![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/110377832/rectangle_large_type_2_ae013e0e2dc4d256a4ef907cc937453c.jpg?width=1200)
【琴爪の一筆】#6『「複雑系」入門』金重明①
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/110158701/picture_pc_786738307904c1bf76dd075ef003f08d.jpg?width=1200)
宗教も科学も、不思議に満ちたこの世界を何とか説明しようという試み、という点では、同じものだ。
生命の謎まで』金重明著
講談社ブルーバックス 2023-04
p13より引用
ずっと似たようなことを考えていたのです。
きっとアプローチが違うだけなんだろうなと。
市井では、科学で解明できていないことは、やや否定的なニュアンスを含ませつつ、ざっくりと「オカルト」と括られたりする場合もあります。しかし、その本来の辞書的な意味の通り「見えていないもの」、つまりこの場合「現在の理屈では語りきれないもの」だとすれば、実は宗教でも科学でも、目指しているところは一緒で、いつの日か人間はそれら全てを包含しうる、核となるようなひとつの根本原理みたいなものを見つけちゃったりするのかしらん。なんてぼんやり考えたり。
『不思議に満ちたこの世界を何とか説明しようと』した先人たちの思考をかじりたくて(本当はしっかり腹の中に収めたいけど、私にとってはまだ「脂っこい」ので胃もたれしちゃう)、まずは、知への案内書とも言えるこのような新書などを手にして、学術の門をこっそり覗き見たりしてるとですね、やはりいろいろと考えちゃいます。
まず思うことは「この世界に存在する知の結晶たちを、私は1%も理解せずに寿命を迎えるのかもしれん」と(笑)。しかしそれでもいいのです。「知りたい」と思ってしまったんですよね。終わりのない道に足を踏み出してしまった。であれば、むしろ急ぐ必要もない。ここはひとつケツまくって、この世界の素晴らしい風景とも言える「知の結晶」をゆっくり眺めながら散歩することとします。