地元で酔いどれ天使にしあわせをもらう
一人暮らしを始めたころ、「おさかな天国」が流行っていた。
スーパーに行くと鮮魚売り場にはおさかな天国が流れており、親子連れの客が通りかかると、
「あっ、おさかな天国!さかな・さかな・さかな~♪」
と子供が可愛らしく歌い始めたりしたものだった。
そんなほほえましい光景を横目に自分も魚のパックをひとつふたつかごに入れ、奥の精肉売り場へと進む。
何か大音量の歌声が聴こえてくる…。
♪ ライラ ライラ ライラ ライ
ライラ ライラ ライラ ライ
ライラ ライラ ライラ ライ‥‥‥‥
精肉売り場に流れていたのはアリスの「チャンピオン」だった。
「チャンピオン」は1978年リリース。
ボクシングのベテランチャンピオンが、若き挑戦者に敗れる予感を感じながらも戦いに挑む、哀愁あふれる熱き名曲である。
私は精肉売り場でしばし立ち止まり、曲に聞き入った。
精肉売り場において、「チャンピオン」以上にベストチョイスな曲があるだろうか。いや、ないだろう。
なんかもーれつに肉が食べたくなる。
肉のパックを必要以上に買い込み、私は家路を急いだ。
私は約50年の半生のうち、半分を生まれ育った町で、あとの半分を現在住んでいる町で暮らしている。
実家は少し離れているものの同じ区内で、自転車で30分も走れば帰れる距離だが、町の雰囲気は全く違う。
私の実家のある町には下町風情あふれる商店街があり、両親はそこで商売を営んでいた。ご近所さんは皆顔見知りで、苗字ではなく「○○屋」と呼ぶのが普通。
そして、この町には変な人が多かった(お前が一番変だろというご意見はのちほど伺います)。
昼間から酒を飲んで通りすがりの人になれなれしく話しかける人。
自転車でぶつかりそうになって怒鳴り散らす人。
ご自慢の息子をさらけ出して女子校のまわりをウロウロする人。
ほんとに‥‥もう何やってんの⁉と説教してやりたくなるしょうもない大人の多さたるや。
最寄り駅のある路線にも変な人が多く、電車に乗ると1日1回はそういう変人に遭遇した。
酔っ払って乗客に絡むおじさん、などというのは日常茶飯事。
大学に通っていた頃よく目撃したのは、最寄り駅に出没するラジカセ男子。駅のホームにラジカセを置いてガンガン音楽を鳴らし、ひたすら踊り狂っていた。彼がいない日は、どうしたんだろうと心配になってしまうほどの頻度で目撃。
今でも忘れられないのは電車の網棚に寝ていた人。
ターミナル駅で電車を待っていると、ホームに入って来たガラガラの電車の網棚の上に横になっている人がいた。どうやって降りるんだろうと見ていると、彼は網棚の手すりをつかんで、まるで体操選手のような見事な動きでスッと着地。そのまま何事もなかったように開いたドアから降りて行った。
いったい何者なのか?なぜ網棚なのか?謎の多い人物だった。
一人暮らしで住み始め、今も住んでいる町は閑静な住宅街で、変な人は全くいない。
使う路線も実家にいたころと変わった。
乗客は都心で働く会社員らしき人が多く、酔っ払いや意味不明な行動をとる人にはとんとお目にかかれなくなった。
変な人がいないという安心感は嬉しいし、職場に近いという利点もあって、私は今住んでいるこの町をとても気に入っている。
けれど、実家のある町のあのわちゃわちゃした喧騒や、また変な人いたよ、という苦笑いが時々妙に懐かしく感じられることがあって、ああ、私はあの町で生まれ育ったのだなあとしみじみ思ったりするのである。
30代半ばで夫と結婚することになり、二人で私の両親に会いに行ったときのこと。
その昔、付き合っていた彼女の父親に怒鳴られた経験を持つ夫は、私の両親に会うのを極端に恐れていた。ようやく重い腰を上げて会いに行くことになったわけだが、彼の顔面は極度の緊張で真っ青。今にも吐きそうな様相だった。
「うちの親のんきだから大丈夫だよ。」
と落ち着かせようとするも、パニック状態の彼の耳には届かない。
バスを降りても夫の緊張は収まらなかった。
二人で商店街を歩いて実家に向かっていると、何やらこちらに強い視線を感じる。視線の主がふらふらと近づいてくる。
「おにいさん、おにいさん、彼女しあわせにしてやってよ。ね。」
で、でたー!
地元名物・昼間っから酔っ払って通りすがりの人になれなれしく話しかけてくるおやじだあーーー!!!いやー、帰って来たって感じ!
私は絡まれたくないのでその場から離れたが、夫はつかまった。
顔面蒼白ながら、
「うん。今しあわせにしに行くところ。」
などとおやじと普通に会話していておもしろかった。
実家に着くと、夫は「30過ぎてなかなか結婚しない変わり者の娘」と結婚してくれるありがたい人として救世主のような扱いを受け、酒と寿司でもてなされた。大好物の酒と寿司で夫の緊張もほぐれ、両親との面会は和気あいあいとした雰囲気で滞りなく終了。
今思い出すと、あの商店街で絡んできたおやじ、酔っ払いの姿を借りた天使だったのかもしれないね。