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カラマーゾフの記録(I)

今年の最大の読書体験は、なんといってもドストエフスキーの【カラマーゾフの兄弟】を読了したことでした。これは、個人サイトの《カラマーゾフの記録》のページに載せた、読書メモのまとめです。今後も追加していく予定なので、今回は第1回ということで、、、。

  • ドミートリ―の「人間らしさ」に惹かれる第三巻。本当に面白い。薄っぺらい言葉になってしまうが、本当に面白い。スタイリッシュさ、カッコつけ、一切なし。人間人間。どこまでも人間。人間は、本来誰でもこのように私たちをがっかりさせるような一面を持ち合わせているものである。他人に求めがちな綺麗な理想はここにはない。読み手への媚びを感じない。熱量に圧倒されながらも、こちらも覚悟を決めて立ち向かう。読み手である私たちの中にも確かに存在するその暗闇を、何もかもを破壊する激しさを、もっともっと見せてくれ。

第3巻になって物語は一気に疾走
主人公はミーチャ
  • 理性的で、思いやり溢れる、そして慈悲深い。天使のような青年アリョーシャ。心のお守りのような存在を失くし、傷心し不安定になっている彼が今後どんな顔を見せてくれるのだろうか。ここで彼が皆が最も尊敬する聖人のひとりであるヨブ長老の墓に座っている描写にドキッとさせられる。アリョーシャが、アリョーシャじゃない行動をした時、不安に思いながらも、全て崩れてボロボロにめちゃくちゃに駄目になって(すなわちカラマーゾフになって)しまえばいい。そう思ったりもした。唯一、カラマーゾフ側面をあまり見せてくれない彼が、じわじわとそうなっていく過程をたっぷりのボリュームで、もしかしたら見られたのかもしれないと思うと、著者が亡くなったのは本当に悔やまれる。そう思わせるほどに、清潔で真っ白なハンカチのような彼は、もちろん、長男のドミートリ―と同じくらいに魅力的である。この湧き上がるような気持ちは、部屋で彼を待っていたグルーシェニカと同じなのだろうか。

こたつで読む大傑作
いつでもどこでも毎日読んでいた
  • 無神論者の次男イワンはどこまでも私自身だった。私が本書で最も好きな登場人物である。本当はそれをやっていなくても、心の内では望んでいる気がして、本当にやっているのかもしれない…そう思ったらそれが鍋の底にこびりつく焦げのようにへばりついて、とれなくなって、やがては錆びついていく。妄想による脳の故障。私はそれを体験したことがあるので、非常に親近感がわき、愛しく思わずにはいられなかった。なぜなら私も愚かなナルシストだから。そんな愚かなところも自分で愛すほどに。


あまりの難解さに眩暈がした第2巻
  • 登場人物が、そこに生きている。著者が生命を与え、この人物ならこういった行動を、このような思想を、このような言葉で…というよりは、そこに確かに存在する命が自然に従って彼または彼女の人生を紡いでいる。そこにある生命と実は隠れているフィクションがズレていない。著者の言いたいことや伝えたいことがあってこの作品は生まれているはずであるが、それはまさに(先行的に)ドミートリ―の言いたいこと、イワンの言いたいこと、アリョーシャの言いたいことなのである。自我や思想、あるいは歴史の混在した物語でありながら、生活がある。彼らの毎日と事件がある。数多くの登場人物が、その人生の歴史にふさわしい思想を持って、酒場で暴れ、物語を語り、神に祈っている。文章をたどり、その毎日と事件を味わうことと、著者の意図を探ることは、この作品においては別であるべきであると思う。どちらもかかせないが、私はこの物語を“この台詞はこのような著者の言いたいことが書いてある”というように読むのではなく、“ドミートリ―が言いたいことが書いてある”、と読む方が好きなのである。もちろん、著者の人生、歴史背景、そして本当に彼(この物語の神)が伝えたいことも、きちんと理解できるようにそういった側面でもこれからも読み込んでいくつもりではある。


  • 《亀山郁夫氏のカラマーゾフ論を読んで》3兄弟を見て、“カラマーゾフ”にある“カラマーゾフ”じゃないところに私はなぜか逆に魅力を感じていたけれど、彼の考察諸々を読んで、確かに。と思ったのは、アリョーシャの“カラマーゾフ”側面が他の2人とは明らかにあまり描かれていないということ。それだけに、訳者の言う、アリョーシャの特徴の繰り返し発言(なるほど彼は共感を表すというふりをしながら実は相手の言ったことをそっくりそのまま繰り返しているだけに過ぎないとも見える)や、作者の死によって結局は描かれることのなかった、アリョーシャがメインになるであろう続編《第二の小説》が気になって気になってたまらない。ちなみに訳者の予想だとこの《第二の小説》で聖人アリョーシャは豹変し、革命を起こすために皇帝暗殺を謀る、というストーリーになるのではないかという(運命を呪うほどに面白そう)。

描かれなかったことに逆に感謝すべきかもしれない
そんなひとことも心に残った
  • 《死刑囚を乗せた馬車の描写》だんだんと断頭台に迫っていく馬車に乗る死刑囚の心の中の様子の描写を読んで(検事のたとえ話として出てくるストーリー)、今までにない“衝撃”のようなものを感じて、思わず何度も何度も読み返してしまった(そしてそのたびに衝撃を受けた。とまらないしゃっくりのように)。その心は…というと、つまり私の場合は、過去、現在と(そしておそらく未来もだが)人生の中で体験し、感じた気持ちを、これほどまでに的確な表現で、言葉で、会ったこともない昔の人物が、ここに書き残している!!名著(すなわちそれが優れていると感じる人間が多い)だからこそ、そんなに時を経ても、今この私の手の中に書物として存在しているわけで、そう考えるとさらに驚くべき可能性が浮かび上がる。すなわち、もしかしたらこの(死刑囚の馬車の中での)感覚に、私のように、共感したり、共鳴したり、自分を重ねて衝撃を受けた人が存在しているということだ。私は今まで、自分だけがその“死刑囚”の気分だったのだ。でもまず、少なくとも、作者のドストエフスキーはこの感覚を知っている。そしてそれを読んできた私以外の人間も知っている(!?)こんな、人に言うのは憚られるような気持ちを。心の中にしまっておかなければならないけれど、心の中にしまっておくには重たすぎる気持ちを!そんな気持ちが描かれた物語を通して、会ったこともない異国の人と、他人と、しかもたった一人部屋でページをめくるだけで否応なしに結びつく。この嫌悪感、不快感、さらには少しの安堵感を伴う衝撃。

こちら個人サイトのリンクです。上記の《カラマーゾフの記録》の他、《罪と罰の記録》、絵やblog、読んだ本の感想などをちまちま更新しています。


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