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敗戦後の昭和24年、天皇はカトリックに改宗させられることになっていた!

はじめに

神道を主宰する天皇が、米国とヴァチカンの協力の下、カトリックに改宗させられることになっていた、と聞くと、まさかと思う人が多いはずである。太平洋戦争敗戦の直後の1945年(昭和20年)9月、天皇はダグラス・マッカーサーの住むアメリカ大使館を訪問し、マッカーサーに対してキリスト教徒になってもよいと伝えたとされている。これは天皇の本心から出た言葉なのか、それとも背後に何らかの策動があったのか?

天皇家とキリスト教

本論考を始める前に、天皇家とキリスト教の関係を少し説明する。昭和天皇(裕仁=大正天皇の第一皇男子)の母親である貞明(ていめい)皇后はキリスト教に深い理解を示し、天皇にキリスト教に帰依するようすすめていたという。また天皇の后である良子(ながこ)皇后にも、秩父宮(大正天皇の第二皇男子、つまり天皇の弟)、高松宮(第三皇男子)、三笠宮(第四皇男子)と共に、キリスト教を学ぶよう命じた。終戦直後、この三人は、週に一回、聖書の講義を受けた。また宮中はキリスト人脈で溢れ、賛美歌が流れていたという。三笠宮は、日本旧約学会(1933年に創立された旧約聖書を研究する学術団体)の会員となり、ヘブライ語が堪能であった(専門は古代オリエント史)。また高松宮はキリスト教に深く帰依していた。天皇の弟宮である常陸宮も熱心なクリスチャンであった。

1946年(昭和21年)3月、天皇は米国教育使節団と会見した際、皇太子(明仁)の家庭教師の人選を使節団に依頼した。この突然の発表は、米国側にとって大きな話題となったが、人選の結果、クェーカー教徒のヴァイニング夫人が選ばれて、皇太子はクリスチャンとなるべく教育が行われることになった。皇太子は、後に「テニスコートの出会い」を通して正田美智子と出会い、1959年4月10日に結婚した。正田美智子は、カトリック系の双葉学園を経て、やはりカトリック系の聖心女子大学を卒業した才媛であり、カトリック教徒である(因みに正田家は祖父母の代からカトリック)。聖心女子大学は、上智大学と共に、カトリックが日本をキリスト教国にするために、最も力を入れて来た大学である。良家の子女をカトリックにし、エリート支配をより堅固なものにしようとしたのである。従って皇室の妃にカトリック信者を入れるというのは、カトリック界の最高の希望であった。

前述の「テニスコートの出会い」は、当時、最高裁判所長官であり、カトリック界の大御所であった田中耕太郎と、やはりクリスチャン(聖公会)であった慶応義塾の小泉信三の仕組んだ「見合い強制婚」であった。正田美智子は欧州に逃避して、「お断り」の手紙を書くが、彼女の両親は両陛下の強い要望を受けると、辞退できないと悟り、最終的に結婚を承諾した。田中と小泉そして聖心女学院のブリット院長は、皇室のキリスト教化のためには是非ともこの結婚を実現したいと願っていたのである。

斯様に宮中はクリスチャンで溢れていたのであるが、天皇は昭和20年9月27日にマッカーサーを訪問して、「クリスチャンになってもよい」と告げたり、また明仁皇太子の家庭教師にヴァイニング夫人を選んだりと、米国側に「キリスト教に基づく民主主義」を熱心に学ぼうとする印象を与えようとした。この昭和20年時点では、天皇は戦争の責任の免除は決まっていない時期であるだけに、米国側からは「天皇制の存続を願う日本側の姑息な政治工作ではないか」と思われたようである。

ダグラス・マッカーサーとは如何なる人物であったか?

1945年(昭和20年)8月30日、ダグラス・マッカーサー(Douglas McArthur)が、連合国軍最高司令官として厚木飛行場に降り立った。日本の政治、経済、文化、等、あらゆる面において絶対的権力を有する日本の実質的支配者となったのである。この絶対的権力の下、神道と国家の分離(神道指令)、教育制度の改革、国家主義的人物の公職からの追放、軍事裁判などが行われた。

マッカーサーは、ウェストポイント陸軍士官学校で、4年間の平均点が98点という、士官学校史上前例の無い好成績で卒業したが、敬虔な聖公会信者でもあった。むしろ彼にあっては、信仰のほうが大事であったようである。毎朝8時に、夫人と共に祈りを捧げ、夜は一人静かに聖書を読んでから就寝したという。彼の最大の目標は、「教会の歴史上最も目覚しい勝利」を収めて、つまり日本をキリスト教国にすることによって、『東洋のパウロ』ダグラス・マッカーサーとして、自らの名を永遠に教会史の中に残すことであった。

マッカーサーは、太平洋大戦における日本との戦いを通して、「日本人は劣等感に悩んでおり、それ故、戦争に勝てば幼児的残虐性を剥き出しにし、負ければ奴隷のように服従する」として日本人に痛く失望したようである。従って、日本をキリスト教国にすることにより神話的教育と因習的儀式主義に由来する未成熟の状態から、知識と真実による成熟した人間社会へ転換し、さらに盲目的運命論から、平和を希求する冷静な現実主義へ再生することを期待したのである。

つまり、マッカーサーは、「日本人はキリスト教を信じていないから、野蛮であり、非文明人である」と考え、日本をキリスト教国化しようとしたのである。日本国民は、天皇は神であり、天皇に生命を捧げることが全ての臣下の最高の生活目的である、と教えられていた。日本を戦争に導いた軍部はこの信仰を利用して戦争を遂行した。従って米国は神道を徹底的に改革する必要があることが分かっていた。天皇の人間宣言により、日本人の精神に空白が生じれば、それをキリスト教で埋め合わせることができると考えたわけである。1945年12月、マッカーサーは、戦前日本で奉職していた宣教師を含め、300人以上の宣教師を日本へ送り込んだ。また数万部の聖書を米国から輸入し、日本聖書教会を通して全国に配布した。

太平洋戦争終結時の情勢および米国政府による天皇の免責の決定

米国は、第二次世界大戦で、専制独裁国家のドイツと日本を打ち破ったが、最も怖れていたのは共産党が主導するソビエトであった。米国政府は、共産主義のアジアへの広がりを防止する防波堤として日本の役割を期待していた。1946年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が、市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で開廷した。米国政府は、オランダ他、一部連合国の主張を退けて、昭和天皇の戦争責任の訴追をしないことを決定していた(*1)。

もし天皇の責任を追及して、死刑に処せば、日本国中が大混乱に陥り、共産勢力が日本中に蔓延ることを懸念したのである。この裁判において、東条英機は、天皇とその側近他により戦争の責任の一切を背負わされ、他のA級戦犯と共に絞首台に登り処刑されることで、天皇の戦争責任の訴追問題は終わった。河井道(*2)を始めクェーカー教徒(クェーカー・コネクション)が天皇免責のために動いたとも言われているが、天皇免責は米国政府の高度な政治的判断によるものであった。つまりワシントン内部では「天皇は戦犯にせず、殺さず、ただ利用すべし」と決定していたのである。この段階に至って、米国政府、特にマッカーサーは、天皇を利用して日本をキリスト教国化するという夢の実現に向かったのであった。

マッカーサーの日本キリスト教国化の方針

1945年(昭和20年)9月27日、天皇はダグラス・マッカーサーの住むアメリカ大使館を訪問し、30分間ほど通訳を介してマッカーサーと会談を行った。この会談において、天皇は「私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して責任を負うべき唯一人の者として、あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました。」と言って、マッカーサーを感動させたとされているが、ある確かな情報筋によれば、「自分はキリスト教徒になってもよい」、と命乞いとも取れる発言もしたそうである。

ここで、大戦後、首相に上り詰めた吉田茂が登場する。大戦末期、吉田茂はじめその他保守的な日本人は共産主義を何よりも怖れていた。彼らにとっての当面の最大の懸念は、「天皇の生命の安全」と「天皇性の存続」であった。この懸念から、吉田茂を含め天皇の側近は、天皇に対して、マッカーサーに会ったらキリスト教徒になってもよい、と話すよう仕向けた。そして、これが日本人をキリスト教に改宗させようとするマッカーサーの政策に合致し、その発展に大きく寄与したのであった。

吉田茂は自らを「ヨゼフ」と名乗るほどの敬虔なカトリック教徒であり、日本におけるカトリックの布教に功績があったとして、教皇庁の最高のサン・グレナリオ騎士団勲章を授与されている。その娘であり秘書であった麻生和子は、九州の石炭王麻生一族の麻生多賀吉と結婚していた。多賀吉も熱烈なカトリック信者であった。和子の母(吉田首相の妻)の雪子は元内大臣の牧野伸顕(大久保利通の次男)の娘であったが、彼女も熱心なカトリック信者であった。吉田茂は敬虔なカトリック信者であったが洗礼は受けなかった。義父の牧野伸顕の助言もあって、信仰表現をしない方が得策であると考えたようである。牧野伸顕と天皇との間には深い信頼関係があり、天皇は宮中の大事な出来事の際には牧野に意見を求めた。

吉田雪子と麻生和子は英語が堪能であった。米国政府・軍関係者の間に多くの知己を得ており、軍上層部と直接交渉するほどの実力者であった。つまり米国政府は、吉田茂、雪子、麻生和子を介して、日本陸軍や海軍の動きから御前会議(*3)の内容まで把握していたのである。斯様に吉田茂は日本の最高機密を米国に流して、戦後の身の保証を求め、さらに出世の糸口をつかもうとした男であった。

ザビエル渡来四百年記念祭

1549年のフランシスコ・ザビエルの渡来から400年目にあたる1949年6月に「ザビエル渡来四百年記念祭」が、世界各国のカトリック教会から多数の聖職者を集めて日本各地で二週間に亘って行われた。この記念祭の最後を締めくくるミサとして、6月12日、明治神宮競技場において、数万人の信者の参列のもと、ローマ法王特別使節、大司教らにより野外ミサが執り行われた。競技場には、ザビエルの「奇跡の右腕」が飾られていた。

この記念祭と呼応して、昭和天皇は5月17日から25日間の予定で九州巡幸に出発した。大分県では別府小百合愛児園に入った。そもそも大分県(*4)は、長崎と並び、カトリックにかかわりの深い場所である。昭和4年にはローマカトリック扶助者聖母の会により修道院が設立され、昭和10年には児童養護施設として「別府小百合愛児園」が開園した。

愛児園には、お御堂(礼拝堂)があり、園長のソラリ・カルメラ女史が天皇のお出ましを待っていた。その場には大分カトリック教会のマリオマレガ神父(*5)その他多くの司祭や宣教師、各通信社の記者、カメラマンそれに愛児園の子供も多数いた。天皇を自然とお御堂へ誘導するような演出がなされていたのである。やがて天皇が御出ましになられ、カルメラ女史が、天皇をお御堂内へ案内しようとした。そのとき、宮内庁職員からやや大きな声で「陛下こちらへどうぞ」と声がかかった。陛下はお御堂に入らずに、そのまま通り過ぎた。宮内庁にとって、神道を主宰する天皇がお御堂へ入り、礼拝をすることは許されないことであった。天皇のお御堂入りは、すんでのところで回避された。もともと宮内庁は、「小百合愛児園には注意して欲しい、お御堂には近づかない。児童に会ったら直ぐに退園する」旨、関係者には伝えてあったという。

実は、この天皇のお御堂での礼拝、つまり天皇を劇的に回心させる試みは、マッカーサー元帥、ローマ教皇他枢機卿が仕組んだ「天皇をカトリック教徒にし、日本をカトリック教国にせん」とする策略であった。マッカーサー始め、内外のカトリック関係者は、天皇がお御堂に入り、礼拝をする瞬間を固唾を呑んで待ち構えていた。天皇がキリスト像の前で跪けば神父が天皇の背後からロザリオを首に掛けたであろう。その時、記者たちは「天皇がカトリック教徒になられた」というニュースを、天皇の礼拝する写真と共に全世界に流していた。しかし実際には天皇はお御堂には入らず、礼拝もしなかった。マッカーサー始め、カトリック関係者は、この報に接しさぞ落胆したことであろう。

天皇は12日に皇居に帰った。この日は神宮外苑で野外ミサが大々的に挙行されていた。吉田茂首相は、野外ミサで祝辞を述べる予定であったが、突如、出席を取りやめた。別府愛児園での策略が達成されなかったためであろう。マッカーサーの代理として、この祝辞の中で、何か大変なことを発表する予定になっていたに違いない。しかしこのミサでは何も起こらなかった。もし別府の愛児園のキリスト像の前で跪いて礼拝の写真を撮られていたら、「天皇はキリスト教に帰依されました。日本はカトリック教を国教とする国家になりました」と吉田首相が宣言していかもしれないのだ。

マッカーサーは、聖公会の信者であったが、日本人は儀式が好きであるから、カトリックの方が良いと判断し、敗戦後、数多くの司祭を天皇のもとへ送った。天皇は彼らからしきりにキリスト教への改宗を迫られたという。そして前記の「別府事件」が起こった。九州巡幸の最後に、カトリックの策略にはまるところであった。

皇居に帰った天皇は、宮内庁職員に礼を言ったに違いない。危うく策略にはまるところだったからである。このことがあってから、天皇はキリスト教、強いて言えばカトリックを嫌いになったようである。戦後の昭和36年夏、キリスト教に心酔している美智子妃に天皇が激怒したことがあった。美智子妃は絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りはすさまじかった(宮中聖書事件)。神道を主宰する天皇としては、常陸宮らと共にキリスト教に夢中になる姿は許せなかったのであろう。美智子妃は聖書を完全に封印され、失語症になり、この後しばらく御静養生活に入った。天皇は常陸宮を呼ばれ信仰問題について強い注意を促したが、常陸宮は「私はキリスト教を棄てない」と主張されたという。しかし天皇は周囲の一部侍従や女官たちのキリスト教信仰は認めていたようである。

この宮中聖書事件は、結局、常陸宮の侍従の解任で決着をみたが、それ以降の宮様のお妃選びに大きな影響を与えた。つまりそれまで民間の令嬢を中心に進められたお妃選考は一転して旧華族、学習院出身者に絞られるようになった。常陸宮妃に津軽華子(旧華族)さまが決定したのは事件の翌年のことだった。

ザビエル渡来四百年記念祭は、進駐軍、政府、自治体を巻き込んだ数百万人単位のお祭り騒ぎであったが、国民の間のキリスト教熱はあっという間に醒めていき、マッカーサーはこ記念祭の後、キリスト教のことをあまり語らなくなった。共産主義との戦いに専心していくことになる。マッカーサーの積極的なキリスト教伝道への尽力に関わらず、日本のキリスト教人口は増えなかった。1949年7月以降、キリスト教の熱風は一度も吹かなかったのである。

1950年4月16日付けロンドンタイムズは、「マッカーサーは日本をキリスト教国化すると主張し続けてきたが、実現しなかったようである。彼の努力は失敗した。」と報じている。

あとがき

上述の通り、別府事件での昭和天皇に対するキリスト教国化の策略は失敗し、またその後、マッカーサー解任の噂が流れると天皇のキリスト教熱は急速に醒め、やがて神道に戻る。しかし現在の上皇および上皇后はクリスチャンであるから、マッカーサーおよびヴァチカンの施策はある程度成功したと言えるであろう。今上天皇と皇后の宗教については確かではないが、雅子さまは双葉学園出身であるから、クリスチャンかもしれない。

ヴァチカンは、1549年のザビエル他の宣教師による布教と1949年からの日本キリスト教国化運動には失敗したが、まだ日本のキリスト教国化は諦めていないようである。しかし天皇を免責としたことで、最も大事な日本の共産化は防げたわけである。1981年にヨハネ・パウロ二世が来日した際、「日本神道はやがて神へ至る道である」と意味深なことを言っているそうである。

であるならばヴァチカンは、日本における国家神道は不可避である、と認めていることになる。「日本神道はやがて神へ・・・」の神はキリスト教の神を意味する。つまり神道は宗教ではないのでカトリックと相矛盾するものではなく、日本の神道の心はやがて唯一の信仰であるキリスト教に至る、と考えているのかもしれない。

*1:マッカーサーの上部組織であるSNWCC(国務省・陸軍省・海軍省調整委員会)は1946年7月に次のような指令を発布した。
「天皇制を直接攻撃することは、日本の民主的要素を弱体化させるばかりか、共産主義者や軍国主義ら過激派の勢力を強めることになろう。従って最高司令官は天皇を大衆化し、人間性を持たせるための方策を内密にとるよう命じる。」

*2:クェーカー主義の米国ブリンマー大学(Bryn Mawr College)で学んだ後、津田塾大学の教師となる。その後、1929年(昭和4年)恵泉女学園を創立した。クェーカー教とは、キリスト教の極左派のひとつであり、礼拝の際に霊感を感じて震えることからクェーカー(震える人)という別名がついているが、キリスト教とは見なされないこともある。日本ではキリスト友会として組織され、普連土学園が系列校である。また新渡戸稲造は代表的なクェーカー教徒である。

*3:国家の緊急な重大問題について、天皇臨席のもとに主要閣僚や軍首脳が集まって行われた合同会議。昭和16年9月6日に開催された第六回御前会議では「帝国国策要領」が決定された。昭和16年8月の米国の対日石油輸出禁止を受け、米英に対する要求を定め、要求が受け入れられない場合には、米英蘭に対する開戦方針が定められた。

*4:現在の大分県(豊後)をかつて支配した大友宗麟は、布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルを引見(いんけん)した後、仏教を見限りキリスト教に帰依し、洗礼を受けた。大分県はキリシタン石造遺跡の多さでは日本一である。また国東からは、「世界を歩いたキリシタン」として有名なペトロ岐部が出ている。

*5:マリオ・マレガ(Mario Marega)は、1929年(昭和4年)サレジオ会の宣教師として日本に着任。大分県で司牧にあたる傍ら、「豊後切支丹史料」を刊行したほか、大分県のキリシタンに関する古文書を収集研究した。2011年にマレガ収集文書がバチカン図書館で発見された。これにはキリシタン改宗誓約書、住民相互監視のための「五人組」確認書、棄教・改宗した切支丹の子孫「類族」を管理する台帳その他が含まれている。この史料は2011年にデータベース化されオンラインで一般公開された。

参考資料
①「天皇のロザリオ」上下巻、鬼塚英昭著
②MacArthur Saves Hirohito from Partners for Democracy, November 2002, Oxford Scholarship Online他多数

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