【BOOK】『じんかん』今村翔吾:著 人間の根源を問う大河浪漫
これはもはや「大河ドラマ」である。
読み始めてすぐにそう感じた。
ひとりの男の一生を追う物語は、波瀾万丈と表現するだけでは決して表せない、重く太く深い何かがある、そう思わせたのだ。
「人はなぜ生きるのか」生涯をかけて問い続けた、その答えを、松永弾正久秀は見つけたのか。
本作は、人間とは何かを突きつける、今という時代に読まれるべき慟哭と賛美の書だ。
本作の主人公・松永弾正久秀は、従来の史実では、主君である織田信長に対して二度も謀反を起こし「裏切り者」と言われ、室町将軍の暗殺にも関わったとされ、さらには東大寺の大仏殿を焼き払ったともされている。
だが、それは本当に久秀が悪意を持って行ったのだろうか。
戦国一の極悪人と謳われた男は、本当に悪人だったのか。
物語は、尾張国の戦国大名・織田信長のもとへ、小姓頭である狩野又九郎が参じるところから始まる。
松永久秀が二度目の謀反を起こしたという報告を信長にするためである。
即断即決、無駄を嫌い、報告は何よりもまず結論から述べよとする「独裁者」信長への、決してよい知らせではない「謀反」をお伝えするという大役に、又九郎の緊張感は最高潮に達している。
しかし、この日は機嫌が良いのか、信長は知らせを聞いて不敵に笑う。
そして、信長が久秀から直接聞いたとされる、久秀の生涯の物語を、信長の問わず語りに聞く、という構成で本作は構築されていく。
ひとはなぜ生きるのか
「ひとはなぜ生きるのか、生きる意味があるのだろうか」
この問いを、久秀は生涯をかけて追い続ける。
それは、幼少時からの記憶が、そうさせたのだろう。
何も悪いことをしていない、ただ平和に暮らしていただけの家族が、一方的に米を奪われ父は殺された。
夢を追い、仲間から慕われていた多聞丸が殺され、まだ何の力もない自分が生き残ってしまった。
そうした理不尽が、九兵衛に神仏などいないと思わせた。
ただ、それでも、自分たちが生きた証を、何か一つ残して生きたいと願ったのだ。
最初は、ただ弟・甚助を守りたいという一心だった。
人は何のために生まれてくるのか。
犬若、風介、勘次、喜三太、梟、多聞丸は、何のために生まれ、大人になる前に何故死ななければならなかったのか、わからなかった。
そして、生き抜いた日夏を守らなければと思うようになった。
本山寺の宗慶和尚と出会い、堺で新五郎と茶の湯に出会い、三好元長と巡り会う。
さらに仲間が増え、九兵衛の周りには次第に人と人との「間」が形作られていった。
それでもまだ、わからなかった。
人は何のために生まれ、何のために生きているのか。
人は、ひとりでは、己が己であることを証明できない。
九兵衛が甚助とともに新五郎と出会う際、九兵衛が確かに九兵衛であるという証左を見せてみよ、と言われるが、己が己であることを証明するのは存外難しい、ということを言われてしまう。
己が己であることを明かすために物に頼るとは、と九兵衛は皮肉めいた気持ちになる。
これは現代人も変わりない。
自分が自分であることを示すために、免許証や履歴書や就活のエントリーシートやネットやSNSでの書き込みに至るまで、さまざまな「自分以外の物」に頼って証明しようとする。
人間とはなんと不確かな存在なのだろうか、と九兵衛は嘆く。
「じんかん」とはすなわち「人間」であり「人生」である
「人間」という言葉は実に不思議である。
普通「人間」と書くと、一人の人間、すなわち生物としてのヒト一個体を指すことがほとんどだろう。
しかし、それならばどうして「人」の「間」と書くのだろうか。
人と人との「間(あいだ)」に、いったい何があるというのだろう。
普通は見えない、その「何か」があるからこそ、人の間で「人間」となるのだろう。
人は一人では生きていけない。
人は他者とコミュニケーションをとることによって初めて「人間」となる、ということか。
九兵衛=久秀が、己の真っ直ぐさを突き詰めていった先に、その一途な心意気に呼応した「仲間」たちが集い、「人」と「人」との「間」に生まれたものこそ、「人間」であり「じんかん」すなわち「世の中」でもある。
九割九分九厘と一厘との差
九兵衛を評して弟である甚助は、「兄者は一厘のほう」と言う。
松永長慶が死したとき、九兵衛は三好家がこれから迎える難局を想像する。
長慶と距離をとりながら、ともすれば己が天下を取ろうと画策する三好三人衆を見て、九兵衛は歯噛みする。
人というのは、実にはかなく頼りない生き物。
己の理想を追い求めようと行動するのは、一厘しかおらず、残りの九割九分九厘は、ただ情勢を見守るだけである。
そういった意味では武士も民衆も変わりない。
身分の差すら、意味などないと思うのだ。
九兵衛は常々、神も仏もない、と公言してきた。
武士も民衆も差がない、という思想が生まれたのは、常に純粋に「人間」を見ていたからであろう。
九割九分九厘の人間は、「己の代には関わりない」と考える無責任な生き物である。
甚助は
と言う。
そんな世の中にあって、「一厘」の者は「抗う強さ」を持った者だという。
ひとりの人の中に、強さと弱さを同じくらいの割合で持っている。
だが、その時代を切り開こうと抗った者が強いと評されるのだ。
そして、その抗った強さを持った者は歴史に名を刻み、その名がまた時代を経て、次の時代の抗う者を奮い立たせる。
そうやって、時代は移ろっていくのだろう。
時代を切り開く、抗う強さには何が必要なのだろうか。
ひとつは、信念。
己が思う、こうあるべきだ、という想いを己自身で信じ続けられるかどうか。
主君、松永長慶の夢に共感し、その理想を支えることを選んだ。
もうひとつは、純粋にものを見る目。
些末なことに目を奪われることなく、真っ直ぐに本質を見抜くこと。
武士も民衆も変わりなく、生きる価値は同じであると見抜いた。
さらには、なぜと問い続け、答えを追い求め続ける姿勢。
「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」を問い続けた。
だからこそ、甚助は九兵衛を「一厘」だと評したのだ。
大河ドラマを凌駕する圧倒的時代エンターテイメント作
今村翔吾作品である。
もう何も言うことはないであろう。
圧倒的なエンターテイメント性を持ちながら、人の根源を問う物語を構築する、その手腕は畏怖の念を覚えざるを得ない。
あらゆるシーンで映像が浮かび上がる、その描写力。
ラストシーンは、史実として分かっていながらも、泪が頬を伝う。
人の生涯の、春も夏も秋も冬も、その有り様を照らす、長大な歴史絵巻を堪能させていただいた。
小説を読んで「嗚呼、読んでよかった」と感謝したのは、初めてかもしれない。
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