『サウンド・オブ・メタル』|音のない世界を体感した先にあるもの
「私の友人の話なんだけど…」で始まる話は、だいたい本人の話だ。
ただこれは「私の友人の話」ではない。私の個人的な話である。
『サウンド・オブ・メタル』、この映画を語るには、その話を書かざるを得ないと思ったので書いている。
私の中の良い友人に、突発性難聴を抱えている人がいた。
時たま入院もしていたし、入院をしていない時期も「耳鳴りがひどい」ということを言っていることがよくあった。
私は、その病状を理解しているつもりでいた。
耳がキーンとすることは自分にもあるし、その延長線上で病状がキツいものなのだろう、という”程度の”認識でいた。
「自分は相手のことを理解し、フォローもできている」そう思っていたような気がする。
ただ、それは慢心でしかなく、何も友人のことを理解できていなかった。
『サウンド・オブ・メタル』を観て、理解しようとする姿勢もなかったことに気づかされた。
『サウンド・オブ・メタル』は、ドラムのルーベンとボーカルで恋人でもあるルーが、メタルバンドの演奏をするシーンから始まる。
元々荒れていたルーベンだったが、ルーとバンドを組み安定し充実した生活を送っていた。
ただ、ルーベンの耳が突然聞こえなくなる。
水の中にいる状態で、水の外で誰かが話をしている声を聞いているとでも言うだろうか。
音が全体的にぼやけて、遠くから聞こえてくるよう。
最初は荒れるルーベンだったが、自助グループの中で生活をし始め、徐々に前向きになっていく。 そういうストーリーだ。
本作は今年のアカデミー賞で作品賞を含む6部門にノミネートされ、編集賞と音響賞を受賞している。
この作品こそ、音響賞を受賞すべき作品だと言い切れる。
事前に少しだけ情報収集をして鑑賞をしたのだが、多く見られたコメントが
「スピーカーではなくイヤホンをつけて観るべき」というものだ。そのコメントに従ってイヤホンをつけて鑑賞をした。
冒頭、イヤホンを通して、ルーベンの耳を通して、メタルの激しい音と体の奥まで響くようなドラムに熱狂した。
そしてその後、同じくイヤホンを、ルーベンの耳を通して、靄がかかっていて、遠くから聞こえる小さな音に絶望した。
耳以外の五感から読み取れることには、認識している対象は明らかに音を発している。
ただ音だけが聞こえない。聞こえるはずの音が届いてこない。
聞こえない世界、耳にストレスを抱えている世界は、(勝手に)想像していた世界と全然違った。
思っていたよりつらかった。思っていたよりもどかしかった。
自分は何も知らなかったし、知ろうともしてなかったのだと実感した。
ただ『サウンド・オブ・メタル』には光もある。
ラストシーン(これは稀に見る素晴らしいシーンだと思う)、ルーベンは静寂に包まれる。
ただかつての「世界に置いていかれた」ような静かさではない。
静けさ、平穏さと共に外とつながっている静けさだ。
その素晴らしさも、この作品に出会わなければ知ることはなかっただろう。
本作を通じて、私は過去の自分を恥じた。
ただそれに加えて、『サウンド・オブ・メタル』という作品の、映画の素晴らしさを改めて実感した。
その友人に出会う前に、『サウンド・オブ・メタル』を観ていたらどうだったろうか。
おそらく、かつての自分以上には想像力を持って友人に接することができたのではないか、思いやりを持って接することができていたのではないか、そう思う。
そうではなかった世界線の自分だけではない。
この作品を観た現実の多くの人も、そうやって想像力を働かせることができる。
同僚が、友人が、家族がーーー、耳に病気を抱えたとき、耳が聞こえなくなったときーーー、相手がどういう状態なのか、どう感じ、どういった感情を抱えているのか、それらを少しは想像することができる。
当事者の感覚、感情そのものはもちろん体感することはできない。
それは本人にしかわからない。
ただこの映画の体験を通して、少しは近づくことができると思う。何も知らないよりは、何も体感しないよりは、思いやることができると思う。
光が当たらない、あたったとしてもなかなか伝わらない。そんなモノ・コト・人を、映像エンターテイメントの枠組みを通して伝える。
映画とはそういうものであり、『サウンド・オブ・メタル』はまさに「映画」だった。
Photo by Tunahan Günkan on Unsplash
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