結局、“無条件の愛”ってなんなのさ?
ふと考えていた。
無条件の愛って、結局なに。
自分が誰かに与える愛に、見返りを求めたくない。
期待して、求めて、それに見合ったものが返ってこなかったとき、虚しくて、寂しくて、自己価値がわからなくなるから。
「見返りなんて求めてない。これは無条件の愛だ」って自分に言い聞かせても、結局心のどこかで見返りを求めている自分がいる。
そしてそんな自分をまた否定する。
「見返りを求めちゃう私は小さな人間だ」
「愛している人に無条件の愛を持ちきれない自分が嫌いだ」
結局見返りを求めてしまうのは、自分の価値を、誰かに教えてほしいからでしょ?
自分で自分の価値を見出せないから。
自分で自分を確立できないから。
誰かに「大丈夫だよ」って言ってほしいんだ、人間の弱さだね。
結局無条件の愛ってなんなのさ?
世界でいちばん愛しい人に、
「あなたは幸せでいてほしい」
「私の見えないところでも笑顔でいてほしい」
「自分らしく生きてほしい」
そう思い、願い、言葉にして伝えること。それは愛ではなくて、見返りになってしまうのだろうか。
だったら私はもう、愛しい人に何にも言えなくなる。
愛の伝え方がわからなくなる。
“自分に何かをしてほしい”じゃなくて、“あなた自身幸せでいてほしい”
それも、見返り?
無条件の愛とは違う?
じゃあ無条件の愛ってなに。
「どんなあなたも受け入れる」?
不幸なあなたも、悲しい顔ばかりしてるあなたも、苦しそうなあなたも、全部愛してるよ。
それでいい?
相手の幸せを願うこと、それって愛ではないのだろうか。
それとも、“ワガママな愛”とでも言っておけばいい?
人間である以上、無条件の愛なんて持ちきれないのでは?
神様にでもなればいいんすか?
無条件の愛ってなに。
親がわが子に捧げる愛?
虐待している親だっているのに?
どちらかと言えば、子供が親を愛することの方が、無償の愛に近いんじゃないのって思うんだけどそれも違うのかな。
虐待されても、愛してもらえなくても、子供は親からの愛を一番に求めていて、心のどこかで絶対に親を想い、親に囚われている。
でも結局、親からの愛を求めちゃってる。
だったら親子愛も結局見返りの塊?
愛って求めちゃダメなもん?
けど、誰だって、愛されたいよ。そうでしょ。
人間ってめんどくせえな。
あ~もうすべてがわからない。
愛であふれた人間になりたいのに、自分の愛の行方が怖い。
その辺に生えてる雑草になりたい。
かてえコンクリート突き破って、「私は私だ!!!!!」って、ただ自分を確立して、自分の価値を自分で分かって、誰かに「きたねえ雑草だな」なんて言われても、誰かに踏みつぶされても、何も気にせずそこに立っていたい。
それができたら、無条件の愛も持てるようになるんだろうか。
何だこの文章。本当に7年ライターやっとんのかよ。ウケる。
たまにはがむしゃらな文章も書きたいよね。
ただ私は”言葉”という、人間特有のツールが、心から好きなだけ。