"チームレジリエンス"の困難さをながめる
はじめまして、広告会社でアカウントチームのマネージャーをしていますグリコ(@gliCO0721)です。
マネージャーの機会をいただいて、チームレジリエンスを手探りに作ってみたりした1年3ヶ月だったんですが、
『チームレジリエンス 困難と不確実性に強いチームの作り方』を読んで、まだレジリエンスは見えないな、と打ちのめされています。
何者でもなく、困難の真っ只中で揉まれまくっている無力なマネージャーの自分。
「こんな意義のある実践をしました」なんて凄いポートフォリオは全然作れないけど、
それでもやっぱりnoteを書きたいと強く思っていて、
その理由と、このnoteで何をやっていきたいのか、自己紹介も兼ねて言葉にしてみたいと思います。
自己紹介
普遍的すぎる略歴
普遍的な困難かもしれないけど、やっぱり簡単に割り切れない
略歴をあらためて見ると、我ながら普通だ。
普通に名が知られている大学を出て、新卒一社目は、華やかではないが、それなりの規模で安定した経営基盤の制作会社で営業チームに入った。特に大した成果やすごいことも起きてない。
現職も、大手グループの資本の中で、グループでは期待されている方のベンチャー企業だ。気付けば会社の中では古参なほうになっていて、ベンチャーの洗礼に揉まれながら、それなりに成果も出してきたし、いつしかマッチョにもなってた。
いま自分の会社は事業の踊り場で、難しい状況に置かれている。上流にも行けず、とはいえ今まで戦ってきたレイヤーを抜け出さなければ生き残れない。業績もここ数年右肩下がりで、「既存事業のリカバリー×新規事業創出のシナジー」という鋼の十字架を背負っている。
いつの間にか、青春を語り合ったハイパフォーマーは辞めていったし、眼鏡のピントもずれてきた。もちろん新しい人は取れないから限られた人数で生き残るしかないし、そもそも採用の予算なんかない。
きっと普遍的。
顧客の中計にも同じようなこと書いてあるし、実際にお客様のミドルマネージャーも不安そうな顔だ。借り物のような言葉で自社を語りながら、「あれ…ということでいいんだっけ…?」ってなってる気持ちに蓋をして、何かの可能性を信じたりして目の前の事を為しているように見える。とても愛しい、ハグしたい。
組織づくりの闇を見た
気付いたら、しっかりダークサイドに堕ちてた
何とかしがみついて、学んでみて、命を削って色々やった1年3ヶ月。営業戦略や事業戦略、スキルセットも教育も、ぐちゃぐちゃの自前工作で見直し、鳴かぬならマインドで実行可能なサイズになるまで高速で咀嚼しまくって、とにかくもう執拗にやった。
お察しの通り、情けなくも、いつの間にか自身がダークサイドに堕ちて、権力と断罪と正論を振りかざすダースベーダーになった時期もある。自らの手で壊れかける組織を、毎晩泣きながら振り返り、震えながら真っ白な顔で対話と修復を試みた。「こんなの自分じゃない、こんなん私のやりたいことじゃないのに」と自身がうまく整合できていない感覚にも長く悩まされた。
組織のレジリエンスはまだ見えてない
これじゃダメだと自身と組織のレジリエンスを考え出して、組織開発的なアプローチを取り組み始めた。
ビジョンの劇薬使ってみたり、対話やナレッジマネジメント、賞賛をごちゃ混ぜにした漢方を使ってみたり、自身の振る舞いや関わり方、関係性も見直したけど、自分が折り合えてない感覚が拭えない。
そのうち、乖離したままの自分が欺瞞的で卑劣に思えてきたり、その事実にちょっと傷付いてもいる。
また解きほぐして、こわばった筋肉がピリつく感覚や、しけつく感覚に何とか耐えながら、恐る恐るもう一回さすってみる。
ちょっとほぐれたら、確かめるようにぶつかって火花を散らしてみて、着いたねってシケないようにみんなで一緒にフーフーして、最初はみんなキラキラ目を輝かせてたけどだんだん息も切れてきて、かろうじて火花がでる瞬間の一瞬の光で、みんなの顔を確かめるみたいな毎日。
レジリエンスとはなんなのか、結局まだ全然見えてないんだ。
なんなら、自分が一番整合取れてない
自分が一番歪かもしれない、と思う気持ちを、ずっと抱えている。
立場的に、情けなさを外に出すわけにもいかないという正義感で、密室で横同士慰めあってみるけど、傷付かない距離感に立って互いの間にそっと石を投げ合う日々で、自分の中のちっちゃい石ころがコロンと転がる姿にまた自分でシラケる。
自身の歪さをどうしたらいいのか分からないし、対話や関係性が足りなくて何も見えてないのかもしれないし、抜本的な事業改革も必要な気がするし、案外このままでも何とかなるのかもしれないし、「こんなんではダメだ」病に私自身が取り憑かれているだけなのかもしれない。ちゃんと整理していけば見えるかもしれないけれど、結構しんどくなってきて余計に見えない、というのが今の状況。
人に救われている部分もあって、ちゃんと進んでいる兆しもあり、私含めた全員が成長もしている。でもとにかく不安で、分からなくて、多分結構しっかり慢性化している気がする。
こんな状況で、組織うんぬんの前に、まず自分が息継ぎするように何か探している最中だ。
今、思うこと
きっかけ
先述の試行錯誤の過程で、光に導かれるように漂着した、MIMIGURIさんの マネジメントの学習プラットフォームCULTIBASE。
本当に多くの示唆があり、実践的であり、人に優しく、一言で「プラットフォームだ」と言うのが憚られるくらい、いろんな体験や体感を受け取っている。
「冒険的世界観で創造的な組織づくりをしよう」という提言は、自分の奥底に片付けてしまった気持ちが起き上がる感覚でワクワクした。
辛い時は、関係者さんの一つ一つのコンテンツやnoteや一言一言が、とても優しく、共感と慈悲にあふれたまなざしで、読んでるだけでかなりケアしてもらった感覚がある。
CULTIBASE駅を通過しながらも、地獄行きの線をいったりきたりしていたNG例の一人なので、ネガティブブランディングになったら申し訳ない。でも受け取ったことのデカさを伝えたい。
チームレジリエンス
そんな中、先日MIMIGURIの安斎さん、池田さんが書かれた『チームレジリエンス 困難と不確実性に強いチームのつくり方』を読んだ。
組織がもうすぐ崩壊するんじゃないか、自分が壊してしまうんじゃないかと夜な夜な震えている全マネージャーに絶対読んでほしい。救われる影響の輪がたくさんあると思う。1年前に出会ってれば。
この本で、今まで暗中模索してきたこと、ぐちゃぐちゃに散らかしたことが綺麗に整理され、ひもとかれていた。海外の新しい論文や既存のフレームワークも参照しながら、困難さへの共感も含めて丁寧に編み上げられていて、本当に実践的で普遍的で優しかった。
それまで「心理的安全性」「対話」いろんな示唆を受けとって、実践してきたはずなのに。やってきたことはチームレジリエンスに書かれていることをちょっとずつ積んできたはずなのに。
足元をみてみると、結構まだ散らかっているし、自分はまだあべこべな服を着ている。
「わかることが、わからないよな」
気付いたら、おんおん泣きながらあとがきを読んでいて、痛いのどこだっけーーと途方にくれてた。あー、自分はまだ乗り越えておらず、自身と組織のレジリエンスが全然実現しきってないんだと悟った。読み終わった後にしっかり凹み、ようやく、ただ難しさ、一筋縄ではいかなさを認めることができた。
さっくり書いてるけど、痛みと悟りの間にだいぶ大きな谷間もあって、MIMIGURIの他の方の優しい投稿やnoteがだいぶ埋めてくれて、かろうじて渡れたというのが正しいかもしれない。
世の中を分かりやすくする、秀でた知見や実践的な知恵はたくさんある。noteを開くだけで、世の中にはすごい実践家・研究家・支援家の方々の学びが溢れている。「困難な時代だ」「このアプローチが大事だ」「今世の中の問題はこれだ」「こんな実践してこう変わった」と誰かが教えてくれている。
すごい人たちが集まるネットワークだってある。
それに救われることもたくさんあるはずだけれども、
「分かること」と、「できること」の間の谷はこんなにも大きくて、いとも簡単に足を掬われてしまうんだ。その瞬間、疑うこともなかった自身や組織の健やかさが、あっという間に頼りなくなるという経験を私はしている。
「分かること」と「できること」の谷間の怖さの分かち合い
今、その「分かる」けど「やれない」の谷をちゃんと言葉にしたほうがいいと思っている。
借り物の言葉でなくて、自分が何をみて、何をしようとして、どれだけ難しいのか。自身が抱える難しさや出来なさ、人が抱える難しさや出来なさにどれだけ優しい目線で自覚的になれるか。
今は周りのひとには見せたくない葛藤もたくさんあるけど、
いつか同じ道を通る誰かに、谷間のしんどさを手触り感のある実体験談(主に失敗談)として手渡してあげたい。
同じ境遇の人が世の中のどこかにいれば、一緒に谷を眺めてみたい。
安全な道に手を引くのではなく、誰かと一緒に歩いた足元にある谷間をながめて、「おっとこの道は進研ゼミでみたやつだ、あぶなかったね!」と笑い合う世界線を目指したいのが1つ目の理由。
2つ目は、自分自身を健やかに戻していくリハビリをしたいなというという内向きな理由。この1年、手書きの日記に書き散らかした、目も当てられない血まみれのメタ認知苦行を、持続可能なあり方へ調整していきたい。
3つ目は、概念、ロジックなどの借り物の言葉を出来るだけ剥いで、出来るだけ素朴に書いていった先に何かあったらいいな、という実験。影響を受けた考え方やまとった言葉を剥ぐプロセスって案外難しそう。やった結果、なんの意味があるかは知らん。
初回からジクジクしてますが、
喜劇にできるように、この難しさをある種のリアルな観察記、冒険記として書いていきながら、「という話もあってだな」「もう大丈夫だね」と言えるようになりたいなと思っている。それがこのnoteの結末になればいいなと思うし、その先に新たな地縁が見たいと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?