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普通のシングルマザーがフェスを夢にする-音楽と共に歩んできた no.9《激動の私生活》

次の生活の糧

それから3ヶ月ほど後のことだった。

私は店をたたんだあと生きる術として、
自分の店をもつ計画を始めた。

間借り営業してやっていた店
「花盛栄場」を
新しく物件を借りてやろうと思った。

以前主人との店を始める時に
お世話になった商工会の人と
コンタクトをとり、
相談に乗ってもらいながら、
街を歩き、物件探しをした。

奈良の街をかなり歩き回り、
不動産に出ていなそうな
古民家を昔から住む人に
聞いてもらったりもしたが、
かなり苦戦していた。

急なお誘い

「今、出て来れない?」
ある日商工会の人から、1本の電話をもらった。
この方は以前からかなり親身になって
ベストな方法を一緒に考えてくれる方だった。

待ち合わせ場所は、
過去にイベントでの飲食出店で
何回か一緒になったことのあるバー。

着いて早々に
「この人と話した方がいいよ」と
バーのマスターに言われた。
とある方の隣の席に座るように促された。

その方は長い間エンターテイメントや
イベント制作に携わる仕事を
関東を中心にやってきた方で、
1年ほど前に独立し、
岡山の蒜山という場所に会社を設立したと
話して下さった。

その方も、初めてこのバーに
来たとのことだった。

この方が、少し前まで私が所属していた
会社の社長、I氏である。

I氏は「奈良でフェスがやりたいんです!」
という私の話を興味深く聞いてくれた。

私はただただ、熱量だけで話していた。

今考えれば、アリーナ級のイベント制作や
大御所アーティストのマネージャーを
25年以上やってきた人に、

小規模の町のイベントとしか
やったことがない私が、
あんなにペラペラと話すなんて
おこがましいにもほどがある。

でも、私はそのくらい
アクションを起こしていくことへの
衝動に駆られていた。

別に相手に期待していたわけではない。
ただ突き動かされて話していた。

「何か協力できることがあれば、
お手伝いさせてください」と
I氏が言ってくれた。

連絡先を交換して、その日は終わった。

「奈良で音楽を通して発信しようと
している人がいて嬉しいです」と
連絡をいただいた。

でも生活エリアの違いから、
私は正直、一期一会の感覚でいた。


次の日の仕事が終わったころに、
昨日のバーのマスターから連絡があった。

「今から来れない?」
2日続けて、急な呼び出しが
多いなと思いながら、
何かあるから呼んでくれているんだろうと、
「少しだけなら」と
待ち合わせ場所に向かった。

そうしたらI氏がいた。

マスターは何かを感じ取ってくれて
いたのだと思う。
そこでまた話す機会をもらった。

I氏はこの後、
日本でも屈指の大規模フェスの制作に
今から向かうんだと話した。
普通にかき氷を食べて
いろんな話を質問したりして終わった。
バーのマスターと彼を見送り、
私はまた日常に戻った。

その後のやりとり

その後、少しお互いの
好きなアーティストの話を
LINEで話したように思う。

自分がやってきたイベントの話もしてくれた。

I氏の会社は、
ただエンタメ制作をするためだけの
会社ではなかった。

「トナリの人を笑顔にする」
インスタグラムのプロフィールには
そう書かれていた。

といっても何をしている会社なのか
いまいちピンときていなかった。

再会

2ヶ月後、I氏から連絡があった。

「奈良で、とあるギタリストの
ゲリラライブをするので、きませんか?」と。

もう少し話してみたいという気持ちもあり、
私はその場所に子供を連れて向かった。

ロサンゼルスで活躍する
ギタリストが奈良の平城旧跡で
ギター1本でライブ配信していた。
あまりギターだけ聴く機会は今まで
なかったのだが、圧巻の演奏だった。

さらにその1ヶ月後、
またギタリストの方と一緒に
奈良に寄ると連絡があり、
バーのマスターのところで少しだけ話した。

その時にまた、
イベント制作で手伝えることや
足りないパートがあったら
なんでも手伝います!と言ってくれた。

そこでやっと、
自分がやろうとしているイベントについて、
相談を始めたのだ。

とても親切にいろんな提案をもらった。

その中に会社から
ドキュメンタリー的に
「私の活動を発信しませんか?」
という提案もあった。

でも私には前に出る勇気がなかった。

勇気というか、なんとなく
「自分の人生は裏方のほう」だと
思っていたのだ。

揺れ動く私生活

そんなことと並行して、
私は12年半続けた店をたたんだ。
主人と別れることにした。

たくさん周りに迷惑をかけ、
子供たちや親に辛い思いをさせてしまった。

「離婚しようと思う」と
話した時の子供たちの突然として
溢れ出す大粒の涙と
大きな鳴き声は、
一生忘れることのできないくらい
辛かった。

わざと花火大会の前に話した。
そしてすぐにそこに向かい、
気を紛らわさせた。
そんな稚拙なやり方でしか
かわす術がわからなかった。

主人は町から出ていった。
娘と息子との3人での暮らしがはじまった。
まだこの先の彼等の環境を
守り切れるほどのことが揃っておらず、
自分自身も不安でいっぱいだった。


店をやる計画は
いつまで探してもいい物件が見つからず、

これは今やるタイミングではないのだと
ついに諦めて、アルバイトを始めた。

ゴルフ場、蕎麦屋、花屋。
3つ掛け持ちした。
生活を続けるためだけのアルバイト。
抜け出せるのか、
先が見えなくなって怖かった。

メンタルの不安定な状況はひどかった。

ぼーっとして何もないところで
子供を乗せているのに
車をぶつけてしまった。
幸い自損で怪我はなかったが。

家のルーティンが億劫になり始め、
ゴルフ場のバイトでは
信じられないくらい
性格の悪い上司にあたった。

離婚の話し合いもきつかった。

本当にどん底だと感じていた。

止まってられない


止まっていられない。
ただイベントをすることだけが
希望だった。

慣れないアルバイトをしながら、
合間をぬってイベントに向けて
企画書を作成した。

何をしたいのか、
具体的に書いていくと
ものすごく硬い言葉しか生まれなかった。

なんの面白みもない。

開催場所、ステージ環境、
アーティストの出演オファー、
出店者集めなどは
周りの友人たちに助けて
もらいながら進んでいったが、
正直焦りがあった。

自分の中にある情熱を、
わかりやすく人に伝える
手段を、私は知らなかった。


あとがき

「自分の人生は自分が主役」
そういう感覚であんまり生きたことが
あんまりありませんでした。

誰かが幸せになればそれでいい。
調和を保つことでよしとしていました。

でも自分を大切にすること、
ワガママにやることとは違って
自分の本心と向き合うことを
怠っていたように思えました。

でも、店をたたむ決意を始めたころから
少しずつ自分の中で何かが変わって
いった。

そんな感覚はあります。

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