さみしさの単位
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コロナ禍と呼ばれていた時期にはなんとか逃げ切っていたのに、とうとう罹患してしまった。
冬の職場は冷えるので、今日は薄着だったかな、なんて考えていたら目眩。
38.2の発熱で、すぐに早退。
その足で病院へ行き、コロナ陽性の診断を受けた。
noteには月4本くらい、1週に1本位の頻度で書きたいと思っていたのに、ゆっくり物を考えられないくらいには体調が悪く、10日ほど療養した。
病床で、Xをダラダラと流し見する日が続いたとき、『さみしさに単位があるなら何だと思う?』というやり取りのポストと、それを引用する形で様々な人の考える『さみしさの単位』の話が流れてきて、興味深かった。
このポストを見かけたとき、わたしが『さみしさの単位』で思いついたのは『メートル』だった。
『ソーシャルディスタンス』という言葉を聞かなくなって久しいけれど、今回、その言葉が頻繁に使われていた頃を思い出して、家庭内隔離、換気、マスク、そして食事や生活動線を共にしないように徹底して過ごしていた。
空間を共有しないようにして過ごすのは孤独で、家族と隔たれた距離がそのままさみしさになっていた。
⋯という話だけでまとめられそうな気がしていたのだが、今回元気になって文章化していくうちに、違和感を感じ始めた。
さみしさの単位を表すのに『メートル』を使いたいという感覚は変わらないのだが、『ソーシャルディスタンス』のような平面的な距離というよりも、標高や水深のような、縦軸での距離の方が自分の感じる『さみしさ』に近いように思うのだ。
地図にある等高線をイメージしてほしい。
同じ高さにいる相手は、たとえ距離が隔たれていても、似たような景色をみられるような気がする。
わたしが同年代の同性の文章を読むのが好きなのは、同じくらいの年数を歩んできて、同じくらいの標高の場所から世の中をみている仲間のように感じるからではないか。
逆に、自分のことが理解されない、同じ目線での考え方を共有できない、という孤独は、まさにいま隣にいる相手とでも起こり得る。
お互いに姿は見えているはずなのに、立っている高さが違うので、見える景色がちょっとずつズレている。
そのズレが面白いと感じられるときには、さみしさは感じないのだが、『わたしのことを分かってほしい』ともがいているときには、その苦しさは深海魚と鳥が同じ世界をみることができないように途方もなく距離があり、さみしさを感じる。
そういえば、以前『山頂』をテーマに短歌を詠んだときも、わたしは『さみしい』という言葉を入れていた。
しかしながら、『富士山(3776メートル)のさみしい』と『筑波山(877メートル)のさみしい』とを比較したときに、どちらがより『さみしい』かと言われると難しいので、『さみしさの単位』としては『メートル』は不適切かも知れない。
3776メートルの孤独は、単純な『さみしい』を超越して『孤高』とか『気高い』と呼べそうな気がする。
そこまで行くといっそ『さみしい』なんて感じないのではないだろうか。
みなさんにとっての『さみしさの単位』は、何ですか?
⋯『円』ではないとは思いますが、#有料記事書いてみた に投稿する都合上、初めて有料記事設定にしてみました(この先に公開されているのはハワイ島で撮った星空と日の出の写真だけです)。
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