な一撃で、彼は暴力を擁護し、女性を矮小化し、エンターテインメント業界を侮辱し、黒人社会に対する固定観念を永続させたのです。」とある。

ぶっ叩いて壊してしまったものは大きかったということだろう。

映画芸術科学アカデミーの広報は、「アカデミーは昨夜のスミス氏の行動を非難します」との声明を発表。「この件に関して正式に調査を開始し、会員規約、行動基準およびカリフォルニア州法に従って、さらなる措置を検討します」としているとのこと。

一般視聴者側からもこれだけ注目されてしまい、後味が悪いアカデミー賞などとも言われてしまっているが、もしそこに希望を見出すとしたら、この一件が、人の身体的特徴、しかも何らかの病状や症状を持つことに起因する状況・状態を、その原因を知る知らないを問わず、キワドイ笑いのネタにするような悪き思考と慣習にメスが入り、改善の一歩になることだと個人的には思っている。

強い女性だから傷つかない?自分で対応できる?きっと擁護されなくても対応はできるだろう、でも全く傷つかないわけじゃない。

このNY Timesの記事にも考えさせられた。

どんなに悪気がない一言でも、ナイフのように人を指すことがある。

その鋭い一刺しになる事柄がどういうことか、それが致命傷になることが大いにあるとして、それぞれが自分のこととして考えなくてはならない。

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