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子どもは生きる哲学者

2008年4月に始まったY大学医学部小児科で入院中の
子どもたちだって、治療以外でも楽しむ権利の思いにこたえようと始まった
院内ミュージアム・その一環で楽つみ木広場が院内プレールームで始まった。毎月一回。
2019年12月で92回目になる。

:小児科医局先生の見つめた報告です:
小児科病棟で「つみ木広場」が毎月開かれるようになって久しいが、「つみ木広場」は完全に入院生活での一つの時間の単位になっている。例えば「入院してから4回目のつみ木広場だね」といった具合だ。そして、「いくつ寝たら次の「つみ木広場」なの?」とか、「つみ木をしてから退院したい」とか、子どもたちの意識の中にしっかり組み込まれている。
大学病院の小児科病棟では、専門的な治療を要する子どもたちが闘病生活を送っている。以前は不治とされた多くの病気が治る様になったが、長期の入院生活が必要な場合も少なくない。半年から1年の入院生活を送る子ども達もたくさんいる。そんな入院生活が少しでも潤いのあるものになるようにと、クリスマスなどの季節の行事以外にも、サッカーJリーグ選手達や、地元出身のオリンピック選手、演奏家、バルーン・アートのおじさん、県立科学館の学芸員さん・・・と色々な方々が来て下さり楽しい時間を過ごしている。こうした行事は毎月のようにあるのだが、個々のイベントは概ね年に1回であって、子ども達が次回を楽しみにするような継続的な行事があればと常々思っていた。
そんななか、看護科のOさんから木楽舎つみ木研究所のことを聞いた。
幼稚園の親子会で「つみ木広場」に参加したら、とても楽しかったそうで、病棟の子どもたちにも楽しんで欲しいと、資料を届けて下さった。そこで思いきって資料に出ていたアドレスにメールを出してみた。すると、その晩のうちにお返事をいただいた。「…病院で病気と闘う子どもたちに「つみ木広場」を体験してもらいたいと以前から思っておりました。「病気の子どもたちにも、つみ木体験を」というお話しは、願ってもないお申し出で大変嬉しいです・・・」。
こうして2008年4月から始まった「つみ木広場」だが、回を重ねるなかで毎回のように何かしら印象に残る出来事がある。そして、その全てが自分だけの記憶にとどめておくのが惜しいような輝きを宿している。そこで、日頃子どもたちと接する多くの人達と共有することができればと、6000個の「つみ木」と病棟の子ども達が織りなす珠玉のエピソードを、拙い文章だが紹介させていただこうと思う。「つみ木研究所」がわが町にあることに感謝しながら。

記念すべき第一回の「つみ木広場」がはじまった。子ども達が少し恥ずかしそうに、そして嬉しそうにプレイ・ルームに集まってきた。「つみ木おじさん」こと荻野雅之さんと、息子さんの「つみ木お兄さん」こと慶昌さんの温かな励ましのもとで、子ども達は思い思いに「つみ木」を積んで行く。そんななかで、早速に小さな事件が起こった。ある女の子が積んだ「つみ木」を、別の女の子が崩してしまったのだ。
崩した女の子は、それまでも自分で積んだ「つみ木」を途中でわざと崩したりと少し乱暴な振る舞いが気になっていた。崩された女の子が積み上げたのは数えられるぐらいの「つみ木」だったので、崩した女の子も大いしたことはないと思ったのだろうか。いずれにせよそれほど悪意もなく崩したことは確かだった。ところが、崩された女の子は、数は少なくても一生懸命に積んだ作品が台無しになってシクシクと泣き出してしまった。崩した方の女の子の方は、思いがけない涙に戸惑い逃げるように向こうに行ってしまった。目の前の一瞬の出来事に、どう対応していいのかと困惑して「つみ木おじさん」の方を見ると、泰然自若と笑顔で見守っている。しばらくすると、崩された女の子も。崩した方の女子も、また夢中で「つみ木」を積み始めた。
会の最後に、各自が「つみ木」作品を抱きしめるようにして「ありがとう」の掛け声とともに崩すというイベントの時間になった。どうかなあと見ていると、最初は乱暴な振る舞いが目立った崩した女の子も、大切そうに自分の作品を抱きしめている。また、崩された女の子も、今度は自分で慈しむように作品を抱きしめて崩した。大人が声にがして教えるまでもなく、積み上げた「つみ木」作品の大切さを、崩された女の子の涙が崩した女の子に教えてくれたことが実感された。「つみ木おじさん」が何も言わずに見守っていたのは、こうなることを沢山の経験の中でわかっていたのだ。
小児病棟での入院生活の中では、子ども達が他の人の気持ちを吸取るという機会はとても限られている。いや、それは子ども達が一緒に遊ぶ機会が少なくなっている咋今では、病院内に限ったことではないのかも知れない。「つみ木広場」はすごいぞ、最初の会でそう確信した。
毎月開催される「つみ木」広場が病棟の子どもたちの中に定着してくると、子ども達が開催を心待ちにするようになった。広場のある日には、荻野さん達がプレイ・ルームに姿を見せるのを待ちわびて、先を争って積み始めるようになった。そこには、小児科病棟とは思えないような子ども達のエネルギーが満ち満ちている。しかし、そんな活気が、新しく入院してきて病棟にまだ慣れない子どもたちにとっては少し重荷になってしまう。
新しく入院してきた女の子は、ポスターを見て「つみ木広場」を楽しみにしていたのに、活気に満ちた常連の子ども達の様子に尻込みしてしまったようだ。
プレイ・ルームの様子を気にしながらも、自分のベッドでお母さんと静かにしている。「出ておいでよ」と声をかけても、首を横に振るばかり。そんな様子を真っ先に「つみ木お母さん」の荻野絹代さんが察して、ベッドまで「つみ木」を届けてくれた。すると、ベッドの上でサイド・テーブルに少しずつ積みはじめた。表情がぱあっと明るくなってくる。そして、最後にプレイ・ルームに積み上げられた作品がライト・アップされる場面になると、ベッドから降りてのぞきに来た。
翌月の広場の日、楽しみにしていたのにやっぱりプレイ・ルームには出て来られず、ベッドで「つみ木お母さん」の運んで来てくれた「つみ木」をつみ始めた。しかし、しばらくするとプレイ・ルームにやってきた。ベッドの上では飽き足らなくなったのだ。「つみ木おじさん」の「○○ちゃんが来たよ。さあ拍手!」という掛け声で拍手で迎えられて恥ずかしそうにしたものの、一生懸命に「つみ木」を積み上げ始めた。「つみ木お母さん」は、そんな彼女のためにせっせと「つみ木」を集めてきてくれ、「つみ木お兄さん」が作品を誉めてくれた。そして迎えた三度目の「つみ木広場」は、もう最初から最後までプレイ・ルームで皆と一緒に楽しんだ。
そんな女の子が長い入院生活を終えて退院し定期受診で外来にやって来た。退院のお祝いに自分でお願いして「つみ木」を買ってもらい、弟や妹と「つみ木広場」をやっているんだと、おっとりした口調で楽しげに教えてくれた。その笑顔に胸が一杯になってしまう。それとともに、「つみ木広場」が毎月開催されることの意義を改めて思った。

長期の入院生活の中で誰よりも毎月の「つみ木広場」を楽しみにしている女の子がいた。大胆かつ繊細な発想で積み上げる「つみ木」の建物は素晴らしく、「つみ木おじさん」から名人の称号をもらい受けていた。ところが女の子は大きく体調を崩してしまった。何とか「つみ木広場」に参加できるようにと、女の子の体調が上向くのを待って日程を決めたのだが、「つみ木広場」の直前に再び体調を崩してしまった。それでも「つみ木」がやりたくて、母親に抱きかかえられて途中からプレイ・ルームに出てきた。「つみ木名人」の登場に拍手をしたくなる気持ちを抑え、みんないつも通りに女の子を迎えた。しかし、さえない顔色と細くなった手足から女の子の具合が良くないことは誰の目にも明らかだった。
そんな姿を見たある女の子が、「かわいそうだねえ」と嘆くように自分の母親に声をかけた。その声に部屋の空気が一変した。声を掛けられた母親も黙っていた。すると、もう一度哀れみを込めて「かわいそうだねえ」と母親に同意を求めた。気持ちが込められた分だけ、言葉は氷のような冷たさを持って響いた。
気力を振り絞って出て来た「つみ木名人」も、うつむいてしまい「つみ木」を積もうとしない。
重苦しい雰囲気を一変させたのは、同じく「つみ木広場」が大好きな男の子の行動だった。男の子は、「つみ木名人」が焼印の入った「つみ木」がお気に入りだと知っていた。足に不自由がある男の子は、数少ない焼印入りの「つみ木」を拾い集めると、黙ってそれを彼女の許に運んだのだ。「つみ木名人」も、それに応えて震える手で大切に積み始めた。程なく和やかで楽しげないつも通りの「つみ木広場」になった。
僕には「かわいそうだねえ」と言った女の子を非難する資格はない。なぜなら、テレビや新聞で伝えられる国内外の惨事に対して、自分が同じような感想を絶えず漏らしているからだ。嘆く事で区切りをつけた気分になって、行動を起こすことはまずない。この出来事は、単なる同情の言葉は当事者には胸を痛める鋭い刺があることを気付かせてくれた。そして、男の子の行動は、世の中の僕達が成すべきことを明確に示してくれている。言葉ではなく当事者のことを考えて自分の出来る行動を起こすことが大きな一歩になるということを。

小児科病棟での「つみ木広場」は、入院中の全ての子ども達に開かれているが、中学生はなかなか出て来ようとしない。しかし、会を開く私達に気を遣ってか毎回のように律儀に顔を出してくれる男の子がいた。体調の許す限り、会の後半にプレイ・ルームに現れ部屋の片隅に静かに陣取って積み始める。出来上がる作品は決して大きなものではないが、男の子の人となりを反映しているのかのように、しっかりと積み上げられていた。出来上がると、嬉しそうに自分の携帯電話のカメラで写真に収める。作品を誉められると少し恥ずかしそうに静かに笑った。
そんな「つみ木広場」を何度か楽しむと男の子は退院して行った。しかし、それからしばらくして体調を崩した男の子は再び入院をせざるを得なくなってしまった。再入院してからは、なかなか体調が整わず、「つみ木広場」に顔をだすことも難しくなってしまった。それから数ヶ月の間、男の子は非常に厳しい治療に立ち向かうことになったのだが、持ち前の忍耐力で乗り越えると少しずつ体調を取り戻すことができた。そして、とうとう二度目の退院の日を迎えることになった。
退院を翌日に控えてタイミングよく「つみ木広場」があった。久しぶりに広場に顔を見せた男の子は、以前と同じようにプレイ・ルームの片隅で静かに「つみ木」を積み始めた。3種類ある「つみ木」の中から台形の「つみ木」を選ぶと、1つずつ階段状に丁寧に積み上げていった。崩れにくいように、ゆったりとカーブを描いて積み上げられた「つみ木」の山は、時間とともに幾重にも重なり合って美しい作品に姿を変えつつあった。周りにいる誰もが男の子の意図を感じて、自分の周囲にある台形の「つみ木」を男の子の許に運んでくれた。そして、男の子は素晴らしい集中力で皆が運んでくれた「つみ木」を積み上げていった。最後の1つを積み上げると、さすがに疲れたのだろうか、大きく息をついた。
力強さと美しさが見事に調和した作品には、男の子の内面に育っているものが映し出されていることが誰の目にも明らかだった。その出来映えは、まさに「つみ木広場」の卒業制作と呼ぶのに相応しいものだった。

いつものように活気に満ちた病棟の「つみ木広場」の中で、気になる女の子がいた。初めて参加したその女の子は、みんなが熱心に「つみ木」を積む様子を楽しそうに見ていた。しかし、自分でほとんど積もうとはせずに、ただ微笑みをうかべながらみんなの輪の中にいた。
女の子は、僕座ると近くにやってきた。僕が何を積むのか見にきたのだろう。そこで女の子に手伝ってくれるように頼んでみたが、手を出そうとしなかった。幾つか積んだところで、今度は女の子に「つみ木」を1つ手渡して、手を取って一緒に積んでみた。すると嬉しそうに僕の顔を見上げてくる。「よし、それならもう1つ」と手渡すと何度も自分で積んだ。しかし、「つみ木」はズレて置かれていて、これでは上に積み上げることはできない。次の「つみ木」を手渡すと、横の方に「つみ木」を繋げて置くように導いた。そうやって女の子が「つみ木」の列を長く延ばしている間に、僕は少しずつ女の子が置いた「つみ木」の向きを直した。そして今度は、長く延びた「つみ木」列の上に重ねて2段目を置いてみるように促してみた。
そうやって3段目まで積まれた後に、女の子を促して少し離れたところから積んだ「つみ木」を一緒に眺めてみた。女の子は自分の積み上げた「つみ木」が立派な作品になって来ていることを感じたようだった。あとは、もう「つみ木」を女の子の手許に置いてあげるだけで良かった。いつの間にか、「つみ木」の向きも正しく置かれるようになっていた。こうして作品が積み上がると、女の子は僕から離れてみんなの中に入っていった。そして、自在に「つみ木」をつみはじめた。
僕はしばらく呆然としてしまった。こんな身近で的確にしかも短時間のうちに、人間が「学ぶ」と言うことを見て感じたことは今までになかった。女の子は「つみ木」を積むのに必要なスキルを備えていたのだが、それを生かして遊ぶ術を知らなかった。僕がした事は、軌道に乗るまで寄り添って少しだけ手を貸したのと、成果を一緒に見ただけだった。それだけなのに、女の子の中に育っていたものが見る見る間に姿を現してきたのだった。「教える」ということがどういうことなのか、そしてどうしたらいいのか、大切なヒントを女の子に教えてもらった。

#子どもは生きる小さな哲学者 !!!!!!!!

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