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【随筆】そうだ、私はなで肩だった。

「○月まで休職する手続きのために、前回とは別のお医者からの診断書が必要で……。」


校長先生からの連絡だった。

今の私にとって、外出はとてもハードルが高い。

いや、外出自体が苦なのではない。「自分の存在が知られている街」での外出が苦なのである。
急に職場から離れた私のもとへは、違う学校に勤める先生からも連絡がきた。ありがたいことだ。とても嬉しかった。でも既読を付けただけで、返事は未だできていない。

そうだ、コンタクトの予備もないから買いに行かねば。

街に繰り出す理由がまた一つ増える。億劫だ。
しかも世間は夏休み。お店のあるモールに行けば生徒に会う可能性も高い。

こうなれば、朝の開店と同時に足を運んでパッと買って帰ろう。行く前にお医者の予約も電話しちゃおう。面倒なことは一気に片付ける性格なのだ。

7時半にかけた目覚ましを止め、仕事に行くときのように手際よく準備を終えた。時刻は8時半。お医者は9時からだから、時間になるまでポケモンを乱獲していた。

「それでは、看護師の方から再度折り返しますので、少々お待ちください」


乱獲の時間が増えた。といっても5分程度のことだろう。私はスマホを膝に置き、ゲームのボリュームを下げて電話が掛かってくるのを待った。

ポケモンが出れば「にげる」を選択。草むらをうろつく怪しい少女。
ちらとスマホを見るとまだ2分しか経っていない。
じゃあ水の上を渡って、この場所に行って、あとは……。

またスマホを見た。水の上を渡る前からまだ2分しか経っていなかった。
時間が過ぎるのはこんなに遅かっただろうか。
家を出る時間も迫ってきた。そうだ、髪の毛まだセットしてなかった。といっても10分もかからないけど。私はスマホを持って洗面台へ向かった。

電話の折り返しがあったのは、それから15分後のことだった。
しかし私の体感は、その倍はあったように思う。


電話を終えてコンタクトを買いに行ったら、会員期限が切れていた。眼科へ行っての検査が必要だという。

承諾して眼科へ向かった。そして後悔した。

平日なのに利用者が多い。狭い待合の席に4、5人の人と、検査中の大人がもう一人。中には大人びた子どももいる。最近はスラっと背の高い子も多いから、中学生かもしれない。でも足元ネイルしているし、違うかも。

それで思い出した。もう夏休みなのだった。

他の大人たちも、保護者だったらどうしよう。対応しているお店の人にも知った名前の人がいるかも。目をしかめて名札を見るから、深々とかぶった帽子と相まってよほど気味が悪かったことだろう。それでも、確かめずにはいられなかった。心が落ち着かないのだ。

コンタクトを買い終えた頃には吐き気を覚えていた。今日は遠出してカフェを開拓するつもりだったが、どうしようか。帰るか。

道中ふとショーウィンドウを見ると、変に見栄を張っているような、そのくせに猫背の女性がいた。
私のシルエットってこんなだったかな。横にでかく見えないこともない。今朝の体重計では0.5キロ痩せてたんだけど。バルーンシルエットのトップスのせいか?
見れば見るほど、違和感が募る。

こんな日は……さらっと済ませよう。うどんか、そばかそうめんか……。

悩みながら車を発進させた。結局どうするか。とりあえず右折して、



そうだ。
今日は、平日なのだ。


「いらっしゃい」

カランと鈴のついた扉を開ければ、煙草の香りが充満していた。
見た目は古びた喫茶店で、中身は昭和にタイムスリップしたよう。例えるなら、むかーしむかしに放送していた朝ドラ「純情きらり」の喫茶マルセイユみたいな。

私はこの店が好きだった。

平日の20時まで開いているこの店で本を読みながらコーヒーをいただくのが、働いていた頃の私の月1の楽しみだった。

「まだお昼だけど……そうか~。世間は夏休みやね~」

マスターの言葉に、曖昧に返した。マスターは静かに奥の席に案内してくれた。

初めて来た時は友人と一緒だったが、忘れっぽい友はお店のことを覚えていない。それ以降は私も一人でしか来ない。だから、この古びた店を知っている知人は誰一人いない。煙草が吸える未成年禁止のお店だから、生徒も絶対来ない。ここは、私の隠れ家だ。

「はい、お待ちどうです」

そのお店では、クリームライスかカツカレーを食べると決めている。今日はカツカレーを頼んだ。家庭の味にちょっとだけ手間を加えたくらいの、スパイシーな香りが食欲を刺激する。いつの間にか吐き気は消えていた。

一口食べるたび、足が躍る。カツを頬張るたび、左手がもぞもぞ動く。夢中で食べて水を飲んだら、ほうっとため息が出た。むさくるしい煙草の香りを鼻に吸い込んで、深呼吸して最後まで食べ尽くした。

食後のアイスコーヒーを運ぶマスターに「ありがとうございます」と言った。マスターは微笑んだ。

そこで気付いた。私、今、笑った、かも?

クリームを注いだコーヒーをストローで混ぜると、氷がカラカラと鳴って心地よい。まだ30年も生きていないけど、なつかしい気分だった。一口すする。再びため息が出た。

そうか。肩に力が入ってたのか。私。

朝の電話待ちの焦りも、吐き気の原因だった呼吸の浅さも、全部肩のせいだったのか。

「夏は部活もあるんでしょ?」
「はい、明日から!」

お会計で、そう笑って返した。肩の力が抜けると、こうも自然に笑えるのか。
嘘は吐いたけど。ちょっとの罪悪感はあるけど、マスターには許してもらえる気がした。根拠もないくせそう思った。

また来るから。いつか話すから。だから待っててマスター。

お店の横にある大きめの窓には、150センチそこそこの女性が映っていた。足が短くて、ずんぐりむっくりで、なで肩だった。

見慣れた姿だった。
だから、ふふんと笑ってやった。



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